第四章(4)…… うつつと今を体感する
その晩、修哉は夢を見た。
転げ落ちるように意識が途切れる。疲れた身体から自我が抜け出し、夢の世界に降り立つ。
淡い色彩のなか、ゆっくりと歩いているのに気づく。
たびたび見て、覚えのある光景なので夢だとわかる。
周囲には薄茶色の岩が連なり、波に洗われて角が取れた石や微細な砂を踏んで進む。体重の軽い足音が聞こえる。打ち寄せる小波が寄せては返り、次々と繰り返す静かな波音が耳に響く。
波打ち際に近づき、透明なのに霞がかかったかのような穏やかな色の水面に目を向ける。遠くに水平線が目に入る。穏やかな陽光を写した波の際が白く反射し、きらめいてまぶしい。
波間から人の細い腕が伸び、白く長い指が手招きをする。
呼ばれていると感じ、疑いも怖れもせずに寄せ波を踏み、飛沫を跳ね上げながら水中へと入る。靴の中に水が入る。足先から沈み込むように身体が水に落ち、服が濡れる。
いつになく視点が下がっている気がする。両手を広げ、目の前に向けるといやに手が小さい。そこでやっと、自分が子どもになっているのに気づく。
水温は低くない。頭まで水に浸かってもどこも苦しくない。ただ、招かれるままに沈んでいく。
見上げると水面に光の揺らぎを漂わせ、幾重にも輝かせて、見とれるほどに美しい。水中に落ちる光の筋が、今いる場所より深い位置に射し込んで行く先を照らしている。
多くを考えるのが難しく、これが現実ではないとだけぼんやり感じる。
いつものように、ふわりとアカネの姿が泳ぐように近づく。一方で水中にも関わらず重力は下に向き、水中にも関わらず外気と変わらない呼吸をしながら立っている。足元は濃い青と深い暗闇が混ざり合う。
水中に呼気の泡も立たない。足元には段差があり、見えない透明な階段を迷いなく降りていく。
淡い水色のドレスを身につけたアカネは、長い裾を水中でひらめかせ、自在に移動する。緩い波を描く明るい色の髪を泳がせて、柔らかな笑みをたたえてこちらへと視線を向けてくる。
姿こそ同じだが、ひとことも発しない。
人型の魚のように、ただ周囲を楽しそうにくるくると舞う。
アカネは修哉の右腕を取り、深部へと誘う。誘われるまま、ゆっくりと一歩踏み出しては一段を降り、さらに一歩と引かれていく。
周囲に射し込んでいた光の筋はやがて届かなくなる。見上げても水面はもう見えない。
降りていくうちに淡い水色だった周囲は、やがて濃い青と緑を混ぜた色に変わり、藍から紺へと沈み、闇へと続く。アカネが顔を覗き込んでくる。無音の世界に、自分の鼓動が水を通して広がるように感じた。
平静な心臓の音が聞こえる。呼吸も楽にできる。穏やかなようすが、ここはこわくないと告げてくる。
アカネの身体は肌の内側から淡く光を発し、周囲をぼんやりと照らし出す。
透明な眼差しが微笑みで細まる。肌も服も色を失って、仄暗い表情は青白く、深海で発光する生物のようだった。
いつしか奥底に到達し、漆黒の底に立っていた。降りる先が無くなって、平行に歩き続けるしかない。
ここまではいつも同じ。このあとは真っ暗な中をアカネに誘われて歩き続ける。戻ろうとすると引き留められたり、まとわりつくアカネを追い払ったりと、かまわれるままに時間を過ごす。そのときによって彼女の行いはすこし変わるが、ふわふわと漂うような、穏やかな心地でアカネを眺め、やがて目覚めの時を迎える。
しかし、今のアカネはこちらの手を引いて、さらに真っ黒い闇の底へ潜ろうと急かしてくる。
足元に広がる障壁。上と下を隔て、行く手を阻む。アカネの身体だけが通り抜けて闇に消え、自分が立つ場所から更に奥へ進めるのがわかる。
ひざまづいて、足場を確認する。
小さな手で足元を払うと、大地は細かな黒い粒子となって渦を巻きながら舞い上がった。時折、泡のように小さな光の粒が立ちのぼり、上空へと消えていく。黒いさざ波から顔を出しているアカネに片手を取られ、気づくとじわじわと黒い粒子の内に腕先がめり込んでいく。
見ているうちに自分の腕――、細い子どもの腕が闇に飲まれて消えた。
底が抜けるような感覚に包まれる。急激にバランスを崩し、横倒しになる。あ、と思った瞬間、自分がいるこちら側とアカネが潜るむこう側を隔てる足元が崩れて、身体が沈んだ。決して忘れられないにおいが鼻を突く。
記憶が目前に開ける。落ちる。落水したときの衝撃はなかった。
猛烈な圧力で押し流される。泥の混ざった、濁った水の臭い。耳孔に水が入り込み、逆巻き、轟く音がこもってよく聞こえない。
暗い夜の水に揉まれてめちゃくちゃな視界に時折、街路の照明が流れて映る。突然水中に放り込まれ、猛烈に暴れる何かにしがみつかれて身動きが取れない。どう足掻いても、うまく動けているともわからない。
だが、頭のなかはとても落ち着いていて、これは現実ではないと理解できる。これは夢だ。
口の中に濁った水が入り込むのに、見ている自分は不思議と苦しくない。激しい呼吸が頭に反響する。
どこか現実とずれがある。
発している音が、なぜか自分と合致しない。必死にもがくものが絡まってきて、手足の自由を奪おうとする。水中へと引きずり込まれる。濁流は速く、足はつきそうなのに滑り、すこしも定まらず、立つことができない。
重い、動けない。助からない。
流される。流される。息ができない。
助からない。助けられない。
支えきれない。
死ぬかもしれない。
次々と浮かんだ思考が、留まることなくこぼれて、暗い穴の底へ滑り落ちていくようだった。残るのはあきらめと絶望。
水面から押し上げ、斜め後ろから横顔をとらえる。
しがみついて必死に足掻き、もがいていたのは、この子だった。ずぶ濡れの身体、柔らかな細い髪が濡れて肌に貼りついている。すでに力を失い、ぐったりしている。ふいに気づいた。
これは――自分だ。幼い頃の。あの日の。
そして気づく。自分の記憶ではないと。これは――そうだ、他人のものだ。たぶん、これは――
耳の奥で、低い声が聞こえる。途切れ途切れの男の声。
「あ――さん――けっきょく――ころ、死因は――ったんです?」
聞き覚えのある低音の声に、目覚めの予感が近づいてくる。浮かび上がる意識に、夢と現実の境目が切り替わる。
「ええ? なんであんたがそんなことに興味あるの?」
険のある口調でアカネが言い返すと、グレが落ち着いた声で言う。
「そりゃあ気になるでしょう。解決の糸口になるかもしれません。ご自身で調べてないんですか」
「……したわよ」
はっとして、目が覚めた。頭が完全に働き出した。
気づいたとき、修哉は自分がなにをしていたのかを把握できずに混乱した。なんで目の前にモニターがあるんだ?
やけに輝度が高くてまぶしい。その理由が、部屋の中が薄暗いことに気づく。照明が点いていない。
ちょっと待て、オレはベッドに寝てたはずだ。なんで机の前に座ってんだ?
ラップトップパソコンに無線接続したマウスを右手で握って、動かしている。その感覚がない。勝手に左手がキーボードを叩いて操作する。
まるで自分が魂だけ、肉体と言う名の無感覚の箱に押し込められたかのような感覚。急激な不安に駆られる。
「あらやだ、シュウが起きてる」
アカネの声が、自分の声帯から発する言葉となって共に耳に届く。完全に目が覚めた。これはすでに中に入り込まれている。
アカネの驚いたようすが伝わってきて、修哉はこの異変を引き起こした張本人を知った。
「いったい、これはどういうことですか」
身体を勝手を使われていると気づいた。
「だからスマホのほうがいいって言ったのに。目を覚ましても、ごまかしが利くんだから」
アカネは素っ気なく答えた。修哉に向けての言葉ではない。
「ちまちましたもんをいじるのは苦手なんですよ。こっちのほうが扱い慣れてますから」
地声よりかなり低い音域が、自分の声と重なって聞こえる。ちょっと待てオレ、マジでどうなってる?
右手と左手の感覚が反転しているように感じる。すごい違和感があった。これは――右手がアカネさん? 左手は……?
左半身にアカネが右半分だけ入り右手を動かし、右半身にグレの左半分がいて左手を操っている。アカネの感触は何度か体験しているから、視界の色味が違うのはわかるが、グレもまたすこし違う。
アカネにしか許したことがないからわからないが、これって……入り込む霊体によって、オレ自身が発揮できる能力が違ってくるんだろうか。
アカネは修哉を使って、敵を吹っ飛ばす。グレは……、と修哉は駅で初めてグレと接触したときを思い返した。
中に入り込まれたとたん、グレが修哉の自由を奪った。内側から大切なものを強奪される感覚。全身から血が引く。あれは怖かった。
それぞれの個性に興味が湧くが、試そうなんて言い出そうものなら嬉々として実験されそうな気がする。なので黙っておいた。
「ちょっと……なんでもいいですから、出てってくれませんか」
ふたりに入り込まれる感覚はなんとも言いがたい。感触の混線が起こっている感じだった。身体によくわからない付属品を取り付けられ、細部まで神経が通じて自在に動かせる。それらが他者に支配され、勝手に動かされる感覚を共有しているとでも言えばいいだろうか。
一番の問題は、自分に危機感がないことだと思う。起き抜けにとんでもない体験をした。そうは思うのに嫌悪がなかった。
するりと両名が抜け出すのを感じ、同時に身体が自由になった。
いま何時だ、とモニターの右端を確認すると午前六時半の表示が目に留まる。修哉は立ち上がると、遮光カーテンを開けた。窓から朝の光が入り、室内を照らしてまぶしい。
風呂から上がってグレと話をしてから、自室に戻ってベッドに倒れ込んだところまでは覚えている。アカネになにか言われた気がしたが、それ以降の記憶がない。
あんな目に遭ったあとだ。仕方がない。限界。そんな言葉が頭をよぎった。
不愉快を露わにして修哉は訊ねた。「アカネさん、また約束破ったんですか」
「約束って……これはあたしが言い出したことじゃないもん。だから破ってないわよ」
「なんですか、その約束って」
グレが横から口を挟む。修哉は返答に困り、ぐっと詰まった。
「だって、ああいうのって気になるじゃない?」アカネが悪びれたようすもなく口を開く。
「それに、あれは同意のうえだったし、うまくいくってわかってたから、大丈夫だと思ってたのよ。でも、ちょっとやり過ぎちゃったって今は反省してる。だからもう、あれ以降やってないじゃない」
「やり過ぎたって……何をです?」
不思議そうにグレが訊く。やあねえ、とアカネがあからさまに口調を変えた。
「最初のときにね、死にかかったのよ。心臓止まりかかって。あの時はホント慌てたんだから」
「一体、なにをやったんです」とグレが再度訊ねる。
「生きてる者のカラダであたしたちが手を貸すと言えば、それはほら、普通じゃできないことよ」
「だから、できないって何をですか」
更に追求しようとするグレに対し、アカネが口を開いた瞬間、修哉が割って入った。
「あぁもう、そんなのどうでもいいですから!」
修哉の語気に、グレが面食らった顔を見せた。
「どうでも、ですか?」
「言ったでしょう、プライベートには関わらないでほしいんです。感想も要らない。勝手に知られるのはしかたない。あなたがたが他でしゃべろうがオレの知人に知られる心配はない。だから、そこはオレも我慢します。だけど、口出しして欲しくはない。頼むから、せめてオレに聞こえないところで話してください。で、オレの前では黙っててください。知っても知らんふりが、この関係でお互いうまくやっていける秘訣なんですよ」
一気にまくしたてる修哉に気圧されたのか、グレがアカネに目を向ける。アカネはいつものことだと言わんばかりに苦笑を浮かべている。
起きたばかりだというのに、すでにどっと疲れた。しかも、なにか確かめたかったことがあったような気がするが、思い出せない。
「ふたりでなにやってたんです?」
そう言ってモニターを覗き込むと、ネットニュースのサイトが表示されていた。
「これ――」薄灰色の小文字で十年前の日付がある。「火事の詳細ですか」
そう、とアカネが左耳に顔を寄せて言った。
「グレがどんなだったのか知りたいって言うから、見てたのよ」
「へえ……」
記事の内容に目を走らせる。画面の左上に写真が配置されている。真っ黒い家の窓から、燃えさかる炎があふれている。オレンジ色の火焔が夜空に映える。投稿者による撮影とあるから、一般人による写真画像なのだろう。うまいことトリミングされているが、この周辺にはたくさんの野次馬がいたはずだ。
短い記事だった。住所、日時と時刻、死亡した人名。父親の須藤清司と次男の侑永。死亡時の年齢は清司が四十歳、侑永は八歳。修哉の両親は今、須藤の父親の没年齢をゆうに越えているから、当然ながら若くして死んだんだな、という思いが強くなる。
ここではまだ放火、もしくは失火とも記載されていない。別のサイトによればリビングの火災の程度が酷く、テーブルにあった灰皿から燃え、周囲の可燃物に移ったのではないかとの解説があった。
修哉は、怨霊となった須藤の母親の記憶を思い起こした。ゴミ溜めみたいな部屋。あれほどではないにしても、当時から雑然としていたとすれば。
いろいろ置きっぱなしになって、ものが積み上げられていた。そんななかに煙草の火を放置すれば、いくらでも燃えただろう。
そういえばさっき、目覚める直前にアカネとグレの声が聞こえた。たしか、死因、とグレが言ったのが聞こえた。
ご自身で調べてないんですか、とのグレの問いに、したわよ、と返すアカネの声。
ずいぶん前、アカネに訊ねたことがある。いつ、どこで、そして死因はなんだったのか。
自分がどうやって死んだのか、ぜんぜん覚えていないのよね、とアカネは気楽な口調で応じた。だが、言外に探られたくない気配を感じ、問い詰められなかった。
それ以降、詳細をアカネに訊ねたことはない。
「ねえ、アカネさん」
「なあに?」
「さっきグレさんと話してたこと、訊いてもいいですか」
「え、さっき? って」
わずかに間が空く。ああ、と思い出した口調になる。「あたしの死因?」
「前に訊いたとき、覚えてないって言ってませんでしたっけ?」
アカネは口もとに指を当てて考えた。うーん、と首を傾げ、ちょっと気重に口を開いた。
「自殺よ、自殺」
「え」
修哉は思わずアカネの顔を見上げ、そして反対側に居るグレへと目をやった。
グレは数秒黙り、どう反応すべきか悩んでいるようだった。ようやく口を開く。
「姐さんが自殺、ですか」
「そうよ、悪い?」
「いや、……意外な気がしただけです」
たしかに、と修哉も思う。
ふうん、とアカネが探るようなようすで発した。
「そう? あたしってどんな印象持たれてるのかしら」
アカネの声が近づいて、妙にはっきりと頭の中に言葉が満ちた。本気で訊きたがっているのだろうなとわかったが、黙っていた。
誰も返答しないので、アカネが先に音を上げて答える。
「生きてればどうにも気分の落ちるときがあるもんでしょ。たまたまうまくこなせなきゃそんな結末もあるわよ」
「どうして……思い出したんです?」
「べつに思い出したわけじゃないわよ」
「じゃ、どうして?」
再度、訊ねた。なにか隠してる気がする。もしかして。
「アカネさん、記憶が戻ったりしてるんじゃないの」
「いいえ」
アカネはきっぱりと言い切った。
「じゃあなんで、自分の死因が自殺ってわかるんです」
「あたしが水死してるのは、シュウだって見たでしょ。紛れもない事実。それははっきりしてる」
だから、と言って、アカネは修哉の頬へと手を伸ばした。冷たい感触が肌に伝わる。そう、長く濡れて、水を含んだ手で触れられているような。
「まずあの川を検索したのよ。十年より前に人が死んでれば、なにかしら引っかかると思って」
アカネは大げさに肩をすくめてみせた。「でも、最近の情報としてはなーんにもなかったのよね。昭和のころまで遡ればなにかあるかもしれないけど、さすがにそこまで大昔だとは自分でも思えないし」
がっかり、と言って、大げさに溜め息を漏らす。
「それで検索範囲を広げていったら、ひとつ見つけたの。それも海で発見された水死体。しかも、あの川からだいぶ離れた場所で、シュウが川に落とされてから五日も後なんだけど」
「――え?」アカネの言葉に、修哉は仰天していた。「なんで黙ってたんですか」
「あたしの過去なんて、どうだっていいじゃない」
相変わらずの屈託もない口調でアカネは言い放った。
「自殺した女の人生なんて、掘り返してもろくなことなさそうだもん。発見時には一週間くらい経過してたみたいでね、水死ってほら、魚腹に葬られるっていうじゃない。あれね、時間経って見つかるとそこそこ悲惨なのよね。身体の柔らかいところからいろんな生物に食い荒らされていくんだもの」
そこまで言うと、ぴたりと静止する。遠くを見ているような目をしている。思わずアカネの死に様を想像してしまった。悲惨。返す言葉を無くす。グレもアカネを見守っている。
当惑しているとアカネは修哉の背筋から後頭部に向けて、ひらりと手のひらをくぐらせた。寝起きの身体に冷や水を食らったかのような知覚が走る。身がすくみ上がった。
アカネの顔を見上げる。「やあね、ゾンビみたいな姿を想像しないでよ」と顔をしかめて言った。
「きっと、海流に乗って流されちゃったのね。しばらく身元がわからなかったんだけど、行方不明の届けが警察に出されたらしくて一ヶ月くらいして判明してた。で、念のために、その人の名前で検索してみたの。小さなニュースがいくつかと、ある地元の掲示板にスレッドがあって言及してるコメントがみっつ引っかかってきたのよね。たぶん昔の同級生あたりが書き込んだんじゃないかしら。そこにね、SNSのアドレスが引用されてたの。すごいわよね、ネットの特定班の調査力って」
ね、スマホを貸して、とアカネが言った。
アカネの指示に従い、修哉はパソコンの前から向き直った。ベッドの枕元に置いてあったスマートフォンを手に取る。
「見せてあげる」
アカネは修哉のほうへとにじり寄った。
すっと右手を修哉の右手に重ねる。しびれる感覚とともに触感が抜け落ち、右肘から下の存在感が消え去ってしまう。
「そんなに構えないで。力を抜いて」
耳元に寄せた口もとに、ふふ、と含み笑いが届く。
「力を入れて逆らわれるとうまく動かせないのよ、だからいつもあなたが寝落ちした時そっと使わせてもらってたの」
あたしはこっちのほうが使いやすいわ、とアカネが言う。
左手で支えるスマートフォンの画面上に、自分のものでなくなった右人指し指が滑り、手慣れたようすで文字を入力する。
ぼうぜんと眺めていたが、気がついた。自分のもののように使い慣れている。
スマホを解禁にすると勉強をしなくなるから、との理由で修哉は高校に入るまで与えてもらえなかった。高校受験が終わって、晴れて自分用を持てるようになるまでは取り扱いに不慣れだった。
そのかわり、父親から譲られた数年落ちのパソコンに使いこなしていたから、さほど不自由を感じてもいなかったのだが。
つまり――アカネは生前に使い慣れていたか、使いこなせるほどに自分の知らないところで利用していたことになる。
修哉の思惑など知るよしもなく、アカネは屈託のない口調で「ほら、これ」と人差し指で表示された画面上をつついてみせた。
自由の利く左手でスマートフォンを持ち上げ、内容を確認する。
表示されていたのは、文字数制限のあるつぶやきを投稿するSNSだった。アカウント名は、明音と表示されている。鍵はかかっておらず、誰でも書き込みを見られるようになっている。
「死ぬ前に友人の結婚式に出てたみたい。行きたくなかったみたいだけど。日々の投稿を過去にさかのぼって見てみたけど、死ぬ一年くらい前から延々とブラックな仕事の愚痴と、生きてるのが嫌になったってそんな感じの言葉ばっかり。いっそ消しちゃいたいくらいだけど、メールアドレスとパスワードがわかんないからどうにもならないのよね」
我ながら気が滅入るわ、とアカネが低い声でつぶやく。
「こんなの、他人に見られたくない。情けないもの」
「それって矛盾してない?」
思わず本音が漏れていた。アカネが怪訝な目でこちらを見ている。
「他人に知ってもらいたいから発信してたんじゃないんですか」
修哉が発した言葉の意味を飲み込むまで、数秒の間があった。把握と同時に、アカネの目が晴れるのが明らかに見てとれた。
「まあ……それはそうね。生きてる時は追い詰められてて、誰かに訴えかけて知ってもらいたかったのね、きっと。でも」
アカネは画面に目を落としたまま、続ける。
「これは死んでまで遺したい言葉じゃない。覚えてないから他人の目で見てしまって、なおさらそう感じるのかも。シュウに見られるのは……恥ずかしいって言うか、……ううん、ぜんぜん嬉しくないわ」
死んでからのほうが正気を取り戻すなんてね、とアカネはつぶやくように言った。自分に言い聞かせているかのように。
ふと思った。正気ってなんだろう。
狂っている、という判断は、自分では下せないと聞く。明らかにおかしくても自分ではわからない。表面上は正気に見えても、中身はそうではない。これは正直、こわいことだと思う。
修哉は画面上の最後の更新を見つめていた。そこには短い文章がふたつ並んでいた。
『他人の幸せがつらいなんて自分が嫌すぎる。もう疲れちゃった。』
飛び込んできた文面が、自分のことのように思えて気が塞ぐ。
現実に耐えきれず、心が悲鳴を上げている。世界が暗くなるように感じる。狭い空間に閉じ込められて、楽しい気持ちを奪われたかのような閉塞感。
ここにあるのは、すでにいない者の本音だ。本人を目の前にしているのに、生きてはいない。
これ以上、見ていてはいけないとスマートフォンの表示をオフにした。
「アカネさん、本名を教えてもらってもいいですか」
「あたし?」
戸惑ったような顔をしている。たぶんこう思っている。そんなの知ってどうするの。
しかし次の瞬間、アカネは嬉しそうに笑った。
「本名はカドサキ。もんがまえの門にやまへんの奇で門崎。下の名前は明るい音。門崎明音」
手の中にある、真っ黒の画面。修哉が知ったアカウントは更新がなくなり、十年も前に時間が止まってしまっている。
わからなくなる。いったい、目の前にいる者たちはなんなのだろう。
自分だけしか知らない者たち。修哉は、自由気ままにふるまうまぼろしとつきあっているようなものだ。説明したところで、視えない他人には理解しがたいだろう。
右手に触れていたアカネが身を離した。痺れて自分のものでなくなっていた感触が、次第に生身を取り戻す。
元どおりを確かめるように、右手のひらを開いて閉じてを繰り返す。
時刻は朝の七時になろうとしていた。
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