26話  あのころふたりは

 小学生の美優は、おどおどとして、いつもおびえているような少女だったそうだ。


 今と変わらないのは髪型だけで、射抜くような目つきの鋭さや小馬鹿にしたような態度も、当時からは想像もできないとのことだ。


 あとひとつ、いつもひとりで読書をしているのも、当時からだった。


 放課後はよく図書館にいて、陽が暮れて先生に帰宅をうながされるまで、ずっと黙々と読書に励んでいたらしい。


 そんな美優がのぞみと接点を持ったのは、図書委員がきっかけだった。


 のぞみのほうは、だいぶ前から美優に関心を寄せていた。

 いつも教室の隅にいて、周りが何をしていようと自分の世界に入り込んでいて、流されることも、動じることもない。

 そんな美優が何を考えているのか、心惹かれていた。


 四年生でクラスが一緒になったときから気には掛けていて、けれども違う世界の人種のような気はしていて、最初は近づきがたかった。


 それが決定的に変わったのが、五年生もクラスが一緒になって、教室で席が近くなったとき。

 あまり仲の良い友だちが一緒のクラスにならなかったこともあり、のぞみは何気なく美優に声を掛けたのだ。


「またクラス一緒だね? よろしく!」


 この頃は、のぞみも持ち前の明るさを前向きに駆使していたわけだ。

 美優は急に声を掛けられて、驚いたようだった。あたふたと慌てながら、


「うん……よろしく」


 精一杯の笑顔を、のぞみに向けた。


 な~んだ、この子、こんな笑顔もできるんだ。そのときのぞみはそう思った。と同時に、美優が手元に持っていた本のタイトルが目に付いた。


 ――『白い馬をさがせ』。


 本のタイトルは、そう読めた。


 それは図書室で借りた本のようだった。のぞみは本なんて読む習慣はなかった。だから今までも、誰かの読んでいる本を、自分も読んでみようなどという発想は、なかった。


 けれども、『白い馬をさがせ』は、なぜか脳裏に焼き付いた。


 だから、美優がその本を読み進める様子はちらちらと気になったし、美優が別の本を読みはじめたタイミングで、図書室でその本を見つけ出し、借り出した。


 そして、のぞみは初めて、寝る間も惜しんで読書に没入するという体験をした。


 なぜか本を読んでいることを皆に知られるのが恥ずかしくて、のぞみは『白い馬をさがせ』のことを、誰にも話せなかった。けれども、その魅力を誰かと分かち合いたくて仕方なかった。家に帰れば、父親と母親に、その本のことをずっと語って聞かせていた。誕生日のプレゼントに、新品の一冊を買ってもらうくらいには、とりこになっていた。


 いつしか、美優はどんな感想を持ったのか、聞いてみたい欲求に駆られていた。

 だから、クラスで図書委員を決めよう、という話題が出たとき、まっさきに手を挙げた。そして半ば強引に、美優も引き込んだ。


「早乙女さん、本好きだよね? だったら一緒にやろうよ!」


 美優はたじたじだった。けれどもまんざらでもなさそうだった。こうしてふたりは、初めて友人らしい関係を築くようになった。

 図書委員の仕事に励みながら、のぞみは真っ先に、『白い馬をさがせ』の話題を美優に振った。


「え……? 宍原さんも、あの本読んだの?」


 果たして美優も、『白い馬をさがせ』は気に入りのようだった。

 ふたりが意気投合したのも、このときだった。


 それからは、美優がおすすめの本を紹介し、のぞみがそれを読んでは、感想をお互いに言い合う関係になった。


 図書室の本を、ふたりですべて読んでしまおうなどと話し合うこともあった。のぞみが美優の読んでなさそうな本を先に読んで、逆にすすめるようなこともあった。


 この頃ふたりをつなぐものは、本だった。


 そんなある日、美優はこっそり、自分の秘密をのぞみに打ち明けた。


「え!? すごいよ、それ!」


 のぞみはすぐさま食いついた。美優は、自分でも物語を書いていることをのぞみに話したのだ。


「人に見せれるようなものじゃないよ……。続きも上手く書けないし……」


「だけどすごいよ! どんなお話?」


 のぞみは、自信のない美優の構想を引き出していった。一緒に続きの部分を構想したりすることもあって、そのための勉強会を開くこともあったらしい。


 はからずもそれは、俺が美優と一緒に作業することになった流れとよく似ている。

 俺は、のぞみの話を聞きながら、自分と美優とのことを重ねずにはいられなかった。


「でも、それは長くは続かなかったんだよね」


 のぞみはラーメンをすすりながら言う。落ち着きたいとは言ったものの、かしこまった雰囲気は苦手なので、家系ラーメンのテーブル席に俺たちは収まっていた。


「家系食べてる女子高生、はじめて見たかも……」と俺は、話と関係ないことを突っ込むも、


「運動部はカロリー消費おおきいの!」


 今日は部活に出てないはずだが、とのツッコミの隙もなく、反論されてしまった。


「……んで、どうして続かなかったんだ? 俺と美優のときはまあ、俺がヘマしたのが大きいが……」


「周りの目だよ。私、その頃は美優ちゃんとばっかりつるんでたからさ。周りから変な目で見られちゃってね。あの子、ほかに友だちとかいなかったから」


 確かに、そういうのを関係ない奴らが揶揄やゆすることは高校になってもよくある。きっと大人になったってみんな同じことをしてしまうのだろう。


「一緒にいづらくなった、ってのが正直なところ。聞こえるところでひそひそ言われちゃったりとかさ」


「本ばっか読んでたようなやつにしてみたら、応えるよな、そりゃ」


「でもね、美優ちゃん負けてなかったんだよ。何? って感じでにらみ返したりとか。むしろ張り合ってた」


「……あの殺す勢いの目つきは、その頃に養われたのか」


「今でもあの視線バリアは現役みたいだね? あの子は私との関係、守ろうとしてくれてたんだと思う。あの子の気持ちに応えられなかったの、私のほうなんだよ」


 のぞみは声を落とす。


「正直その頃は、あの子さえ友だちでいてくれればいいと思ってたんだ。なのに、私はモヤモヤしてる奴でさ。あの子がいざ、物語を完成させたとき、私は、受け取ってあげられなかったんだよね」


 自分なんかが読んで良いのかなと、のぞみは美優に言ってしまったらしい。ノートを何冊も束ねて持ってきた美優は、のぞみのためらいがちな表情を見て、ショックを受けていたようだ。


 美優にとってはそれが処女作だった。どんな感想をもらえるのか、面白いと思ってもらえるか、淡い期待と不安のないまぜで、作品を持ってきたに違いない。


 それが、読むことにすらためらいの表情を見せられたとき、美優はさぞかし落胆したことだろう。


「読んじゃったら、感想を言わざるを得ない。そうしたら、またふたりっきりになることも増える。怖かったんだよ。会うときはあの子の家にあげてもらってたけど、ほかの子と遊ぶこともなかったから、結局ばれちゃうし。世知辛いんだよなあ、子どもなのに」


「じゃあ、それで気まずくなって、もうあいつとは会わなくなっちゃったのか?」


「そうだね。ほかの女友だちは、また平気で私のこと、遊びに誘うようになってたし。はじめから頭数だったんだよなあ。なのに抗えなかった自分が恥ずかしい。そんなこんなで、卒業式も近づいてきちゃった」


 そしてあの事故が起きてしまった。俺は、そう理解した。


 しかしのぞみは、


「そんなとき、あの事件が起きた」


 はっきりとそう言った。


「……事件?」


 俺は聞き返す。美優の父のことは、あくまで事故のはずだ。


 のぞみは、別の何かのことを言おうとしているのだ。


「うん……」


 のぞみは続く言葉に迷うようだった。それをごまかすように、残ったラーメンを無理やり、一気にすすり上げる。


「ごっそさん! ねえ、あのさ……」


「どうした?」


「ちょっと、風当たりたいかも」


 苦笑しながら言うその声は、震えていた。


「……わかった」


 俺は手短に言う。すぐにかばんを担いで、俺が率先して店を出る形にした。


 のぞみは、泣いているように見えた。


 店を出ると、のぞみは俺の数歩先を歩いた。もうすっかり日は落ちていた。

 言葉はなく、のぞみは信号を渡って、人の気配がないほうへと足を向ける。


 そこは期せずして、いつか俺と美優とが一緒に歩いた公園だった。

 そのときは明るい陽射しが差していたけれど、今は人目を嫌うような闇に包まれ、街灯の光だけがぼんやりと道を照らしている。


「これを話したら、たぶん君、私を軽蔑する」


 のぞみは振り返ることなく、言った。


「それでもいい?」


 俺の前を歩きながら、そう続ける。


「ああ」と、俺は答える。


「もしそうなっても、君を見捨てない」


 とっさにそう言った。


「やさしいね……。ずるいや」


 のぞみは鼻をすすった。振り返りたくないのは伝わったから、俺はのぞみの後ろから、ゆっくり歩調を合わせた。


「あれは――」


 震える声で、のぞみは物語の最後のピースをつむいだ。

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