第四章(2)…… 霊の執着


「え、なんで……」


 アカネが首を突き出して、顔半分がドアに埋まっている姿を見つめる。緩い波を描く髪が肩にかかっている。

 ドアのこちら側にある口が動く。


「シュウがしゃべってるの聞いてる」


 そのときドアノブが動いた。

 部屋の内側へドアが開き、廊下の照明から伸びる光が一筋、部屋の内側へと入ってきた。アカネの全身がドアのむこうにすり抜けて、ふわりと消え、逆光となった和哉の姿が目に入る。


「シュウ兄、――」


 おそるおそる覗き込んだ和哉と、修哉の目線がかち合う。

 ドアを開ける前から、廊下にいると気づかれていたと想像もしなかったのだろう。あからさまに和哉の顔が怯んだ。


「カズ、どうした?」

 修哉は声をかけた。和哉がためらいがちに口を開く。

「いや、なんか……しゃべってる声が聞こえたから、ごめん」


 和哉が不思議そうに訊ねる。

「誰と話してたの?」

「え、いや」とっさになんとか辻褄が合う内容をひねり出す。

「電話かかってきたんだ。話し忘れたことがあるって。もう終わったけど」

「……誰と?」 


 やけに追求してくる。心配されているのか、と思った。


 このところ、自分でもわかっている。あまりに一人言が多い。実際は視えない他人と会話してるせいなのだが、そんなことを言おうものなら間違いなく、頭は大丈夫かと問われるだろう。


「梶山」と、修哉は手元のスマートフォンを持ち上げて見せた。

 うっかり嘘をついてしまったがやむを得ない。


 壁側に下がっているグレの姿が視界に入る。貫禄のある、厚い身体が重量級の存在感を放ち、気になってしかたない。修哉の視線の先、壁際に立ってドアのほうを見ている。その姿がわずかに透けている。

 和哉はグレの存在にまったく気づかず、視線は修哉にだけに向けられる。あらためて、見えているのは自分だけと言う実感が湧く。


 この部屋には他人が複数入り込んでいるのに、交わすのは兄弟だけの会話というのが奇妙に感じられた。


「ねえ、シュウ兄」

 今日、と言いかけて言い直す。「昨日、どこか行った?」


「なんでそんなこと訊く?」

 訊き返されて、和哉が言いよどむ。「なんとなく……だけど、ちょっと気になっただけ。帰りが遅かったからどこに行ってたのかなと思ったんだよ」

「梶山と古い知り合いに会いに行った、それだけだよ」


 和哉は、修哉の回答を吟味するような顔をしていたが、そうなんだ、と返した。

 まだなにか訊きたそうだったが、ふいにあきらめた目になって、「風呂、空いたから」と続けた。


 わかった、と返答する。

 和哉がドアを閉めようとして、ふと思いとどまり、修哉に告げた。


「この部屋寒いね」

「……そうか?」

「うん、なんだかずいぶん冷えてる」

 そうしてドアを閉めつつ、おやすみ、と言った。


 完全に閉まったのを見て、ドアの内側に現れたアカネが好奇の表情でこちらを見て感想を述べる。


「カズくんってどこか糾くんと似てるわよね」

「そう……ですか?」

「あたしから見ると、あのふたりって似て見えるのよね」

「外見も性格も似てないですけどね」


 梶山は率先して自ら道を切り拓き、他から受け入れられなくても独りでいて気にしないタイプ、和哉は集団に馴染み、周囲を穏やかに支えて重宝されるタイプだ。


 アカネは修哉の言葉を気にも留めない。歩く速度で漂いながら近づき、修哉の左側に落ち着く。

 あ、と気づいた声をアカネが出した。


「カズくんと糾くんも、同じように取り巻くものが強く見えるから、無自覚に悪いものを追っ払ってるのよね。ホント不思議に思うもの。シュウは引き寄せるけど、カズくんや糾くんは追っ払うから、ふたりがそばにいたほうがシュウとバランス取れていいんだろうけど」


 相性って言われても、返答に困る。


「でもやっぱりなんか落ち着かないのよね。すごく生命力強いから近づかれるとドキドキするの。カズくんもあんまり寄ってもらいたくないタイプ」

「なんですかそれ」

 ほら、と右手をひらりと倒して、「ジェットコースターに乗るまえの、あんな感じ」


 大して影響はないのがわかっているから、怖がっているというよりも、退屈な日々にちょっとした刺激を期待している感じがした。


「楽しんでるじゃないですか」

「だって、シュウがいればあたしは平気だもの。だけどグレは寄られたら速攻で逃げるわよね」


 話を振られたグレは腕を組み、大真面目な顔をして頷いた。

「なかなかの破壊力があって近寄りがたいですね。私はできるだけ居合わせないように気をつけたい相手です」


 居合わせない、というのはどうやるんだろう、と思った。その場から離れ、どこかへと消え失せるのか。それとも強いものを盾にして、潜むのか。たとえばアカネの背後に。


――あの図体で? 細身の女に隠れる?


 想像してしまった。アカネの後ろで彼女の右腕の後ろをつまんで、恥ずかしがりの子どもみたいに縮こまりながら、巨体を隠し切れないグレとの状景を。

 思いっきり珍妙なものを目の当たりにした気分になった。まるで現実かのように、鮮明に思い浮かべてしまった。コレは……どうあってもダメな絵面だろ。


 修哉は眉根に力を入れて目をつぶり、ありえない想像をどうにか振り払おうとした。


 修哉の胸中など知らずに、アカネが難しい顔を作って言った。

「いっそのこと、あの須藤のお兄ちゃんに憑いてるアレ、うまくやって糾くんに追っ払ってもらえないかしら。そうすれば万事、解決するんだけど」

 胸の曲線の下あたりで腕を組む。期せずしてグレとほぼ同じ姿勢になった。


 盛大に顔をしかめて、アカネに釘を刺す。「冗談でもやめてくださいよ、アカネさん」


「なんで? 対面してみて、よくわかったじゃない。糾くん、ぜんぜん影響ないわよ。見えない生者にはアレは手を出せないし問題ないじゃない? 多少、感性が強ければ冷や汗かいたり、あとから熱くらい出すかもしれないけども、こっちのメリットだけ考えたらやってみる価値はあると思うのよね」

 どう? と言って首を傾げ、ちらりとこちらへ視線を流してくる。同意を求められようが、修哉の決意は変わらない。


「厭ですよ、あいつを巻き込むつもりはないです」


 ふうん、と不服そうにしながらアカネが肩をすくめる。

「ま、それならしかたないけどアレ、思った以上に難敵なのよね。あたしもちょっと慌てたもの」

 悔しいけどうまく力を振るえなかった、とアカネが付け加える。「シュウがちゃんと正気を保って、あたしを見ていてくれないとだめなんだってよくわかったわ」


 ふいに真剣な目線を向けられて胸が騒ぐ。あのアパートの敷地で起こったことは想定外だった。

 アカネは、修哉自身の力不足を責めたりはしない。アカネはただ、修哉を奪われるのを恐れているのだとわかる。


「あいつの上に乗っかってるやつ、相当ヤバいですよね」


 そうねえ、とアカネが答えた。グレも無言で頷いている。

 もし、次回また遭遇したらどうなるだろうか。最悪の事態――もしかしたら生きて戻れないんじゃないかと不吉な予感がよぎる。


「たとえばの話だけど、須藤のお兄ちゃんがだれかに殺されたりするじゃない?」

 アカネが唐突に話し始めた。不穏な例え話だ、と修哉は思った。

「あの調子だとアレ、取り憑いた生者が亡くなっても消えないわよ」

「ええ?」


「土地縛りになるかどうかは分からないけど。どっちかって言うと、須藤のお兄ちゃんに手を出した相手に怨霊となって憑きそうね。負の感情をたくさん取り込んで肥大して、」


 片手の指先を集めては、ぱかりと開き、再びすぼめてを繰り返す。次々と被害者が憑き物の腹に消える。そんなふうに見えた。

 唐突に両手の指先を上に向け、ぱっと広げてアカネは手のひらをこちらに見せた。


「憑いた相手を破滅させて、また次に憑いて、最終的にどうなるかは見ものかも」

 どこか楽しげな口調に聞こえる。

「そんな……とんでもないのを放置しといてもいいんですか」

「それはあたしたちが考えることじゃないわよ」


 そういうところは非常にドライだと感じる。アカネは自分に害が及ばないかぎり、他の霊がなにをしようと興味はない。


「あんなの簡単に祓えたら苦労しないですよね」

「そんなことないわよ、執着が満たされれば消える。霊が執着してるなにか、それがわかりさえすれば、欲そのものを与えることでいなくなる。生きてる者を羨んで、望んでも足りないからあんなふうになるんだもの」


 そうね、とちょっと考え込む。「望む以上の生者を捧げたら、引き換えに鎮められるかも」


 うわあ、と顔をしかめた。それって生け贄じゃないか。

 現代でそんなことをしようものなら、間違いなくオカルト扱いになる。首謀者は警察に捕まったあとに、正気を鑑定するために専門の病院送りとなるに違いない。


「あとは、霊が納得してくれる方法を考えるしかないわね」

「つまり、話がつけば生者から憑き物が引き剥がせるんですか」

「できると思うけどね……でも、怨霊って大抵話が通じないもの」

「駄目じゃないですか」

「あとは出て行けって強制的に言い渡すか、かな」

「そんなの、できるんですか」

「たぶんね」


 あたしは経験ないけど、とアカネがそっけなく言う。


「霊と関わり合える能力がある生者なら、できるんじゃないかしら」

 ほら、と人差し指を上に向ける。斜めに構えて、アカネは自分の頬に寄せた。


「お経唱えて浄霊するって言うのも、一種の意思疎通みたいなものかもね。意味わかんない呪文みたいなもので生者の生命力を高めて、相手の気を引いて、有無も言わさずここからいなくなれって言い渡すの。シュウも似たようなものよね。生気でねじ伏せて、力尽くで言い分を通す。ここから消えろってね。うまくいけばグレみたいに更生するし、居酒屋にいた雑魚ていどならぶん殴ったら悪意が散って無力化できる」


「なんか……アカネさんの言い分だとオレ、暴力で言い聞かせてる極悪人みたいですね」

「そうねえ、でもシュウに近寄ってくる側にも問題あるから。一方的にちょっかいかけに来る時点で、お互いさまじゃない?」


 お互いさま、という言葉はしっくりこない気がする。暴力を振るってるのはアカネさんだし。そう思った。

 結局のところ、修哉はこき使われている側である。こんなことに巻き込まれたくもないし、放っておいてほしいと常々願っている。


「あれだけ執着が強いと、受ける影響も相当なはずなのに――」アカネが遠くを見やりながら言った。

「よく生きてるわね、あの子」


 アカネが修哉の左肩に両手を置き、落ち着かない気持ちを示すかのように指を跳ねさせている。まるでピアノを弾くかのように。白く、細い指先が視界の外側に映る。


「そんなに凄いんですか」

「あの憑き物、人のかたちを失ってるくらいだもの。それでも何か、アレと対抗できるほどの執念があの子自身にもあるのね」

「霊の執着と、生者の執念の対立ですか」

「親子だから、すこしは母親としての手心があるのかも」


 ぴたりと指を止める。アカネは意地悪く笑った。


「取り憑かれてるあの子も、自分の母親があんな姿になってるって知ったら、さすがに驚くかしらね」

「あれって――」


 修哉は息を整えてから、言った。

「あいつが母親が殺したから、母親に取り憑かれてるってことですか」


 アカネは言葉の意味がわからなかったらしく、一瞬きょとんとした表情で修哉を見ていた。

 見る間に目を見張り、勢い込んで修哉に訊ねる。


「え……、って、そうなの?」 


「そうなのって、そうなんじゃないんですか?」

 問いに、問い返していた。アカネは呆れたように言い放つ。

「あのね、あたしにわかるわけないじゃない。アレ、一言もしゃべらなかったわよ?」

「いや、オレもいましたから知ってますけど」


「じゃあなんでそんなこと思ったの?」

「だって――」


 こういうのって、取り憑くのは殺した相手と相場が決まっている。自分に言い聞かせるように、低く、押し殺した声でアカネに告げる。


「あいつはガキの頃、オレを殺そうとした奴ですよ。人の死をなんとも思ってないんだ。父親と弟が死んだ火事だって、きっとあいつがやったに違いない。あいつは母親も殺した。だから、取り憑かれてる」

 間違いない、そう言い切ろうとして、はっとしてアカネを視た。目の前の霊が、その定型に当てはまらないと気づく。


 オレはアカネさんを殺してない。


 じゃあ、あんなとんでもない化け物、いや、そうなってしまった母親の霊を、須藤務が背負い込んだ理由はなんだ。

 ちょっと待て――、須藤務の家の跡地、アパートに建て替えられた敷地の駐輪場にいた、あの煙の少年は……なんで、須藤の現住所に現れた? 土地縛りじゃないのか?

 いや、それだけじゃない。アパートの敷地で逃げ道を塞いだ煙の人型、あれは少年よりも大きかった。大人の身長だった。


 考え込む修哉を見て、アカネは肩をすくめた。

「まあ、そう思うのも妥当なのかもね」

 あたしにはよくわからないけど、と苦笑する。


 ともかく、とグレがよく響く低音で口を挟んだ。修哉に目を向けて言う。

「あの悪霊憑きの男、カレンダーなんてアナログな方法で、目につく状態で忘れないようにしているあたり、会うことにそこそこ重要な用件がある気がしますね。まずは、あの男が敵意を持つ相手を確かめてみてから、先を考えてみたほうがいいかと」


「そう、……ですね」

 修哉もグレに同意していた。

「あの書き殴り、オレも感情的な印象を受けました。苛立つっていうか怒ってるっていうか」


 アカネが修哉の背後から、左耳のそばで言う。

「そんなの、普段書いてる文字見なきゃわかんないでしょ」


 アカネのわかりやすい反応に、修哉は苦笑を浮かべた。

 駐車場から歩いてきた須藤務を見たときの光景が脳裏に甦る。感情的どころか、感情そのものをどこかに落としてきたかのような表情。一目で冷淡な印象を受けた。

 その内心に秘める感情とは――、いったいどれほどのものだろう。人を人と思わない残忍さを隠している気がしてならない。

 身が凍る。寒さを感じて修哉は立ち上がった。


「すみません、オレ明日昼前からバイトなんで風呂入ってきます」


 数歩進んで、左肩から離れないアカネに修哉が目を向ける。

「アカネさん、離れてくれませんか」


 ええー、とアカネが不満そうに口を尖らせる。

「いいじゃない、あたしはべつに気にしないわよ」

「オレが気にするんです。約束しましたよね、個室はついてこないでくださいって」

「どうして? あたしがシュウの目を使ってのぞいたら、結局は同じじゃない?」


 自分の目を指さしてアカネは顔を近づけてきて、修哉の目をのぞきこむ。


「あのですね、見るかどうかの問題じゃなくて、目の前にいるかどうかの問題なんです。だから離れるか消えるかのどっちかにしてください」

「同じじゃない?」

「同じじゃないです」


 溜め息を漏らし、修哉は続けた。「覗こうがどうしようがオレだってもう慣れましたよ」

「じゃ、いいじゃない? シュウから離れてるのって、なんかあたし落ち着かないのよね」

「そういうことじゃなくて」と修哉は念を入れ気味に語気を強めた。


「毎度、妙な趣向を凝らしてくれる必要、どこにあります? 目の前で大げさに反応されるのも嫌だけど無表情でいられるのも、めちゃくちゃうっとおしいんですよ!」

「ええー? どうせなら、なんかしなくちゃもったいないじゃない」

「いちいちネタ作りしなくていいです。ぶっちゃけ迷惑なんですよ」


 やりとりを離れたところから眺めていたグレが、感心した口調で発した。

「いったい姐さんは何をやるんです?」

「そりゃもういろいろ」

「いろいろ?」


 うんざりした暗い顔で修哉が言った。

「個室で気を抜いてるときに壁の上から視線を感じて見上げると顔半分で見てたり、死相で風呂水のなかから浮かばれたりするとさすがに――」


 これまで、アカネのさまざまな演出で驚かされて何度飛び上がってきたか。思い返すと肝が冷える感覚が甦り、次第に腹が立ってくる。


「いくらわかってても、あれは予測してないとすげえ怖いんですよ!」

「……おふたりは仲がいいんですね」

「ぜんぜん仲がいいわけじゃないです!」


 勢いよくグレのほうへ視線を向け、断言する。気圧されてグレがやや抑え気味に訊ねる。


「じゃあなんです?」

「遊ばれてるだけです」

 修哉は迷いもなく言い放つ。

「オレらの関係は、紛れもない腐れ縁ですから」


 気を悪くしたようすもなく、アカネが「あら、そうなの」とあっけらかんと笑う。


 修哉からふわりと離れたアカネが、背の後ろで自身の両手を繋ぎ、軽く腰を曲げて、笑顔で修哉の顔を覗き込んだ。


「はいはい、あたしは部屋で待ってますよー。だから安心して入ってきて」

「本当ですね? 不意打ち無しですよ」

「信用ないのねえ」

「信頼はしてますけど、信用はしてませんから」


 修哉が部屋から出て、扉を閉める直前、グレが咎める口調で「姐さん、いったい何をやってるんですか」と言うのが聞こえた。


「だって、シュウの反応面白いんだもの」


 全然、効いてない。というか、応えてない。

 アカネの発言に、修哉は盛大に溜め息を漏らした。



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