第六章(2)…… 喪失するもの


 アカネは、須藤務が最上階に現れたのを見ていた。

 エレベーターの扉が開く音がして振り返る。籠内の照明が狭い空間を煌々と照らし、開いた扉の外へと扇形状に明るい光を放つ。


 ひとり立つ須藤務の頭上から、暗い影が足元に落ちている。一歩を踏み出す。須藤務の影が、床に広がる扇状の光を遮る。


 光がふたつに割れ、やがて照り返しの外へ出て薄暗い駐車場の床へと降り立つ。機械の動作音が聞こえる。

 須藤務の背後で扉が閉まった。


 灰色のジャケットとジーンズ、履き古して汚れたスニーカーという出で立ち。相も変わらず身体に合わない、オーバーサイズの服を身につけている。

 そして、アカネは気づいた。大きな違和感だった。


 アレがいない。

 ぐらりと視界が傾いで、狂い始めるのを感じる。


 須藤務が、目的の白いSUV車まで歩み寄ってくるのを目で追いながら、アカネはこれまでにない焦りを覚えた。


 いない、どこに行ったの?

 視線を走らせる。


 とてつもなく厭な予感がよぎる。途切れて急激に絶えていく感覚に、存在の理由を手放したのを知る。絶対に無くしてはいけないはずのもの。それを、ついに失ってしまった。


 自らをかたどる人間性に、底なしの虚無が詰め込まれる。

 居場所をなくして放り出だされた理性が、ぼろぼろとこぼれ落ちていくように感じた。拾い集めることもできない。


 ひどく寒くなる。内側から凍えていくようだった。闇に飲み込まれてしまう。消えてしまう、このままでは。


 湧き上がるのは強い憤り。どんどん強まって、どうにも抑えきれなくなる。


 須藤務は、一台だけ停まっている車に迷わず近づいた。

 車内にいる運転手と視線を合わせる。互いが特段反応することもない。無言のまま、手慣れたようすで後部座席のドアに手をかける。


 ガチャリ、とロックが外れる音が周囲の寒々しい壁に反響する。ドアを開いて滑り込むように乗り込む。力任せにドアを閉じる音が、まるで破裂音のごとく響き渡る。


 運転手となにか話している声が聞こえる。なぜか言葉が聞き取れなくなっていた。あるのは高低差のある、音の羅列。車内にいる生者たちが発する、激しい発声がやけに気に障る。

 大切なものがいなくなった。自分が壊れていく感じがした。

 見えていたものが色を失う。すべての意味が消えている。


 運転手と、後から乗車した男が車内で争うようすが見えた。会話を交わしていたかと思うと、言い争いに発展し、ついに激高した。

 部座席の男が突然、背後から座席越しに襲いかかった。


 車体が揺れている。

 後部座席に乗り込んだ生者が、運転手席の生者に手をかけている。首に腕を回し、もがこうとする動きを封じる。背もたれに身体半分が埋まるほど、渾身の力で締め上げる。

 アカネは運転席にいる生者の身体を包む膜が薄まっていくのを見た。ああ、あのままだと光が消えてしまいそう。すこしずつ、潰えていく。



 このままでいいんだっけ、とアカネは考えていた。

 なにかしなくてはいけないような気がする。だが、その場から動けずにいる。

 なにかが、と思って、両手を目の前に広げる。感覚が遠い。


 道を見失いかけていた。その時、視線の先に覚えのある姿を見た。

 いつもならこちらを見て、親しげに話しかけてくるはずだった。あそこにいる。なのに、いまはまるで見知らぬ者になってしまった。アカネを無視する。相手は白い車に素早く駆け寄っていく。


 あの生者……え……っと誰だっけ、

 身体の奥にわだかまるものを意識して、突如ひらめいた。

 奪われた――?

 なにを? どうして?


 そうだ、さっきまであの子はあれほど光り輝いていた。心奪われるほどに。なのに、いまや他のものと同じようにくすんでいる。

 なによりも触れると温かくて、視線を向けられるだけで気持ちのいいもの。もう、こちらを見ようともしない。


 猛然と湧き上がる情動があった。

 こっちを見てシュウ、じゃないと、あたしは……

 ここから消える。


 あたしだけ? でも、そんなの許せない。

 自分のものだったのに。取り戻さないと。


 白い車の後部座席から出てきた者が、運転席の扉を開ける。腰を曲げて先へと手を伸ばし、なにかをしようとしている。

 そこへ修哉が相手の後ろに近寄ると、相手のジャケットをつかんで一気に引き寄せた。


 自分のほうに向かせ、なにか言っている。

 吸い寄せられるように、アカネは修哉の背後へと近づいた。 

 両者は言い争っている。存在を認めてくれる者がいなくなった。その事実だけが身体の内に積もる。だれもあたしを見ない。いてもいなくても同じ。


 そんなのは厭。


 救いを求めて、右手で修哉に触れる。近づいても弾かれはしなかった。この子はもともと防護が薄い。いくらでも触れられる。

 でも。


 この不確かな感触。修哉に触れても、こっちを見てくれない。

 気持ちを向けてくれない。あたしを忘れてしまった。嘘だ、嘘、こんなの嘘――



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