第10話どんなに姿が変わろうが

否定したいのに、心の内で納得してしまう自分にフィエルンは唇を噛んだ。テネシアは何を考えてそんなことを望んだのか。




 掴まれた手首は痛みはしないが、振りほどけない強さで見えない壁に押し付けられた。




「愚かなテネシア」




 目を細めた魔王は、どんな心情で呟いたのだろう。ただ自分を通して『テネシア』を見ていることが不快でならなかった。




「私はテネシアじゃない」




 キッと睨み付けると、魔王は可笑しそうに口端を歪ませる。




「っ、私はテネシアの記憶を持たないし、髪も目も、顔だって全然違う。私は」


「その目つき、喋り方…………同じだなフィエルン」




 名を呼ばれたことに驚いて手首を引っ張られても抵抗する余裕がなかった。




「うっ?!」




 俯せに床に倒されて、一気に血の気が引いた。




「どんなに姿が変わろうが名が変わろうが、魂は唯一にして同じ。お前はお前だろうに」




 後ろから髪を掻き分けられ、首に片手が触れたのを感じて急に手先が震え始めた。




「私を、殺すの!?」


「殺す?」


「私を許さないと言ったでしょう?」




 すっ、と背後で動く気配。フィエルンは自分の左頬のすぐ横に長い指をした手が置かれるのを見た。




「そうだ、許さない。殺すのかだと?殺すなど生ぬるい」




 首に触れた手が、フィエルンのうなじをゆっくりとなぞる。




「やめ…………」




 聖女の印に触れられているのだと遅れて気付き、身をよじろうとするが、のし掛かられて思うように動けない。


 淡々と話す魔王から強い怒りが伝わる。このまま印を抉られるのかもしれない。






「憎い…………俺を狂わせたテネシアを絶対に許さない。髪の毛一筋まで食らい付くしても足りるものか」




 身体を強張らせて痛みに備えていたら、印に柔らかいものがそっと押し当てられた。


 驚きで言葉が出ない。




 これほど憎しみに溢れた言葉を紡いだ唇で、どうしてそんなことをするのだろう。喰らうでも噛み付くでもなく、唇を付けるなんて。




「……………エスタール」




 イヤだと思った。テネシアの記憶が微かに伝えるのは、その唇が初めてではないということ。




「エスタール、エスタールっ」




 怖い。このまま記憶に、シュヴァイツの行動に引き摺られて自分が自分じゃなくなる気がした。


 フィエルンとして育んだ思い出。大切な人達。幸せばかりではないけれど、その時々に感じた自分だけの想い。何よりフィエルンとしての存在意義。




 その全てが根底から覆される恐怖。自らの命を脅かされるよりも遥かに恐ろしい。




「うう…………エス、タール」




 忘れないようにフィエルンは『自分の大切な人の名』を繰り返し唱えた。そうしないと永遠に魔王に捕まるようで。




 バキッと何かが壊れる音がした。


 フィエルンの顔の横に置いていた手の下から、床に亀裂が走る。




 押さえ付けていたものが離れ、身体の自由が利くようになった彼女はようやく振り返ることができた。




 銀の瞳は鋭く冷え切っていて、涙を湛えたフィエルンに苛立ったように背を向けた。




 無数に走った亀裂が空間を破壊する。座った状態のままフィエルンが底の見えない暗闇へ吸い込まれる前に、浮遊した魔王が指を鳴らした。


 黒銀の光が彼女を中心に放射状に伸び上がり、すぐに巨大な鳥籠を作り上げた。




「あ…………」




 フィエルンが纏っていた聖女の力による光が薄らいでいく。どうやら鳥籠が力を弱く吸収しているらしい。逃げる力を削ぐためのようだ。




 本当に閉じ込められてしまった。 さっきの空間よりも確実に厳重に。




 魔王は、もうこちらを見ることなく何もない空間を歩いて行こうとする。


 茫然としていたフィエルンは、遠ざかる背に堪えきれず名を呼んでしまった。




「シュヴァイツ」




 この焦燥は何なのか。テネシアの感情か自分の感情か分からなくなりそうだった。




 声に反応し立ち止まった魔王だが、フィエルンが何も言えないでいると、やがて闇に溶け込むように姿を消してしまった。




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