第31話蝕
なぜ記憶を失って生まれてきたのか今なら分かる。
別れが苦し過ぎたのだ。それに繰り返す業に疲弊していた。
ただの平凡な人間になりたいと思い、そして隣には魔王ではないこの人を望んだ。
燻る煙の中、広い懐に閉じ込められると何もかも忘れて縋っていたいと思う。心音は人と同じでフィエルンを束の間安心させた。
彼の肩がピクリと小さく動いた。フィエルンも自分たちに注がれる圧迫感を感じて、やや顔を上向けるとシュヴァイツの肩越しに厚い鈍色の雲が立ち込めるのが見えた。
息を呑み込む彼女の視界には、みるみるうちに明るさを失う世界が映っていた。覗いていた三日月は隠され、深い蒼紫色だった夜は真の闇へと変貌を遂げていく。
ドクン、と心臓が鳴り、彼の背に回した指に力を込めた。
ついに神々は聖女と魔王を諦めたのだ。今世でも歩み寄った二人を見届け審判を下そうとしている。
光の欠片もない暗闇が世界を染め、手元の距離も分からずフィエルンは平衡感覚すら危うくなった。シュヴァイツが抱き止めていなければ落下していたかもしれない。
「蝕が来た」
囁いて離してもらおうと、彼の胸に手をついた。でも彼は腕を解こうとしない。
いつしか風は止み、一切の音がかき消えていた。雲がパックリと割れて、そこから何か巨大なものが降りてくる。
「シュヴァイツ!」
闇よりも濃い真っ黒な巨大な人の形のものが空中に浮かぶのを見て、フィエルンは闇の神が現れたと思い安堵した。だったら好都合だ。
聖女を厭う神なら、きっとこちらに目を向ける。
「離して」
その為にもシュヴァイツを引き離さなければ。
フィエルンの髪に顔を埋めるようにしている彼の様子に、胸についていた手を握りしめると光の力を込める。
攻撃して傷つけてでも、抵抗できなくする必要があった。
「俺が分からないとでも?」
素早く手首を掴まれ、聖女の光の元シュヴァイツが目を眇めフィエルンを見下ろしているのが分かった。
「な····んうっ!?」
強引に唇を奪われて、呼吸まで吸い尽くされる。
「ん、う」
異様に身体の力が抜けていく感覚で彼女は目を見開いた。吸われているのは聖女の力だと気付いたからだ。
唇が離されると、ふらりとする彼女の腰を片手で支えただけでシュヴァイツは地面に着地した。そしてその片手も離してしまい、フィエルンは崩れるように倒れた。
「残念だったな」
「ど····どうして」
暗闇で彼の声だけが降ってくる。
シュヴァイツの顔が見たいと、場違いに思った。
「俺は目覚めて幾つの地を焼いたか知っているか?」
何を言いたいのか思案して、ハッとした。光と闇のバランス。シュヴァイツが力を振るうのに比べて、自分は聖女の力を大いに発揮したとは言い難い。
「まさか、闇が勝ってるとでも」
うっすらと闇に光が差し、フィエルンは上半身を起こして浮かぶ黒い神を見上げた。その輪郭が淡く光り、呑み込まれるように漆黒は光に染まった。
「お前の考えることなどお見通しだ」
今や光に溢れた神を背に、シュヴァイツは薄く笑った。
「い、いやよ、シュヴァイツ」
フィエルンの頬をそっと撫でると、魔王は立ち上がり背を向け、光の神の元へと向かっていった。
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