第五章(3)…… 過去 1


 急に視界が開けた。

 明るい。まぶしい。


 耳障りな音階が流れている。心臓の音が聞こえる。鼓動が遅い。

 手を引かれて、引き延ばされた時の流れのまま、アスファルトの道路を歩く。

 なんだっけ、この曲。ぼやけた思考でたどり着こうとする。


 昔――ずいぶんまえに聞いたことがある。道を渡るのに、なんであんな不安になりそうな曲を流すんだろう、そう思った。


 かごめかごめ、――いや違う、曲調が似ているからいつも間違える。

 これは……通りゃんせ。

 そうだ、たしか歌詞は……とおりゃんせ、とおりゃんせ、ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ――


 大体は途中で無機質な電子音に切り替わってしまう。だが、いまは最後の楽節まで聞こえる。


――怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ。

 

 漠然と考える。なにがこわいんだろう。

 歌詞は、いまの心境と重なる。


 足元には白い線が横向きに並び、左右にゆうらり、ゆうらりと揺れながら、ゆっくりと後ろへと消える。

 白い線は横断歩道。機械の断続音が歩行をうながす。 

 下ばかりを見ているから、視界の外に人がいるのか、赤信号で停止した車がいるのかもわからない。


 乾燥した空気。埃っぽく、まとわりついたすべてが細かないらだちとなる。身体に触れるものはチリチリとささくれ立ち、すべてが自分を見放す。ひどく不安で嫌な気分だった。


 呼吸音が大きく響く。視界が乱れ、大きく揺れた。


 後方へと急激に飛ばされる。なにがどうなっているかわからない。頭の後ろと背中を強打したが、痛みがやってくることはなかった。だれかが大声で喚きながら近づき、平手で叩かれ、視界ががくんとぶれた。


 泣いている。子どもが泣き叫んでいる。


 痛みと恐怖で金切り声になっている。つんざくような泣き声が際限なく続く。

 内側からあふれるのは激しい不快の情動、そして畏れ。男の怒鳴り声が頭に反響する。目前の対象が巨大すぎて激しく怯える。こわい、こわい、と感情が奥底からあふれてきて小さく縮こまることしかできない。


 ごめんなさいごめんなさい、と許しを請う声が響く。


 一方で、こうも考える。大きく見えるけど、たいした相手じゃない。たぶんやり返せば倒せる。虚勢を張るだけの、くだらない対象。子どもをこんな酷い目に合わせるなんて許せない。殴り返してやりたい。

 やめろ、喚き立てるな、くだらない暴言なんか聞きたくもない。

 だがこれは一体、だれの声だ?


 誰かが考えている。自分ではない、誰か。

 若い男は両眼の端を尖らせて、さらに殴ってくる。

 視界が左右に揺れ、投げ出されてうずくまる。上から踏みつけにされる。

 部屋の扉が開いていて、人影が見えた。若い女。助けてほしいのに助けてくれない。

 目が合ったのに逸らされる。口もとを押さえた右手。隠しきれていない口の端が上がっている。


 疑問が浮いた。なんだこいつ、なんで止めないんだ?

 そう考えた時、早鐘のような心臓の音が一瞬途切れた。




 男が消え、場面が移り変わる。部屋は同じだが、ひどく荒れている。聞こえる声が響く。

 年老いた女の声が聞こえる。


 まったく、ろくでもない父親だと思ってたよ。いつもいつも酒飲んで暴れて。


 ひそひそとささやき合う。小声で言い合う。


 金欲しさにとんでもないことをしでかして、人を刺したって。

 警察に捕まったってさ。


 いくつもの人の群れが、顔を突き合わせて話している。


 やっとこれでここら辺も平和になるだろうけど、戻ってきたらまた面倒ごとを起こすに違いないよ。

 もう面倒ごとはごめんだよ。

 残りの家族も出て行ってくれないかねぇ。


 老若男女の声がいくつも重なって聞こえている。繰り返されるさざ波に似たざわめき。すべてが嫌悪で満ちている。


 耳を塞いでも聞こえる。出て行け、ここから出て行け。




 呼吸音が聞こえる。視界が滲んで歪む。

 心の奥がずうんと重く、深く深く沈んで鈍く痛む。


 お母さんはいなくなった。どこかへと消えてしまった。


 大した思い出もない。八歳になるまでに、思い出せる記憶の一番初めがあの男――血が繋がってもいない、ろくでもない父親――にぶん殴られて、止まらない暴力に泣き続けるしかなかった瞬間だった。


 あまりに強い恐怖。記憶に刻み込まれてしまった。


 母親だったはずの女はただ、隠れながら笑っていた。口しか覚えていない。顔は空白ですっぽり抜け落ちてしまっている。


 そして今、調子っぱずれな機械の曲調を聞きながら、手を引かれて歩く。繋がれた手は蝋のような肌をしていた。


 遠ざかりながら再び、とおりゃんせ、とおりゃんせ、と音階が鳴っている。


 手は乾いて、ひんやりしている。歩くたび、かすかにひっぱられる手が前後に揺れる。



 

 調べが聞こえる。きらいだ、この歌。そう思った。

 いきはよいよい、かえりはこわい。

 どこか不安定な音階が、大きくなったり小さくなったりする。




 記憶のかけらは、普通の日々を駆け足で映す。

 母方の祖父だと名乗った初老の男は日々の役割を振り、できるまで厳しく教え、しつけた。


 通う学校で居場所はなく、勉強はすこしもふるわない。口をきいてくれる相手がいない。仲間はずれにされ、友だちもいない。

 親がおらず祖父と暮らす内気な子どもに、周囲は優しくなかった。遠巻きに陰口を叩かれ、無視されるのに物が隠されて消える。


 体育の授業を覚えている。グラウンドに広がって整列しているところに、二人組になりましょう、と先生が大声で指示する。

 相手がいない。ひとり残る。集団から外れる。大勢の後ろにぼうぜんと立ちつくしていても気づかれない。


 そのうちに終了のチャイムが聞こえてくる。やっと終わった、とひとりで安堵する。誰にも気づかれたくなかった。


 祖父は口数が少なかった。あいそがなく、必要がなければ構いもしない。家に帰っても、学校で起きたことを話せる空気ではない。


 ただ、ひとつだけ良かったと感じることがあった。

 食事だけはきちんと出てくる。

 毎度口にできる、まともな味の食べ物。これまで、ろくに用意もされなかったから、食べたいだけ食べられるのは嬉しかった。


 味覚に執着する。あるだけ食べても老人は止めなかった。

 食事を作るのは自然に覚えた。痩せて小さかった体格が成長して、ぐんと背が伸び、女の教師と変わらぬくらいに目線が並ぶ。

 普通に小学校を卒業し、中学に入って二学年の半ば頃に祖父が倒れた。

 病院に入って、あっという間に亡くなってしまう。


 葬式の時に現れたのは、いなくなった母親の妹の夫婦だった。


 うちに来なさい。そう言われた。

 気乗りしない、ぶっきらぼうな口調。目線が動いて、視界が声の主をとらえる。


 焦点が定まらず、常にふらふらと動いて落ち着かない。

 相手に不安を感じている。しっかりと見据えることができない。

 数秒止まった視界。伯父と伯母と名乗る者たちの表情が、静止画のように焼きついた。まるで能面のように映る。


 傍らに自分と同じくらいの歳の男女が横顔が見えた。

 あれは夫婦の子どもだろうか。


 背丈は全員が同じくらいで、目線よりやや高いか同等だった。

 伯母はそっけなく娘と息子を紹介した。姉はそっぽを向いたまま不機嫌そうにして、こちらを眺めもしなかった。


 反対に弟は目を細め、舐めるように上から下まで値踏みする。

 嫌な表情。そう感じた。なのに、ピントがずれているように顔の詳細はぼやけていてよくわからない。


 全員が記号でしかない。並んでいるのは、不快という記号。



  

 本当にろくでもないことばかり。

 感情的な甲高い声が聞こえる。いまいましげに言い放つ。


 姉さん勝手にいなくなって、やっと父さんのところで面倒見てもらえると思ってたのに。今度はこんな面倒ごとになって。


 いらだつ声に視線はいつも下向きで、見上げることがない。


 あんた、ここにいたいと思うんなら――

 相手から突き刺さるような威圧を感じる。動悸が激しくなる。断ったら自分の居場所がなくなると察した。行き場所は他にない。拒否の選択肢はない。立場が弱いから。

――やること、ちゃんとやってもらうから。


 うなずいたのか、視界が揺れた。




 延々と続く、自由なんてない日々。記憶のなかの光景はどれも灰色がかっている。飛び飛びに覚えている。

 中学を卒業した時。式が終わって解散したあと、みな集まって楽しげに語り合っている。ひとりきりで誰とも話さず、記念写真を撮る家族の列を横目に通り過ぎる。


 心のなかは空虚なままだった。


 場面が飛んで、高校の制服が映る。

 登校する生徒たちの、道いっぱいに広がって歩く幾つもの列。大声で話し、けたたましく笑う。髪の色が黒い者のほうが少ない。


 うつむいて教室に入るが、決められた席に座っている者は少数だった。

 おとなしく静かに授業を受けているなんてありえないらしく、いつも騒々しい。立ち歩く者が離れた場所の集団にしゃべくっていて、教師の声も聞こえない。


 人という記号がバラバラに動いている。まるでまとまりがない。人と言うよりは人語に似た奇声を垂れ流す動物みたいだ、と考えた。

 でもかまわない。学校へ行っているあいだだけは自由な時間。家から出られるだけ、ましだった。


 記憶にあいまいな場面が増える。

 ざらざらとした感触が胸のうちに溜まっている。


 家にいるあいだは、すべて言いつけを守り、やることをやらなければ寝かせてもらえない。

 不満。いらつき。憤り。全部表に出してはならない。できないと暴力が待っている。体罰だけが暴力じゃないのだと知った。


 家の中で自分の気持ちを表に出そうものなら、頭ごなしに否定される。

 感情は忘れ去り、ひたすらなにも思わない。考えないし、声も出さないように努める。

 なにも感じてはいけない。


 覚えていたくないから忘れたのだと思った。



 

 揺れる、揺れる。視界が上向きになり、天井の細かな凹凸が見える。じっと見つめる。ただ眺める。


 光景が千々に乱れる。壊れた再生機のよう。


 なにも考えちゃいけない。考えても無駄。

 でも勝手に思いはあふれ出る。


 最初から自分にはなにもない。望んでも助けなんてものはない。泣いてもどうにもならない。だから泣かない。

 なんでこんなに非力なんだろう。なんど心の中で人を殺してきたか。時には自分ですらも。そんなことを知ることもなく皆、退屈そうに毎日を暮らしている。


 だれもが見て見ぬふり。他人の悪意をぶつけられても、決してやり返せない。私の人生はなにひとつ自分のものにならない。あがいても無駄。無駄無駄無駄。


 なにも与えられなかった。特別に突出した能力や技能もなく、無力なせいで、ただ虐げられるしかない。


 親はろくでもない。

 ましな生活ができたと思えば、祖父は死んだ。

 親族は自分を奴隷のように扱う。


 追われる。つかまる。力でねじ伏せられる。いいように殴られる。

 どうしてもかなわない。

 体格はさほど変わらないはずなのに。


 抵抗しても、力の限りあらがっても、相手は容易に覆い被さってくる。敵わない、やめて助けてと叫んでも叶わない。

 襲いかかる相手の顔は真っ黒だ。低い男の声が耳元に近づき、黙れおとなしくしてろと命じる。


 抵抗すればするほどひどい目に合わされる。


 どうすればましになるだろう。考えてはいけないと思うのに考えてしまう。無力。こんなにも自分には、なにも無い。


 目に映るものに意味はない。

 人の顔はどれも同じ、自分に向けられる表情――記号には興味がなかった。暗い穴のように真っ黒。あるのは絶望の色。


 死んでしまえ、死んでしまえ、みんな死んでしまえ。

 こんな自分もいらない、ぜんぶ汚い。汚れてる。汚くて臭いものに穢されている。おまえなんか死んでしまえ、ぜんぶ消えてしまえ。


 こんな世界で、生きる意味なんてない。




 ふらふらと流れる光。夜の光源が、闇に線を引いて映る。

 夢のなかにいるかのように現実味がない。


 街の雑音が遠く、耳に届く。

 ひそひそとささやき合う声が、ぼんやりとしているのに、身体に突き刺さってくるかのように感じる。遠巻きにする人々の動く口もとから大量の棘が漏れ出ている。


 人の視線が自分に向けられている。ひそめられた眉、不安が入り交じり、訝しい目つきが並んでいる。


 重たい思考で訴える。救いもなく、どん底まで追い込まれても誰の目にも留まらない。

 見たければ好きなだけ見るがいい、これが現実。おまえたちの知らない、見放された者。身体だけ生きて、心はとっくに死んでる。


 消えてしまいたい。


 誰か近寄ってくる。近づいてくる。

 制服の女がふたり、声をかけてきた。

 なにを言っているのか聞こえない。耳が塞がったようになっていて、聞こえない。


 口を開く。話そうとしているのに、喉の奥が膨らんでいるように感じて、思うようにならない。


 息が漏れるだけで、声は出なかった。




 女の金切り声が口汚く罵っている。大声で喚いているのが聞こえた。


 どうせあの女が息子の気を引こうとして誘惑したに決まってる。


 顔が解らなくなっていた。人の頭部は真っ黒に塗り潰されている。どうせ見たところで覚えられないから、記憶のなかで改変されてしまっている。


 声の主は伯母だろうと想像がついた。ものすごい勢いで駆け寄られると顔を平手打ちにされた。

 周囲がざわつく。

 さらに暴行を加えようとする女から、背後へと引かれて剥がされた。あいだにひとり、割って入って女をなだめようとしている。


 そのあいだに別室に誘導される。振り切って追ってくるのではないか、背後から襲われるのではないかと不安になり振り返ると、女が警察署員をすり抜けようとして引き留められているのが見えた。

 こちらを睨みつけ、がなり立てている。


――アレがタブラカシタ!


 あれ、と呼ばれた。人扱いですらなかった。


――疫病神! 悪魔!


 相手にしているのが人なのか、わからなくなる。


――ウチの息子ハ悪クないンデス、アノ女ガ悪イ、馬鹿女!

 恩知ラズ! 腹黒ノ淫乱女!


 激高して喚き立てる声は、もはや人の言葉に聞こえない。


 急激に身体が冷え、心が凍りつく。もうどうでもいいと思えた。

 未来はいつかよくなる。そう信じてもいいと思っていた。だって世のなか、みんながそう言っている。口を揃えて、笑っている。


 信じれば幸せになれる。

 嘘だ。ぜんぶ嘘。


 信じるから絶望する。期待なんかしてはいけないんだ。必ず裏切られる。

 馬鹿だった。なにも信じられない。誰も信じてはいけない。


 感じるから怖い。気持ちなど無ければいい。


 大きく息を吐く。最後に残っていたひとしずくが蒸発する。心が渇く。乾ききっているから涙も心に感じる痛みもない。


 心臓の音がゆっくりになる。

 扉が閉まると女の声が消えた。視界が闇の中に落ちる。


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