第一章(3)…… さみしがり幽霊
アカネ曰く、霊にはいくらかの違いがあるらしい。
土地に縛られているもの、生者にすがりついてしがみつくもの、反対に生者に縛られるもの、なんとなく方角や土地のよどみに溜まるもの、ただあてどもなく彷徨い漂うもの――、生前に強烈な思い残しを留めていればいるほど、それぞれの対象に縛られるものらしい。
なんとなくその辺にいて、ぼんやり生者を眺めているのは思い残しの度合いが低い。透けた姿で視線も合わず、そこらを漂っているだけのものはもっと軽く、無害なので気にしなくてもいい。
警戒すべきは不遇の人生を送り、他人を妬んだり無差別な殺意をもって呪いを放つなど、あからさまな害意を抱えたものに出会ってしまった場合。絶対に無視すること、とアカネは強調した。
目を合わせないで。そうすれば影響は最小限で済む。大抵はすれ違って終わり。うっかり見てしまって、気づかれてしまうのが一番まずい。
互いに無反応でいられなくなるから困るの。
アカネはいつもの明るさと違う、憂いのある笑みを浮かべて言った。
平穏に、平凡に生きてきたのにな、と修哉は思う。
気づいたら、異常な世界に放り込まれてしまっていた。
容易に適応できるほど器用ではない。生まれてからずっと、霊が視える人生からはじめたならば、まだうまく立ち回れる知恵もついたかもしれない。だが、こっちはこの状況になって半年足らず、生まれたてのヒヨコ同然で攻撃力も防御力も最弱レベルと来て、せめて映画や漫画みたいに有利な才能でも芽生えれば救いもあったのに、現実はそう甘くなくて、まず自分に都合よく話が進んだりはしないものだ。
出会い頭に妙なものと出くわせば、反応するのが当たり前だろう。
奴ら、なんであんなにオレに構うんだよ、生きてる人間なんて腐るほどいるってのに。
霊との遭遇が立て続けに続いた一日の終わりに、やけくそになってアカネに訊いたことがある。
アカネは涼しい顔をして、
「だって、見てもらえるのは誰だって嬉しいものじゃない?」
そう言った。
見られて嬉しい? 考えたこともなかった。
できるだけ目立たずにいられたら、そのほうがいいと思うのに。構われたくない。放っといてほしい。
「あたしはシュウに気づいてもらえるまで、存在していないのも同然だったの。なにもあたしを見ない。見てもらえないのは、自分の存在がないのも同じだわ」
視線が合うものがだれもいない。すべてが自分を置いて、素通りしていく。
永遠に続く。なにもかもがむなしい。自分が本当に存在しているのかどうかすらわからなくなる。
いてもいなくても、だれも気づかない。寂しい。
「だから、気づいてもらえると、なんだか……ね、ここが」
アカネの丸みのある胸の中央、やや下の当たりを両手で押さえる。
「ぎゅってね、締めつけられるようになって……すごく欲しくなるのよ、抑えられなくなるくらい」
目の前に立つ女は、きれいだ。
視界が固定されたかのように動かせない。目を奪われる。
彼女がわずかに傾けた顔。大きな両の眼がすうっと細まる。語り続ける紅い口もとが薄く歪んだ。
「シュウがあたしを見てくれるようになってから世界が変わったの。あたしと目が合って、相手があたしを見ているのがわかると、生きた人はスイッチが入ったかのようにとても明るくなる。光り輝いて見えるの」
生命力にあふれた生者には、肉体のまわりに見えない隔たりを巡らせている。触れようとしても、決して内側へと手が届かない。
大抵はすごく分厚くて、容赦なく弾かれることもあるのよ。
アカネは目を伏せて言う。あれはとてもかなしくて痛い。
だけど生者の気力が弱まったりすると、隔たりが薄まるの。
それ以上に魅力的なのは、霊を視る生者たち。彼らは、あたしたち霊そのものをすでに受け入れてくれているから。
まるで、ここにおいでと誘うようにあでやかで、美しい光を放つ。すごくきれいで、心を奪われて、欲しくてたまらなくなるの。
アカネの言葉を聞きながら、暗夜の光源にたかる羽虫の群れを修哉は想像していた。ぞわぞわとした忌避が身体の奥で蠢く。勝手に生存本能が拒否をはじめて、この場から逃げだそうと構えているのを感じる。なのに身体が言うことを聞かない。
つかまえられているから。深いところで繋がっていて、伝わってくるから。相手に望まれているから。
凍てついた温度の執着がアカネのなかにある。わかるからこそ、それをすこしでも温めてやれるなら、と強く願う。
「ぬくもりが手の届くところにある。いつもそうよ。冷えきった場所から、あたしを救い上げてくれるように感じる。だから、近づいていって、この手で触りたくなる」
触ると――、と言い、アカネは修哉の左肩にふわりと手を乗せた。
軽く握り、人差し指だけで触れてくる。淡く透ける指が服を通り抜ける。
肌に直接、触れられる。繊細な指先。はっと息を飲んで、気づいたときには遅い。アカネの両の眼に期待が浮いているのが視える。
人と違うものが奥底によどんでいる。いつもは生前の性格で隠されているが、本質は別のものだと思い知る。
曲げていた人指し指以外をほどき、指先全部で胸骨の上を撫でていく。
手のひらのかたちがとろりと融けて、さらに奥へと突き抜ける感触。普段とは異なる、ひんやりとした知覚が内部に浸食し、広がっていく。
緩やかに花開くように、静かな不穏が呼び覚まされる。
S字を描いて身体の中をまさぐるように動かす。核心を触れないようにわざとやさしく、そわそわと漂わす。
自分では意識したこともない、けっして届かない場所を掻き回される。疼くような、背筋が凍るような、それでいてあらがえぬほどの、心地よくて陶然となる刹那。
肉体の感覚が切り離されて、無上の多幸感に浸る。ひたすら純度の高い、甘美な陶酔。蠱惑に理性がほだされる。自分という認識を手放して、思うがままに酔い痴れてしまいたい。
湧き上がる歓喜の先鋭に触れ、思わず目を閉じそうになる。
力が抜ける。意識が遠のく感覚に、危険を察知して動悸が激しくなる。同時に強い拒絶の意志が起こる。続けて欲しい気持ちと、今すぐ止めないとまずいという予兆が入り交じり、心を焦がすほどに悩ましい。
アカネの在る世界は、自分とは違う。また、自分が生きていかなくてはいけない世界も、他者とズレてしまったことを痛感する。
この違和感は、言い表すことができない。絶対に伝わらない。きっと誰にもわからない。
この夢見心地に身を任せていたい。離れがたい。でも、だめだ。
身を引き剥がす。
一歩下がって、きっぱりとアカネから気持ちを切り離した。
なぁんだ、つまんない、とアカネがいたずらっぽく言った。
「あなたの身体は温かくて、ずっと触れていたくなるくらいとても気持ちがいいのに」
「そういうの、やめてくださいと何度も頼んでるはずですけど」
いまとなって本物の怒りが追いついてきた。アカネの誘いかけに乗りかかる自分がいつも信じられない。
いざその時になるとすべてがどうでも良くなってしまう。いつも反省するのに。
わかってる、とアカネが微笑む。だから、余裕のある時にしかやらないのよ、と意味ありげに話す。
「まあ、こんな感じに触って――」とアカネはうって変わって明るい調子で言い、くるりとその場で反転した。空中に浮かび上がると頭を下にして修哉の顔を覗き込む。
「あたしたちはもらえる人たちに触れて、生者の根源をわずかでも奪い続けるの。溜め込むうちに強い影響力を得て、自由になれると思ってる。いつか、生前に叶わなかった心残りを果たそうと願い続けるのよ」
それだけが――強い思い残しこそが、この世に居残る理由だから。思い残しが無くなったら、あたしたちは消えてしまう。
「まあ、あたしには修哉がいるから、わりと自在に触れられて自由に動けるんだけど。だからこれでも……あなたに感謝して気をつかってはいるのよ」
アカネはそう言った。
昨秋のもらい事故で、修哉は気を失って病院に運び込まれた。病院のベッドの上で気づいたときに、覗き込むアカネの顔があって死ぬほど驚いた。なにせアカネの姿のむこうに、天井やカーテンで仕切るレールがうっすらと透けている。
修哉に視えているとわかったとたん、はしゃぎまくってアカネは止めどなくしゃべり続けた。ひとつ訊ねれば、倍以上の発言が返ってくる。
やっと話ができる。対話が成立するのが嬉しい、そう言って輝くような笑顔を見せた。
半透明の姿で重力を無視する以外は生きている者と変わらない姿に、修哉の認識は混乱した。修哉以外の誰にも見えない。現実を受け入れるまでには時間がかかった。
事故で頭を強く打ち、おかしくなって幻覚を見てると言われたほうが、まだ医者の診断がつくだけマシだと思った。
一週間が過ぎるころ、やっと自分にアカネが憑いていると認めた。
当初、もらい事故が原因でアカネが人知れず幽霊になって現れたのだろうかと疑った。
だが、あの事故で死者はなかった。それは間違いない。場所や関係者、車体に因縁でもあるのかと調べてみたが、特に不審な点もない。
一体、どこでアカネを拾ったのか見当もつかない。地縛霊だったのか、と訊ねるとアカネは、それだけは絶対にない、と言う。
なんでわかるんだよ、と訊くと、あたしがシュウといるのは、もっとずっと前からだから、と答えた。
言葉の意味を理解できるまで、修哉はアカネの顔をまじまじと見つめた。
もっと前。事故よりも、ずっと以前。気づいたら、いたの。
あたしは……シュウのそばにいたのよ、ずっと見てきた。だから、酷いめに遭って欲しくない。
いつから、と修哉が問うと、ずいぶん前、まだこんな小さい頃、と片手を下げて、修哉の背丈の半分ほどを示す。
いまでこそ修哉は古い家屋の出入り口や鴨居は頭を下げなくてはいけないくらいの長身になったものの、ぐんと伸びたのは中学に入ってからで、それまでは学校で身長順に並ばされると一番前を争うチビだった。
あの頃は可愛かったわよねぇ、とアカネがしみじみ語るさまに、まるで母親みたいだ、と修哉が素直に感想を述べると、アカネは口を尖らせてむくれた。せめて姉と言ったらどう? と指導を受ける。
「なんか知らないけど、あたしシュウとくっついちゃってるし、ひとりでどっか勝手に出歩けないから毎日暇で退屈だったの」
そりゃもう死にそうなくらい。もう死んでるけど、あはは、と至極楽しげだが修哉の耳にはまったく入ってこない。
無自覚なまま十年ものあいだ、霊にストーキングされていた事実を知って、今度は修哉が震え上がる番だった。
「だからね、シュウが毎日なにをしてるか観察するのはすっごく楽しかったのよ」
知られたくもない一切合切を、他者に覗き見られていた。頭を殴られたような衝撃を食らった。ひとりだと思っていた時間をぜんぶアカネに見られていた。
しかも最悪なことに一番他人に知られたくない思春期、いわゆる黒歴史の最中である。全身の血が熱湯のごとく瞬時に沸いて、感情は零下に冷え切っていくようだった。
隠すことなんて今更なンにもないわよぅ、と鼻にかかった笑いをもらしつつアカネが右手をぺらぺら上下に振る。
シュウの存在って、あたしにとってはとびきり楽しくて、美味しいものを目の前に置かれてるみたいなのよね、とアカネは語った。
手放したりはしないわ、と断言される。
困惑だけが残る。今後ずっと、いつまでも続く。元の生活には戻れない。戻る方法がわからない。わけもわからず恐ろしいものにたかられて、すべてが食いつくされるまでこの悪夢は終わらないと言われた。
いや、そうなったとしてもきっと終わりはこない。その先のほうがよほど恐ろしい。死んでしまったらどうなるんだろう。これまで視てきた亡者同様になるのだろうか。薄ら寒くなる話だ。
事実上、彼女に命運を握られた状態にある。
修哉に執着し、これはあたしの、と言い切ったアカネがいなくなったら、もはや見分けるすべも、身を守るすべもなくなってしまう。
生きるも死ぬも、彼女の協力頼み。
長息が漏れる。このところ、溜息ばかりついている気がする。
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