第六章

 藤子は雄太が亡くなったマンションを訪れた。何故ならこの場所は、公安が多くの部屋を借り上げていたはずだからだ。

 そうでなければ自宅にあれだけの仕掛けを施していたにも拘らず、彼がここに住む意味などない。竜崎が住んでいたアパート同様、エスの仲間達が集まっていたのだろう。そう推測していた。

 理由は他にもある。周囲に公安の息がかかった人間が複数いない限り、自殺を事故として処理するなんて出来なかったはずだ。少なくとも事故だと証言した目撃者だけは、彼らの協力者だった可能性が高い。

 しかし騒ぎが沈静した頃を見計らい、それぞれが住まいを引き払って別の場所に移り住んでいると思われた。

 現にあの綿貫と示談後にここで会ったが、その後彼女の連絡先に電話をしても、繋がらなくなっている。既に転居したのだろう。それ以前に、あの矢代も退去したと彼女は言っていた。

 加えて事前に確認したところ、マンションの管理会社まで変更されていた。当時住民達に箝口令を引き、余計な情報を出さないようマスコミの窓口になっていたのは、公安が係わっていたからに違いない。

 よって今更ここに来ても何ら収穫を得られない恐れもあった。それでもここから始めなければならないと、藤子は考えたのだ。

 まずは下から一軒一軒、騒動後に引っ越してきた人なら、そのまま何も言わず次の部屋を訪ねた。

 当時から住んでいた人がいればお騒がせしたお詫びに来たとの口実を使い、話を聞いた。今なら時間も経っているし管理会社も変わっている為、公安と係わっていない住民なら、何か話してくれるかもしれないと期待していたからだ。

 そうやって全ての部屋を訪問したが、留守宅もあったからだろう。事件当時を知る人とは、一人だけしか会えなかった。

 また探している人物もやはりいなかった。既に引っ越しを済ませたらしい。そう思いつつ、時間または日を改めてもう一度、応答が無かった部屋を全て当たってみようと気を取り直す。

 肩を落とし、息を切らしながら最上階より階段を降り始めた時だ。意外な人達とばったり会った。突然だったので言葉を失っていると、相手は頭を下げながら話しかけてきた。

「ご無沙汰しています。誰かお探しですか」

 藤子が黙って頷くと、女性が続けた。

「信じて頂けないかもしれませんが、私達にも手伝わせて下さい」

「藤子さんもご存知だと思いますが、私達は既に公安との関係を断ちました。許して頂かなくても構いません。ただこれだけは言わせて下さい。私達も田北に騙されていたのです」

 目の前に現れたのは、あの井尻兄妹だった。藤子が何も答えずにいると、彼らは一方的に話し始めた。

 その説明によれば、雄太は自殺する恐れがあると田北には事前に報告していたという。その際万が一にも実行に移してしまった場合は、事故で処理しなければならないと告げられていたようだ。

 しかしあくまでそれは最悪の事態を想定していただけで、公安としては自殺を阻止するよう監視する、と聞かされていたらしい。

 その事自体はやむを得ない。そう考えていたが、実際起こった時に告げられた作戦を聞き、二人は当初反対したようだ。

 それでも中国のスパイ達に圧力をかけ、竜崎の自白を得るにはその方法しかないと説得され、渋々了承したという。だが事件を辿っている内に、藤子と同様の疑惑を持ち始めたと告白した。

 彼らは当初藤子が中国のスパイに殺されたのではないかと思わせる為にミスリードし、また何故二つ名を持つに至ったかに関心を持たせ、そこから竜崎に近づかせるよう仕向け、真相は自殺だったと気付かせる役目を負っていたらしい。

 けれども本当にそうなのか、と疑問に思う点がいくつか浮かび上がったそうだ。そこで田北を問い詰めたものの、あっさり否定された。しかしその目に何らかの嘘を感じたという。

 全てが片付けば、公安のエスだと正体がばれた二人は足を洗う予定だった。もちろん残る手立てもあったそうだ。

 公安は海外によるスパイを対象とした田北の所属する部署以外に、反社会的と見なされている宗教法人や共産党、または右翼といった団体を監視する課もあるからだという。 

 そうした別分野のエスとして動く選択肢も残されてはいたけれど、今回を機に手を切ると彼らは決断していたらしい。

 理由の一つは、そもそも公安のエスとなったきっかけが羽村という刑事であり、恩義だけでなく彼の人柄や想いに賛同し憧れたからのようだ。

 特に叩き上げの羽村が公安の中でも別の管轄に移った為、キャリアである田北に引き継がれただけだった。エスはそもそもそういう存在だと言い聞かされていたから、何の疑いも持たずこれまで従っていたに過ぎない。

 だが時間が経つ内、関係は希薄になっていた。やはり羽村から依頼を受ける場合とはモチベーションが違ったからだろう。そうした意識のずれが徐々に大きくなっていた所で、羽村はマークしていた右翼の人間に刺され殉職したそうだ。

 より公安との結びつきが弱くなった延長線上に、雄太の問題が浮上した。そこで田北が取った判断に彼らは不信感を募らせた。

 雄太の自殺を本気で食い止めようと考えていれば、多くの協力者が住むあのマンションで監視し続け思い止まらせるか、力づくでも制止する手も打てたはずだ。実際屋上から飛び降りた際、公安のエス達が目撃している。落下地点にいた綿貫もその一人らしい。

 しかし彼女が巻き込まれ大怪我をしたと聞き、それが意図的だったと知った二人は田北達を信用できなくなったという。

 長年の深い関係があるエスとはいえ、もし七十過ぎの女性にそんな命の危険が及ぶ行為までさせたのならば、決して許されないと考えたからであると口にした。

 さらにそこまで監視できていたのなら、誰かが止められたはずだろう。少なくともあの矢代なら出来たに違いない。それをしなかったのは、任務に失敗した彼の死を止めるより利用する作戦の方が有効だと判断したか、別の理由があったのかもしれないと疑い始め、彼らなりに探っていたという。

 そうした理由もあり結果的に公安を去ったところで、藤子が再び動き出したと知り協力して疑問を解消したいと思ったそうだ。

 想像以上の話を聞かされ目を丸くした藤子は、確認の為に尋ねた。

「やはり綿貫さんと矢代さんも公安のエスだったのね。マンションも竜崎のアパートと同じく万が一の際に逃走できるよう、両隣や上下等に同志達が住んでいた。そうでしょう」

 薫が頷いた。

「はい。実態は多くの部屋を公安が借り上げ、家賃補助をしていました。居住費に余り負担がないようにし、できるだけ抑えた協力費で多くのエスを雇っていたのです。その為彼らによる目撃証言等を利用し、事故として処理できました。もちろん屋上の鍵が一カ月以上も前から壊れていた事実などありません」

 想像していた通りのようだ。やはり公安は自殺を事故と見せかけていた。しかし彼らが藤子の前に現れたのは、それも疑わしいと思っていたからに違いない。同じ考えを持つのなら、頼もしい味方になってくれるだろう。そこで尋ねた。

「あなた達は、矢代さんの居場所を知っているの」

「住所までは突き止められませんでしたが、公安を去る前に今働いている会社名だけは何とか調べられました」

「でも二人は公安を辞める際、秘密保持の誓約書を書かされたんでしょ。そんな情報を私に教えてもいいの。今更だけど先程説明した件も違反でしょう。高額な賠償金を払わなければならないとも説明を受けたけど大丈夫なの」

 二人は顔を見合わせた後、肩をすくめた晶が苦笑いしながら言った。

「もちろん守秘義務はありますが、賠償金云々の話は田北のハッタリでしょう。しかもあなたに説明しただけですし、事を公にしなければ罰しようがありません。公安も下手に騒げば自分の首を絞めかねませんからね」

「だからといって、矢代の居場所を教えるのはまずくないかしら」

「私達は彼に用があり訪ねるだけです。その後ろをあなたが勝手について来たのなら、問題はないでしょう」

 今度は二人とも笑っていた。

「それならどうぞ、向かって頂戴」

 藤子が促すと彼は尋ねて来た。

「このマンションでの聞き込みは、もういいのですか」

「十分とまではいえないけれど、最低限必要だった証言は確認できたわ」

 その内容を告げると、二人は深く頷いた。

「そんな証言をしたのなら、その方は公安と係わり合いの無い人でしょう。当時このマンションの住民全員がエスだった訳ではありませんからね。それにとても重要な供述です。私達の疑念も確信に変わりました」

「私もよ」

「それではあの人に真実を話して貰いましょうか」

 頷くと彼が質問した。

「一つ伺ってもいいですか。真相が明らかになった場合、藤子さんはどんな決着を望まれますか。やはり罪を犯した者には、相応の罰を与えたいとお思いですか」

「もちろん。ただ今更公にして刑罰を与えられるとは思えないし、期待もできないと思う。だけど私は真実を知りたい。それだけなの」

「分かりました。では行きましょう」

 マンションの階段を降り、彼らは自分達の車に乗り込んだ。藤子はタクシーを呼び、その後ろをついて行くことにした。向かった先は、三十分ほど走ったところの閑静な住宅地の中にある小さな簡易宿泊所だった。どうやらそこで働いているらしい。

 こうした場所は、最近だと海外からの観光客が良く使用していると聞いたことがある。日本に訪れた産業スパイや薬物などを不正に持ち込んだ人達が、取引場所などに利用するケースが多いのかもしれない。よってそうした情報を得ようと、矢代のような公安のエスが働いている可能性が考えられた。

 井尻達は近くのパーキングに車を止めた。藤子はタクシーを降り、料金を支払って外に出る。だが彼らと距離を置き、近くにあった公園の木の陰から様子を伺った。

 矢代が仕事中だとしたら中では話せない内容だ。よって恐らく外へ出てくるだろうと推測しての行動である。すると思った通り、しばらく経ってから三人が出てきた。

 やはり他人には聞かれたくない為か、公園に近づいて来た矢代は藤子がいる場所からやや離れたベンチに腰掛けた。その前に井尻達が立ったままでいる。その状況で会話が始まるらしい。藤子は慌てながらも気付かれないよう、声が聞こえる位置まで移動した。

「何だよ、二人揃ってわざわざこんな所まで来て。聞きたい事があるようだが、お前らはもう足を洗ったんだろう。そんな奴らに話せることなんてないぞ」

 矢代の声が辛うじて耳に届く。続いて晶が話し始めた。

「確かに公安とは縁を切った。だがそれは大事な仲間を見殺しにしたあいつらを信用できなくなったからだ。あのマンションから雄太を突き落としたのはあなただろ」

 いきなり核心を突く質問にも、彼は全く動揺をみせないまま首をすくめた。

「何を言っている。あれは自殺だ。それを事故に見せかけるよう俺は指示された。お前達だって知っているだろう」

「惚けないでくれ。雄太が地面に落ち、しばらく経ってからお前が駆け付けるのを見たという住民の証言がある。もちろん公安の息がかかっていない奴の話だ。これは雄太の姉がついさっき仕入れた情報だから間違いない。あれから時間が経過して管理会社も変わったから正直に話してくれたのだろう。箝口令の効力はもはや切れているようだな」

「それがどうした」

 足を投げ出して不貞腐ふてくされた態度で答える彼に、今度は薫が言い返した。

「おかしいでしょ。あなたは警察に、下から雄太が落ちるのを見たと証言している。しかも綿貫さんが巻き込まれたのを見て、慌てて声を出したら何人かが寄って来たと供述した。その内の誰かが救急車を呼んだ、ともお姉さんに説明したらしいですね。時間の経過にずれがあるじゃないですか」

「だったらどうだって言うんだ」

「あなたが下にいなかったとしたら、一体どこに居たかと考えればすぐに分かります。屋上から落ち、綿貫さんとぶつかる状況を同時に見られる場所は他に上しかない。つまりあなたも雄太と同じ、屋上にいたことになりますよね」

「それがどうして俺が突き落としたなんて話になるんだ」

「屋上にいた事は認めますね」

「レズの癖に煩いな。同性愛者同士で仲が良かったのかもしれないが、気持ち悪いんだよ」

 終始態度の変わらない矢代は鼻で笑った。その様子を見て、藤子は気になっていた点の一つが腑に落ちた。

 どうやら彼は薫や雄太、藤子のような人種を嫌っているらしい。だから以前病院であった際、汚いものを見るかのような目をしていたのだと分かった。

 その上あの時綿貫も知っていたから、“あら、あなたがあの方の。だから、”とまで口を滑らしたに違いない。その後外見について褒め直したのは、兄弟揃ってマイノリティだと言いそうになったので、なんとか誤魔化したのだろう。

「なるほど。それが雄太を殺したあなたの動機か。そんな偏見を持っていたから、気に食わなかったんだな」

 晶が問い詰めると矢代は本性を現した。

「だとしたらどうだって言うんだ。元々自殺するかもしれない奴だったんだろ。それが早くなっただけじゃねえか。この世から消えてくれたんだぞ。ああいうおかしな奴はいない方が世の中の為なんだよ。公安のエスとしても失格じゃねぇか。よくこれまで仕事なんてやってこれたよな。同じエスだと思うだけで反吐へどが出る。目障りで仕方がなかったんだよ」

 やはり雄太は殺されたのだ。最初から自殺だとすれば、遺書を残さなかったのはおかしいと思っていた。途中で公安が事故に見せかけたと知った時、彼らが隠蔽したのかと思っていたけれど、田北は何も言わなかった。それは遺書そのものが無かったからに違いない。

 そこで再び疑った。発作的な自殺で無かったのなら、国の制度まで使った遺書を残していた彼が、書き換えもせず何もしないはずはない。その上タイミングも奇妙だ。つまり自殺ではなかったと疑い始めたのである。

 事故や自殺でなければ、残るは殺人しかない。だとしたら誰の仕業か。そう考えた時、最も疑わしいのは事故を目撃した人物だ。よって矢代だろうと目を付けていたが、井尻兄妹も同じ疑念を持っていると知り確信した。

「それで邪魔になって殺したというのか」

 一歩進んで凄んだ晶に対し、立ち上がった矢代は逆に睨み返して言った。

「あのな。公安っていうのは日本の秩序を守る為に存在するんだ。ああいう奴はこの少子高齢化の国にとって必要ない存在なんだよ」

「そういうあなただって独身で、結婚すらしていないじゃないか。子供を作らないという意味では同じだろう。何の違いがあると言うんだ」

「俺をあんな奴やお前の妹なんかと一緒にするんじゃねえ。気持ち悪いんだよ」

 これにはさすがに薫が怒った。

「気持ち悪いのはそっちだよ。偏見まみれでおかしな思想を持ってるから、まともな女性から相手にされないんでしょ。それともまだ母親が好きすぎて、他の女に興味が持てなくなったんじゃないの」

「ふざけんな、人をマザコン呼ばわりすんじゃねぇ」

 相手の弱点を突き、形勢が逆転したらしい。彼女はさらに畳みかけた。

「だってそうでしょうよ。綿貫さんが怪我をして入院した時、何度も通っていたそうじゃない。しかも藤子さんが謝罪しに来ると知って、その場に同席もしたらしいわね。しっかり賠償してくれないと困るとか、念を押したと聞いたわよ。馬鹿馬鹿しい。四十過ぎた男が何をしているんだか」

 驚いた。綿貫と矢代が親子だとは知らなかった。苗字が違うのは、雄太のように別名義を使っているのだろうか。

 しかしそう言われて納得した。あの時同じマンションに住む目撃者同士だったとはいえ、日頃からそう交流が無いという彼があの場にいた理由が、どうしても不自然に感じていたからだ。

 親子だったのなら、後遺症が残るかもしれないほどの怪我をした母親を心配したと考えれば筋は通る。だがそれだけでは無かったらしい。晶が横から付け加えた。

「それに綿貫さんが怪我をしたのはあなたのせいじゃないのか。本来はただ監視するだけと言われていたのに、自殺するかもしれないのならいっそ殺してしまおうとあなたは考えた。それを知った綿貫さんは心配になり、下で様子を見ていたのだろう。それで本当にあなたが突き落とした為、咄嗟に助けられないかと思って雄太に近付きぶつかった。違うか」

 突拍子もない推論だと思ったが、驚いた事に彼は開き直って言ったのだ。

「そうだよ。咄嗟に動いてしまったらしい。馬鹿な真似をしたもんだ。屋上から落ちる男を、年寄りが受け止められるはずがないのに。だがそのおかげでニュース速報に取り上げられ、あの気持ちの悪いおっさんがコメントしてくれて大事になった。予定通り事故で処理をした後、お前達があいつを巻き込んだ。あの人が命を懸けて大怪我したから上手くいったんだろう。俺があの日のあのタイミングを狙い、誘いだしたからでもあるけどな」

 綿貫の怪我が意図的だと彼らが言った意味がここで理解できた。さらにもう一つ納得できた点もある。

 雄太が自殺で無く殺されたのではと考えた理由の一つは、何故有休まで取りあの日を選んだのかが疑問だったからだ。しかもあれだけ気にかけてくれていた彼が、藤子の番組の登場前に飛び降りるなど理屈が合わない。

 しかし思いも寄らなかった真相を聞かされ、藤子は呆然と立ち尽くしていた。二人の会話は続いた。

「やはりあの日雄太は、自殺する為に会社を休んだんじゃなかったんだな。出勤すれば、藤子さんが初めてテレビに出演する生放送は見られない。録画しても良かったのだろうが、彼は人生初めての出演だからと思ったのだろう」

「そうらしいな。あの気持ち悪いおっさん作家がテレビに出ると知っていたから、数日前に俺が何気なく聞いたんだよ。生放送を家で観るのかとな。そうしたらあいつは少し考えて、仕事があるけど休もうかなと言い出した。死ぬ前に見ておきたいとでも思ったんだろ。俺はそれを利用して、誰もいない時間帯にあいつを屋上に呼び出したんだ」

「何故そんなことをした」

「死にたいとか言っている奴が、楽しそうな顔をしていたからだよ。あんな野郎はさっさと死ねばいい。それに早く死んでくれないと、俺達はいつまで経ってもあいつの行動を見張っていなきゃならなくなる。そんな煩わしい仕事なんか直ぐにでも終わらせたかったのさ。良い冥途めいどの土産など持たせてたまるかと、番組が始まる前に決着をつけたんだ」

 藤子は涙が止まらなくなっていた。雄太がそれほどまでに藤子の活躍を喜んでくれていたのかと想像した時、目の前にいる男が憎らしくてたまらなかった。もう我慢できない。

 そう思って姿を現そうとしたが、奴はさらに言葉を重ねた。

「さっきから色々うるさいが、もうあれは事故で処理したんだ。今更あの件をほじくり返したってどうしようもないぞ。それともお前達が警察に駆け込んで、あれは殺人でしたとでもいうつもりか。そんな真似など出来る訳ないよな。それとも真実を知りたかっただけの自己満足か。まさか復讐の為に俺を殺そうなんて思っていないだろうな。だったら返り討ちにしてやる」

 そう言って、シャツの下に隠し持っていたらしいナイフを腰から抜き出しちらつかせた。井尻達に呼び出された際、用心の為にと準備していたのだろう。

 二人は後ずさりして距離を保つ。その様子を見て、矢代が笑いながら彼らに近付いていった。そこで藤子は彼の背後から飛び出し声を掛けた。

「やれるものならやってみなさい。今話していた内容は全て録音させてもらったわ。この二人には無理でも、私が警察に通報したらさすがに無視は出来ないでしょう。もちろんマスコミにも流すから。SNSで拡散してやってもいいわよ。それと綿貫さんに示談で支払ったお金は返して貰うよう、裁判を起こします。だって自分から飛び込んだんでしょ。過失傷害になるどころか、詐欺罪で告発したっていい。どちらにしても、あなた達親子はただじゃ済ませないから」

 突然の登場に目を丸くしていた彼だったが、母親の件を持ち出したからだろう。顔色を変えてこちらに向かってきた。藤子は横に移動しながら距離を保ち、円を描くようにして井尻兄妹がいる場所へと合流した。

 三人が揃った状況を見て彼は気付いたらしい。鼻を鳴らして言った。

「お前達、グルだったのか。まんまと騙されたよ。だが公安から抜けた二人がそんな真似をしてただで済むと思っているのか。お前達は守秘義務で縛られているはずだ」

「そうだよ。ただ俺達はあなたに真実を話して貰おうとしただけだ。藤子さんは偶然、それを聞いていただけだろう。勝手にべらべらと喋ったのはあなただ。俺達じゃない」

「そんな言い訳が通用するとでも思っているのか」

 晶達の話に藤子が割り込んだ。

「通用するかどうか、試してみましょうか。あなたがナイフを取り出している今の様子も撮影中よ」

 ぎょっとした彼は、どこにカメラがあるのか辺りを見渡していた。それから視線を戻し気付いたらしい。

「てめぇ。その胸ポケットに入っているスマホで盗撮してたのか。それを寄こせ」

 近づく彼に向かって怒鳴りつけた。

「近寄るな! それ以上何かすれば、間違いなく警察が駆け付けるわよ。これはただ撮影しているだけじゃないから」

「なんだと」

 困惑し立ち止まった矢代は、周囲を見渡し慌ててナイフを隠した。その様子を見て藤子は嘲笑あざわらった。

「ネットで世界中に生配信しているの。だからもう逃げられないわ。それとも生で人を刺す状況を沢山の人に見て貰うつもりかしら。そんなことをしたら、あなただけじゃなく下手をすれば母親も刑務所行きよ」

「あの人は関係ないだろ」

 先程とは打って変わった弱弱しい声だ。しかし容赦はしない。

「そうはいかない。雄太を殺した息子を庇い、嘘の証言をしたんだから。犯人隠避罪と詐欺罪は間違いなく成立するでしょうね。あなたが私達まで殺したとなれば間違いなく死刑よ。大怪我をしてまであなたを殺人犯にさせたくないと考えた七十過ぎの母親がいるというのに、いつまであなたは心配をかけ続けるというの。恥を知りなさい」

 何も言い返せなくなった彼は、じっとその場に立ち尽くした。だが何か思い付いたらしく、ポケットからスマホを取り出してどこかに電話をかけ始めた。

「おい、どこに連絡しているんだ」

 そう晶は尋ねたが返事をせず、口に手を当て出た相手に小声で何やら話していた。二、三やりとりをして電話を切った彼はうすら笑いを浮かべた。再び当初見せた強気の目つきをしている。その態度を見て気付いたらしい。

「もしかして田北に連絡したのか」

「ああ、そうだ。直ぐに応援が来る。逃げられないぞ」

「どうして私達が逃げなきゃいけないの。それはあなたの方でしょ」

 藤子の問いに、彼は口を大きく開けて笑った。

「なんだよ。もうカットしていいぞ。俺達は単なる芝居をしていただけじゃないか。だがお前達はやり過ぎた。ここから先どうなるかは、頭のいい人が色んな作戦を立ててくれるはずだ。あの時のようにな」

 恐らく公安の裏工作について言っているのだろう。だが一体どうするつもりなのか。生配信は嘘だが、録画は間違いなくしている。彼らの会話の録音は井尻兄妹がしているので、声は確実に拾っているはずだ。

 もしかして配信されていないと気付いた彼らの仲間が、力ずくで映像や録音したものを取り上げ証拠隠滅するつもりなのかもしれない。三人の証言だけで警察を動かすのは無理だろう。それどころか井尻兄妹の立場では、きっと何も言えないに違いない。

 そこで嫌な予感がした。井尻兄妹はまだ公安側なのかもしれない。藤子に協力すると言ったのは、下手に動かれて余計な真似をしないようにする為の罠だったとも考えられる。 

 矢代が殺したと白状させ、色々と事実を明らかにさせたのもフェイクだったのではないか。藤子が望む答えを喋らせ、さも疑問点を晴らすような証言をし、最後にどんでん返しを見せて混乱させ、真実を闇に葬る工作だったのではないか。

 疑心暗鬼に囚われた藤子の前に、スーツ姿をした数人の男達が現れた。恐らく公安警察の人間だろう。その証拠に矢代が余裕の笑みを浮かべていた。立場が逆転したからに違いない。それに対し井尻兄妹は全くの無表情だった。

 最低でも藤子が持つスマホで撮影した動画だけは奪われまいと、必死で胸を押さえる。だがあっけなく腕をとられ取り上げられてしまった。さらに何か端末を差し込み操作し、中身を確認した上で返してくれたのだ。

 井尻兄妹も取り囲まれ、持っていたボイスレコーダーを取り上げられ、同じような作業されていた。その上で返却しながら彼らの一人が言った。

「ここで録音、録画したものはすべて消去させて貰った。中身のデータを破壊したから、復元しようとしても無駄だ。それとここで見聞きしたことは口外しないように」

 先程差し込んだ機器はその為の道具だったらしい。これで矢代を刑務所に送り込むことはまず不可能となった。

 もし藤子が警察に訴えたとしても、田北達に握り潰されるだろう。ただそれは最初から余り期待していなかった。それ以上に悔しいのが、これまで見聞きした件が真実だったのかが曖昧に終わり、井尻兄妹にまた裏切られたことだ。

 自分の愚かさに呆れ果て項垂れていると、矢代が暴言を吐きだした。

「お前らのようなマイノリティが、のうのうと生きられる世の中じゃないんだ。これで良く分かっただろう。この国には邪魔な存在なんだよ」

 怒りの余り顔を上げ、殴り倒してやろうかと思ったところ、意外な事が起こった。周囲にいた男達が彼の腕を捻りあげナイフを取り上げただけでなく、手錠を嵌めたのだ。

「な、何するんだ」

 余りに突然の行動で藤子も驚愕した。しかし井尻兄妹だけは、何故か変わらず無表情のままだった。

「銃刀法違反の現行犯及び、殺人の容疑で逮捕する」

 男達の一人が紙を取り出し、彼に突き出しそう言った。

「じゅ、銃刀法はともかく、殺人の容疑ってなんだよ」

「詳しくは署で聞く。大人しくしろ」

「お、おい待てよ。田北さんと話をさせてくれ」

「これは田北の指示だ。諦めろ」

 そのまま彼は言葉を失った状態で公園の外に止めていた車の中へ放り込まれ、そのまま立ち去った。予想外の展開に藤子は呆然と彼らを見送る。

 残されたのは藤子達三人だけだ。しばらくして我に返り、口を開いた。

「どういうことなの」

 しかし二人は黙ったまま、晶が胸ポケットからスマホを取り出し、耳に当てて誰かと話し出した。

「はい。そうですか。約束通り、これで終わりにします。だからそちらもお願いしますよ」

「誰と話しているの」

 薫に小声で尋ねると、彼女は耳元で囁いた。

「田北です。スマホをずっと通話中にしていて、矢代との会話を彼に聞かせていたのです」

「そんなことをしていたの。聞いていないわよ」

「すみません。二人の話が終わったら説明しますので」

 彼女はそう言って再び口を噤んだ。止む無く藤子も静かに待った。それからすぐに会話を終えた晶は、スマホをポケットに入れて頭を下げ説明し始めた。

「騙したような形になり、申し訳ありません。ただこうでもしないと、真実が明らかにならないと判断しました。お許し下さい」

「あなたはまだ公安と繋がっていたのね」

「いえ、足を洗ったのは本当です。ただ辞める際、田北と取引をしました。雄太の死の真実だけは明らかにしたい。だからもしあれが自殺でなく殺人だった場合は、犯人を放置せずしかるべき措置をするようお願いしたのです」

「しかるべき措置ってどういう意味よ。それに田北は、雄太が矢代に殺されたと知らなかったっていうの」

「当初は自殺だと思っていたけれど、殺人の可能性もあると疑っていたという方が正しいでしょうね。しかし事故で処理し、あなたを巻き込む作戦に取り掛かっていた。その為真実を明らかにすれば、竜崎達を追い込めなくなると恐れて目を瞑っていたようです」

「矢代に騙された振りをしていたってことかしら」

「はい。また私達も途中まで騙されていました。しかし藤子さんが竜崎に近づき自白させた後、田北を追い込んだ際に自殺自体を疑い出したと知って気付いたのです」

「だから田北と取引をしたのね」

「そうです。ここに来る前、私は藤子さんにどんな決着を望まれるかを確認しましたよね。そこで刑罰は期待していないけれど、真実を明らかしたいとおっしゃった」

「そうよ。矢代が犯人だという自白を取り付けても、今更確たる証拠は見つけられないでしょう。しかも裁判にかけようとすれば、公安は絶対に阻止すると思ったからじゃない」

「私達も同意見でした。しかしあのまま真実を闇に葬ることは許し難い。だから田北に矢代の自白を取りつけ全ての事情が把握できれば、しかるべき処置をするよう取り引きを申し出ました。それはあなたの暴走を止める事です」

「私が真実を知れば、マスコミなどにリークして騒ぎを起こされては困る。そう思ったとでもいうの」

「はい。田北も私達の口は封じられても、藤子さんまで黙らせることは難しい。そこであなたが真実を知り、納得できる情報を聞き出せた時点で幕引きを図る約束をしました。彼がナイフを取り出した様子や、彼の自白を録音したものを公安に提出し破棄できれば、少なくともマスコミまでは動かせなくなる。口先だけで見聞きした事を発表しただけなら、いくらでも潰せると彼らは考えた。その代わり公安としても、エスの仲間を殺した人物を野放しには出来ない。本人が殺したと認めたならば、排除の必要性が出てきます」

「それで思惑が一致し、あなた達の取引は成立したのね」

「そうです。申し訳ありません。ただこの方法でしか、雄太が何故死ななければならなかったのか、分からないと思ったのです。それだけは避けたかった」

「いいえ。私はあなた達にまた裏切られたと思った。それなら彼の告白自体、本当だったのかも疑わしくなる。でもあれが真実だと分かっただけでも気が晴れたわ。けれど気になるのは、矢代の扱いが今後どうなるかという点よ」

 藤子の言葉に、晶は不安げな表情をして尋ねた。

「やはり事件を公にした上で、罰して欲しいとお思いですか」

「いえ、そうじゃない。ただ公安が排除すると聞いて、まさか殺されはしまいかと心配になったの」

 首を振って答えると、薫が目を見張って興奮しながら言った。

「あいつは雄太さんを殺した奴ですよ。しかも極端な差別主義者です。藤子さんにも酷い暴言を吐いたじゃないですか。そんな男の身を案じるなんて信じられません」

「しかし裁判にかけたとしても、一人殺しただけなら死刑にならないわよね。もちろんあの男の考え方は許し難いわよ。雄太を殺した動機を聞いた時は、殺してやりたいとも思ったわ」

「だったらどうして」

「人を恨み復讐したいという気持ちは、決して前向きではなく生産的でもないからよ。それはかえって自分の心をむしばんでしまう。雄太が残した財産を巡り兄夫婦と決別した私は、そう痛感しているの」

 結末を知っているらしい彼女は黙ってしまった。藤子はさらに続けた。

「それに竜崎やあなた達の話を聞く限り、雄太は遅かれ早かれ自ら死を選んだ可能性が高かった。それを矢代は早めただけに過ぎなかったのかもしれない。だから罰を与えられたとしても、命を奪いたいとまでは思えないの。敢えて言えば、反省してあの差別的思考さえ改めてくれれば、世の中の為になるとは思う。無理かもしれないけどね」

 自虐的に笑った藤子を見て、黙って聞いていた晶が質問してきた。

「彼の母親、綿貫に関してはどうお考えですか。彼女もあなたを騙し、賠償金までせしめたのです。お金を取り戻し、罰したいとは思いませんか」

「いいえ。お金は元々私の物ではないし、彼女が怪我をして辛い目に遭ったのは確かだから。それに息子を助けたいとの想いから、また雄太の命を救えればと考えた咄嗟の行動だったなら、責める訳にはいかないでしょう。しかも後遺障害が残って寝たきりになる恐れもあったのだから、多少の慰謝料を貰ったぐらいでは割に合わないわよ」

「そうですか。実はあの親子関係もまた訳ありなので、綿貫に同情する点が多いのです。藤子さんにそう言って頂けるのなら彼女も喜ぶでしょう」

 彼によると、彼女も身内がいない天涯孤独の身だったらしい。その為水商売をしながら生計を立てていた所、ある公安刑事がエスとして雇ったようだ。

 その内探っている相手からより詳細な情報を得たいと張り切った彼女は、独断で肉体関係を持ったという。その結果妊娠をしてしまい、生まれたのが矢代だった。

 その先輩刑事から二人を引き継いだのが、井尻兄妹をスカウトした羽村という刑事らしい。彼は公安の為を想って取った行動だと聞き責任を感じたようだ。その為養護施設に入れられた子供を含め、二人を見守っていたという。だからこそやがて成長した矢代もエスとして雇い入れたと説明された。

「矢代が差別的な思想を持ったのは、そんな環境で育った反動から来ていたのでしょう」

「彼と雄太とは親しかったの」

「いえ、雄太が渡部と名を変えあのマンションに住み始めてからの付き合いで、合えば挨拶する程度だったはずです。共通の雇い主だった羽村から、かなり昔に名前や生い立ちなどだけは耳にした事があります。でも私達を含め、それまで接点はありませんでした」

「でも彼が極端な差別主義者だと、田北は知っていたはずでしょう。それなのに何故あんな男を、雄太の見張りにつけていたの」

「あのマンションを含め、彼の行動確認をしていたのは矢代だけではありません。単に仕事を割り当てられた、エスの一人に過ぎなかったのです。さすがに田北も殺すとまでは考えていなかったのでしょう。しかしそれが仇になりました。あいつは特殊な状況を利用し、かつ後で事故に見せかけあなたを巻き込む為に、最も効果的な日と時間、方法を選んだのだと思われます」

 藤子は溜息をついた。いくつもの要因が重なり、こうした不幸な結果を招いたのだろう。ただ血は繋がらないとはいえ弟であるにもかかわらず、それまで縁遠かった自分が彼を偲ぶのはおこがましい。井尻兄弟達は長い間、雄太と交流を持ち続けた仲間だ。彼らの悲しみに比べれば、藤子の思いなど比べ物にならなかった。

 その為二人に頭を下げた。

「有難う。これで雄太も浮かばれると思う。私も自己満足に過ぎないけれど、胸のつかえが取れたわ。後は雄太の意志を汚さないよう、前に進むことにします」

「いいえ。私達も役に立てたのなら幸いです。これからのご活躍を期待しております」

 晶がそういい、薫と揃って頭を下げた。こうして彼らと別れたのである。そして次なる行動へと移ったのだった。

 藤子はまず雄太の家を取り壊し売却も急いだ。雄太が作った逃走ルートを早期に隠滅する為である。この点については田北にも連絡し、裏の家も同じように処分して欲しいと告げた。彼も公になっては困るからだろう。息のかかった業者を紹介してくれた。 

 そこなら例え隣家と繋がる穴を発見しても、黙って何もなかったかのように埋めてくれるという。その方がこちらも有難いので、指定された業者に全てを任せた。

 遺産を全て現金化する段取りを取ると共に、藤子は執筆を開始した。その内容は、突然不審な死を遂げた男の正体が別名を名乗っていた弟と知らされた姉により、死の真相や別人に成りすましていた謎を辿るミステリ小説だった。

 調べていく内に、多額の遺産があることや同性愛者だった事実を知るなど、限りなく雄太の身に起こったノンフィクションに近いフィクションである。ただ目撃者が犯人だという点は大きく変えた。後に矢代や綿貫がマスコミの餌食になっては困ると考えたからだ。

 これをデビューさせてくれた中川のいる文潮堂ではなく、別の出版社を通して製本し販売する計画を立てた。これはこれまでの業界における常識だと、まずあり得ない流れである。他から声をかけてくれる会社があっても、まずは世に出してくれた版元から三冊程度出した後、というのが暗黙の了解とされていたからだ。

 しかし藤子はその通例を破っただけでなく、もっと思い切った行動を取った。雄太が亡くなって一年が経ち、桜が咲き始めた頃である。

 出版された作品の宣伝をする為、久しぶりに記者会見を開きメディアに顔を出した。その際、周囲を驚愕させたのだ。何故なら作品を書いて籠っている間、太っただけでなく手術により顔も変えていたからである。

 雄太の事件がきっかけで世間が騒いだ時にも話題にされたが、会社を退職した後にコンプレックスを解消しようと決意した際、整形と性転換をしたとのプロフィールは公表していた。しかし今回の会見時では、元の顔に再整形して登場したのだ。

 けれど体は女性のままだったからだろう。男には戻らず、ふっくらとした年相応のオバサンになってしまったのはご愛嬌だ。

 当然周囲から称賛されていた美しい容姿は失った。それでも美魔女とまで呼ばれ不自然な仮面を脱ぎ取った藤子の心は、解放感に満ち溢れていた。

 また実の親に捨てられ保曽井家の養子となった経歴や、実の両親は既に自殺している点など、過去の生い立ちも含め洗いざらい白状した。そうすれば美奈代が握っていた唯一の脅迫材料を消せる。そう考えた末の決断だった。

 さらに藤子は作家、白井真琴としての活動を辞めるとも宣言した。その代わり、今後は本名の保曽井藤子として活動すると告げた。その上で三か月後に任期が切れる、限界集落を抱え過疎化した某自治体の長への立候補を表明し、意図的に世間を騒がせたのである。

 思惑通り、会見場に集まった記者達は我先にと手を挙げ、身を乗り出し数々の質問を投げかけてきた。

「本に書かれていたように、弟さんは殺されたのですか」

「ある組織のスパイだったと書かれていましたが、公安のエスだったのですか」

「あなたと同じ養子の兄が弟さんの遺産を受け取れなかった際、相続争いは起こらなかったのですか」

 しかし藤子は淡々と答えた。

「物語をどのように読み取るかは読者の自由です。書かれている内容が作者の実体験に基づく場合もあれば、想像を膨らませたものもあるでしょう。ですが私の作品はあくまでフィクションです。それが何らかの事実と仮に一致していたとしても偶然であり、架空の世界で起こった出来事だとお断りしておきます。それが小説ですから」

 それでは納得しない記者達が、さらに次々と責め立てた。

「そうはいっても小説の中と同じくあなたは性転換をして性別を変え、顔も整形していたではないですか。それは事実ですよね」

「作品上で、主人公は自らの容姿にコンプレックスを抱き精神を病んだと書かれていますが、事実作者であるあなたもうつ病に罹って会社を辞められていますよね。それなのに何故、姓は女性のままで顔だけを元に戻されたのですか」

 何を言われ聞かれても、話す内容は同じだった。

「作品の内容と対比させたプライベートな質問には、一切お答えできません。今回の記者会見はあくまで私の新作発表の為であり、かつ今後本名で作家を続けつつ政治活動を行うとの決意表明の場です。これからについての質問なら、出来る限りお答えいたします」

 前代未聞の会見となった為、マスコミ各社はこぞって大々的に取り上げた。

 その為警察は、雄太の死をあくまで事故だと言い張るしかなくなった。作品内で書かれていたように雄太の死を殺人として再捜査すれば、事実と認めてしまうからだ。おかげで田北が藤子を脅したような展開にはならずに済んだのである。

 こうしておけば、今後も公安や警察は下手な動きができない。藤子が言うように、あくまでフィクションであるとの姿勢を貫いていた。そうやって外部からの余計な詮索を回避し、放って置くのが得策と思わせたのだ。

 ちなみに矢代は彼の本当の名で、別件の罪により逮捕され服役した。外にいればいつかマスコミに探し当てられ餌食になるかもしれない。そう考えた公安は、本名で刑務所に送り身を守ろうとしたのだろう。と同時に、彼が起こした罪を償わせようとしたに違いない。

 というのも、彼は雄太以外に人を殺した過去が実際あったからだという。相手は情報収集先の協力者だったようだ。驚いたことに、伊豆半島沖で発見された白骨死体というのがその人物だった。身元がばれた為に殺し、公安に隠れエスの仲間内で隠蔽すると決めて海に沈めたらしい。

 雄太の件を機に、他でも同じような犯罪をしていないかと疑い彼の過去を洗い直したところ、そうした事実が発覚したという。そこで相手が一般人だったことから事実を公にしても良いと判断した公安は、彼を本当に殺人罪で逮捕し起訴に踏み切ったのだ。

 表向きは一人しか殺していない為死刑にはできないだろうが、恐らく彼が外へ出てくるのは相当先になると思われた。

 また彼女の母である綿貫は痴呆症にかかったことにされ、本名で老人養護施設へと入所させられたと聞く。こうして彼らは完全に外の世界から隔離されてしまった。

 藤子がインパクトのある場を作ったことで、世間からの注目を前回以上に浴びるよう仕向けた効果は絶大だった。おかげでデビュー二作目の本は、一作目をしのぐ空前の大ヒットを記録した。

 藤子の狙いは他にもあった。騒ぎを起こした芥山賞作家という知名度を生かして当選を勝ち取り、自治体の長となって理想郷をつくることだ。これは有名な某賞を受賞し、その経歴を生かして自治体の議員になった先駆者を真似た。

 小さな自治体を選んだのも、知名度がありまともな政策を持ってさえいれば、当選も難しくないと判断したからである。その上財政規模が小さい分、国による補助金を含めテコ入れをすれば効果も出やすい。

 またその地はかつて保曽井家が住んでいた地区から近い場所にあり、多少縁があったことも選んだ理由の一つだった。過疎化を食い止め街の活性化に成功し周辺地域への波及効果が起これば、一種の恩返しにもなると思ったからだ。

 最初はこれまで得た両親の遺産や自らが得た給与や印税、また弟の死によって残された遺産のほとんどを、彼の意志に即した団体に寄付しようと考えていた。しかしそれでいいのかと悩んだ時、雄太や竜崎は寄付だけでなく自ら動きボランティアをしていた話を思い出したのだ。

 そこで考え付いたのが、過疎化した自治体における政策を変えて一人でも多くの人を外部から招き、この生き辛い世の中から脱したコミュニティを形成する方法だった。そうすればもっと有意義な活動を自らの手で継続させられるのでは、と閃いたのである。

 好都合だったのは、日本でもようやく夫婦別姓選択制度を採用すべきで、同性婚も認めていいのではないかとの議論が本格化しつつあった点だ。

 と同時に「マイノリティ等差別禁止法」も制定され、教育現場や職場、医療や公的サービス、社会保障について大きく見直される方針が取られるようになっていた。

 しかし現実はコロナ禍で経験した時と同じく、各自治体により制度がバラバラで追い付いていなかった。そこで藤子は、過疎化に頭を悩ましている地域に目を付けたのである。

 藤子が選挙で掲げた公約の一つは、自分が長となれば現在過疎化で困っている町を活性化させるものだ。その一環として、世の中から生産性が無いと誹謗中傷を受けている人々を支援する施設を作ると訴えた。そうすれば外部からより多くの人を呼び集められる。

 まずは同性婚が法的に認められるまでの間、自治体においてマイノリティ同士の結婚を認めるパートナーシップ制度を取り入れ、結婚証明書の発行を約束した。

 さらに様々な要因で親と離れざるを得なくなった子供や、都会の生活に疲れ病んでしまったニート達や登校拒否になってしまった子供達が住む、居住空間の確保も掲げた。

 経済的に困窮して生活保護の需給が必要な人達の為にも、廃校した建物や空き家等を修繕し、家賃は無料から月三千円程度までの幅で設定。さらに山水を使用し、水道代を大幅に割り引きすると提案。

 また里親制度や特別養子縁組制度を利用した家庭には、自治体から手厚い援助する等、子供の育成環境を第一に考えた体制を整えると意気込みを示した。

 子供を産めないマイノリティのカップルが子供を育てたいと願えば、親にだってなれる。その上子供を産めない夫婦の移住を促進し、彼らにも親になる権利を優先的に与えると働き掛けたのだ。

 もちろん中には性転換し、戸籍上夫婦となる人や子供を産む家庭もある。そういう人々にも自治体から出産費用の全額負担や、子供手当の充実等目配りの利いた保護を行うと主張した。

 ニート達も移り住めば生活費を賄う為、共同生活をして互いに助け合ったり、必要最低限の労働等が必要となったりする。例えば農業の手伝いや、高齢者や子供達の相手をして稼ぐのだ。つまり厳密にいえばニートではなくなる。

 よってこうした政策が実現すれば、若い世代と将来を担う子供により高齢者ばかりとなった地域を若返らせ、過疎化を防ぐと共に労働力も得られると考えた。人が集まれば出来る仕事も増える。例えそれがニートであろうとも、生活保護を受ける者であっても同じだ。

 生活保護の実質的な財政は七十五%を国で、残り二十五%が自治体の負担となる。ただ自前の財源で足りない場合は、総務省から出る地方交付税で概ねカバーされる仕組みだった。

 その為利用者が増えても、財政負担にはほとんど影響しない。それどころかむしろ国のお金で消費を回せる為、地域経済にはプラスになる。加えて住宅扶助費を低く抑える事で支出も減らせた。

 またコロナ禍を経験した世界ではリモートワークが進んだ為、都市に集中していた人々が地方に移住するケースは増えた。よってそうした環境さえ整っていれば、過疎化した地域でも人を集められる状況に変わりつつあった点も、政策の追い風となった。

 その後押しとしてより魅力的なアピールポイントに選んだのが、これまで阻害されてきた人々でもより人間らしく自分らしく生きる場所を提供するという枠組み作りだったのである。

 他にも過疎の町を縦断する無人バスの導入により、高齢者がどこへでも出かけやすくするとアピールした。懸念される医療不足については、手厚い保護で医師や看護師を募って体制も整えると訴えた。

 各政策の実現にかかる費用は、まず藤子が持つ五億円以上の資産を基金とした財団で賄う公約も掲げた。

 これは藤子が立候補した自治体の財政支出のおよそ一割分に相当する。財源の内訳は雄太の遺産から約二億八千万、藤子の資産から二億円余りを拠出していた。

 芥山賞を取った“伝えたい”が増刷を重ねたことで印税が約二億円近く入った上、二冊目の本も騒動の反響によりミリオンを記録。そこからも約二億円以上の収入を得られた為、そこから引かれる税金を計算し、作家になるまで貯蓄してきた個人資産とのバランスを考えた結果、それだけの財団ができたのだ。

 その後は外部から人が集まり労働人口が増えて活気付けば、自治体の税収だけでも十分持続可能な態勢が整えられると計算した。

 また藤子が得られるだろう首長の給与を月三十万円に削減し政策実現の財源に充て、今後得られるだろう作家としての副収入の七割は、財団に寄付すると公言した。

 二〇一八年時点の、全国一七八八ある自治体の首長の平均月額給与は約八十万だ。最も低いのが財政再建中の夕張市で月約二十六万弱である点を考慮すれば、異例の低年収といえる。その上私財を投げ打って設立する財団は、例え藤子が選挙に敗れたとしても解散しないと断言した。

「財団の理念に沿う政策が別の自治体の元で行われるならば、必ず支援致します。この財団は首長選に勝つ為だけの活動ではなく、あくまでマイノリティの権利を守り、生きる道を閉ざされ公平な社会制度を受けられない人達を支えます。選択肢を奪うのではなく多く与える社会を実現する為に、私は戦い続けます」

 そう高らかに宣言したのだ。これが雄太の意志を生かし、かつ本当に自分がしたいと心のどこかで思い描いていた夢であり、実現できる手段だと藤子は確信していた。

 決して自分は生産性のない人間ではないと証明したい。同じくそう責められていると悩む人々達が新たに生き直せる場所づくりを、今の自分ならできるのではないかと気付いたのである。

 そこで作家としての知名度に加え、二十年余りの会社生活でつちかった営業職としての経験やFP知識等を活用し、様々な立場にある人達に対しできるだけ一人一人にあったライフプランニングを練り、理想郷の実現に取り組むと決めたのだ。

 しかしそうした運動に、差別的偏見を持つ集団は必ず存在する。当然対抗馬に立った候補者は、田舎特有の閉鎖的な人脈に働きかけるだけでなく、そうした外部のヘイト集団から支持を取り付けた。

 彼らは声高に訴えた。

「同性愛者やニート、または引き籠りなど異常な人間ばかりを集めれば、ただでさえ過疎に苦しむこの地域は崩壊するだろう。しかも親から捨てられたりした子供を集めるような施設をこのような田舎に建設すれば、平穏な生活など出来なくなる。彼らは大きくなれば、問題行動を起こす危険性が高いからだ。もし大人しく育ったとしても、いずれ成長すれば土地を離れていくに違いない。定住が期待できない者達に、ただでさえ少ない財源を充てるなんて全く無駄であり、ドブにお金を捨てるようなものだ」

 攻撃の矛先は藤子個人だけでなく、雄太や財団にまで及んだ。

「立候補を表明している人物の祖父はかつて特高に在籍し、戦前はこの近くの地域に住む人々を監視していた奴だ。拷問等で人を苦しませ時には殺し、恐怖のどん底へと落としめていた人物の孫が、異常者となって再びこの地域に現れおかしな集団を創ろうとしている。しかもその血筋を引く彼の弟は、スパイの手先となって違法に別名義を取得していた犯罪者だ。そんな奴らが手にした汚いお金で作った財団など、信用できる訳がない」

 彼らは街宣車がいせんしゃを集め、毎日のように叫び始めたのである。

 この騒ぎにマスコミも飛びついた。その為同じような差別思想を持った議員だけでなく、胡散臭うさんくさい学者または知識人と名乗る人達が、テレビのワイドショーやSNS等で聞くに堪えない、見るに忍びない罵詈ばり雑言ぞうごんの数々を垂れ流し始めたのである。よって普段は静かなその土地が、これまで経験したこともない騒動に巻き込まれたのだ。

 しかしその一方で、ヘイト集団に対抗するマイノリティ達や分別をわきまえた人々も立ち上がった。これは一自治体の問題ではなく、日本や世界全体における差別の縮図と捉えたのだろう。そこで看過できないと声を上げた同志が一斉に決起した。

 反ヘイトの動きはやがて世界中を巻き込む、一大紛争まで発展した。そのおかげで藤子の運動は想像以上の反響を呼び、また功を奏した。自治体に住む人々の賛同を多く得ただけでなく、全国または世界各地から応援されたのである。

 下馬評では一時苦戦を強いられた時期もあったが、その後盛り返しまず選挙に勝てる目算が立つまで形勢は逆転した。さらには世界中の支持者から藤子が作った財団への寄付が殺到し、その規模はどんどんと膨らんでいったのである。

 ちなみに美奈代はこうした騒動に巻き込まれないよう、慎一郎のいるシンガポールへと旅立った。当然綾や百花も一緒だ。

 幸いだったのは、兄はコロナ禍の中でも業績をアップさせた成果が会社に認められたらしい。部長待遇から部長へと帰り咲き、給与もアップしたとの噂を耳にした。

 住む場所は兄が会社から与えられる社宅があるし、まだ幼い百花の面倒を美奈代が見ていれば、教育費はかからない。綾の就職先も兄の伝手で良い条件の職場が見つかったと聞く。その中で彼女達が兄の元へ行き最も良かった点は、贅沢品が好きな美奈代の浪費癖がなくなった事だろう。

 もちろん海外で暮らす苦労は、これから色々あるに違いない。しかし秀人夫婦を除く家族が全員揃ったのだ。これまでになかった結束が、彼らの新たな生活の中で産まれるのではないだろうか。少なくともばらばらだった心が、繋がりを持つきっかけにはなったと思われる。後は兄達の個々の努力に期待するしかない。

 藤子は選挙活動をしながら自分を取り戻し、公約を実現させる為に走り回り四苦八苦する毎日を過ごしていた。

 そんな所に、再び予期せぬ人物が現れた。それは井尻兄妹だった。彼らはエスを辞めた後、自分達と同じ境遇の子供達を救いたいと考えたらしい。そこで藤子の活動を応援するべく移住して来たという。さらに選挙活動の手伝いを買って出たのだ。

 こうして三人は新たな一歩を踏み出したのである。

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