第一章(1)…… 火事場の怪談


「ねえシュウ、あたしも飲んでいい?」

 大通りの十字路を渡っているときだった。左耳にささやく声が届く。


 足元には白い横線が等幅に並ぶ。スクランブル方式の横断歩道を急ぐ。夕闇が広がり、空の明るさが失われた時刻。仕事上がりの人々が行き交い、すれ違う。黙々と足を運ぶ者、集団でしゃべりながら笑い合う者。皆がそれぞれの歩幅で足音を響かせる。


 歩行者専用の信号が、青を知らせる音を流す。ヒヨコとカッコウの音声が、対向から鳴き交わしている。

 カッコー、と鳴く音質を出そうとしているのだろうが、実際にはピッポゥと、ピヨはピゥと聞こえる。


 ピッポゥ、ピピポゥ、ピゥ、ピゥピゥ、

 ピッポゥ、ピピポゥ、ピゥ、ピゥピゥ、


 等間隔で断続する注意音に切り替わる。青信号が明滅している。もうすぐ赤に変わるから、横断している者は早く渡り切るように急かしてくる。


 約束の時間に遅れている。 

 足早に歩く。左横から聞こえた女の声は雑踏にかき消されそうなのに、やけに明瞭だった。甘えた声につられ、ちらりと自らの左肩へと視線を流す。


 地元の友人たちから招集がかかったのは二週間前。法的に酒が飲める歳になって、前回の約束から会うのは半年ぶりになる。


 たどり着いた居酒屋は地下一階にあった。薄暗い照明が光を落とし、階下へと続く。明度の低い、ざらついた質感の茶色いタイルが張られた階段を下りきると、いきなり電灯の数が増えて明るくなった。エレベーターのあるホールに出る。


 二店舗の入り口が並んでいる。

 迷わず正面の店に向かった。木材と鏡を組み合わせた内装となっていて、ビルの外観よりも広く感じられる。店内は半分ほどの席が埋まり、相応の賑やかさに包まれていた。オーダーを取る店員と、酒と料理を運ぶ店員がせわしく歩き回る。修哉はそのなかをすり抜け、入り口で店員から聞いた指示どおりに厨房の横を奥へと進んだ。


 テーブルと椅子のボックス席をいくつか通り過ぎ、その先が畳の座敷席となっている。

 それぞれの個室は膝半ばくらいの上がりがまちとなり、下に靴がしまえる。通路の左右に三部屋ずつ、出入り口には横にスライドする木戸がついていたが、すべて開け放たれていた。


 通路の先、個室とのあいだにこちらに背を向け、立っている店員がいる。


 店員は皆、紺色のエプロンを着けているからすぐに見分けがつく。頭髪が薄く、背を丸めている。周囲から浮き上がるような存在感がある。疲れ切った後ろ姿だった。


 頭上の照明は変わらないのに、ここ暗いな、と感じた。

 厭な雰囲気が漂っているのに気づいて、右腕の肌が粟立つ。


「――右」


 左の耳に、女の声が届いた。

 ちらりと確認する。自分の左肩に細い指が乗っているのが、視野の外側に映る。軽く頷き、左に寄って店員を避ける。

 そのとき、前方左側の個室から見知った顔がのぞいた。


「おーい碓氷うすい、こっちこっち」

「ああ悪い、遅れてしまって」


 足早に店員の横を通り過ぎる。ちらりと目の端で横顔をとらえた。暗い顔。ぼやけた輪郭。男だ。たぶん、自分の親くらいの。


 目線を落とす。無用な探りは入れない。

 不自然ではなかったはずだ。


 視線を下げ、目に入るものを視ないようにしながら、座敷に足を踏み入れる。


「よぉ、久しぶり」


 和風の内装に、掘りごたつ式の畳の間。大人が六名、細身なら八名ほどが落ち着ける広さになっている。余った座布団が隅に重ねてあった。


 入ってすぐにテーブルの短辺の席、いわゆる誕生席に座っていた井上と目が合った。さっき廊下に顔をのぞかせて修哉を苗字で呼んだ相手だった。

 ひときわ線が細く、少年っぽさの残る顔立ちをしている。相手は右手を上げて、口を開かずに笑った。高校に上がったばかりと言っても通りそうな容貌で、いつも年齢確認されるから面倒なんだよとぼやくのを思い出す。


 テーブルの上には料理が半分ほど残った皿がいくつか載っている。

 井上の横に座っていた高橋が、奥の壁側へと席をずれた。


「シュウ、こっちこっち」


 すでにできあがっているらしく、修哉を呼ぶ高橋の顔は赤い。上機嫌の笑顔を向けてくる。

 高橋は中学で角刈りにしていたが、大学生になってからは髪をやや長くするようになった。運動好きの筋肉が詰まった体つきに、人の良さそうな丸顔の童顔が乗っている。ひとりだけ体感温度が違うらしく、季節にそぐわない軽装をしている。

 高橋が、右隣の座布団を力任せにぼんぼんと叩く。


「ホコリが立つからやめろってば、くしゃみが出んだよ」


 井上が大げさに顔をしかめて言った。

 空けてもらった席に入ろうとしたら、遅かったな、と高橋に背中をひとつ、強めに叩かれる。掘りごたつのなかを軽くのぞき、確認してから座った。


 左隣の高橋と、テーブルの短辺を陣取る井上は小学校から中学校まで、高橋の対面にいる松田は中学校三年間のつきあい、その右隣、出入り口で注文担当を決め込む梶山にいたっては幼稚園からの腐れ縁になる。


 大学からは全員が別の道に進んだので、会う機会はずいぶん減ってしまった。

 松田と梶山は両名とも眼鏡をかけているが、印象はだいぶ違う。松田は控えめで、自ら進んで目立つようなことを好まない。梶山はまさに真逆だ。


 梶山が「なに飲む?」と訊いてメニューを手渡してくる。そのとき、やけに威勢のよい店員がやってきた。迷う暇もない。手際よく追加の注文を取っていく。

 間もなく、酒の入ったグラスがいっぺんに運ばれてきた。再会の乾杯の音頭を取ったのは高橋だった。


「ね、あたしにも頂戴」


 左耳に楽しげな女の声が届く。気を引くように左肩の上に置かれた両手、たおやかな所作を見せる細く、白い指。期待からか、ピアノでも弾くように跳ねている。


 まだ一口しか飲んでないんだけどなと思うが、しかたないとあきらめる。ノーの返答は彼女には通らない。


 さりげなく左手に持つグラスを軽く持ち上げると、待ち構えたかのように、視界の左端から人影が身を乗り出してくる。

 誰にも気づかれず、頭の上から軽く腰を折り、見下ろす姿。流水が斜めにつたい下るかのような、優美な物腰。


 緩く波を描く明るい色の髪が、ふわりと舞い落ちてほのかに香る。白い肌に整った横顔、つややかな色の唇が目の端に見える。本来ならば重力があるかぎり無理な姿勢でも、軽やかにこなす。人とはしぐさが違う。


 そして、いつも思う。なんだろう、この匂い。甘く、懐かしいような、かすかな痛みが胸に残るような。


 彼女が手をついた肩に、にじむような微かな加重がかかる。服越しでも伝わる、ひんやりとしたほんのわずかな重み。だが、他人からはただの幻想にすぎない。

 重力を無視した位置から顔を下ろし、掲げたグラスに軽く口をつけるのを、修哉は視界の左横に見ていた。


 本当に美味そうに、幸せそうに呑む。これで彼女の機嫌がとれるなら容易いものだった。

 口もとをほころばせた彼女が「美味しい」と耳元でささやくのを聞く。


 ふと彼女が顔を向け、こちらを眺めているのがわかる。だが、視線を合わせるわけにはいかなかった。目の端でとらえた表情は大輪の花のように華やぐ。 

 グラスを下げ、口に運ぶ。


 味が変わってしまった冷たい液体が、喉を通っていった。

 わずかばかりの酒の香と気の抜けた味が舌に残る。美味くはないが、残すわけにもいかないから一気にあおる。


 毎度、どういう反応でこんな変化が起こるのか不思議だった。ひとたび彼女が口をつけると、すぐさまアルコールが消失してしまう。

 たまに欲しがる食べ物の味はさほど変わらないのにな、と思う。液体のほうが単純だからだろうか。それとも彼女自身の好みの問題か?


 間違いなく、酒のほうが好きそうだもんな。


 傾けたグラスのなかに残る氷をひとつ、口に入れてガリガリと噛み砕きながら考えていた。

 とにかく気を配っていないと見たくないものまで視てしまう。深酔いするとまずいから、アルコールが消えるのはそう悪くないと理解している。相手は気を引こうとさまざまな手を使ってくる。そのせいで今も、ちっとも会話に集中できていない。


 ちらりと視点を流す。暗がりにぼんやりと立っていた店員はいなくなっていた。


 その場で友人たちは他愛ない会話を交わし、それぞれが各自の近況を話し尽くしたあと、話題は自然と共通の思い出へ返っていく。


「そういえばさ」


 対面側の左奥にいた松田が、声を潜めて話題を振ってきた。

「十年くらい前かな、うちの近所で火事があったの覚えてる?」

「ああ、なんか子どもの火遊びで家が燃えたってやつだっけ?」


 修哉の左側に座る高橋が口を開く。半分ほど減ったビールジョッキを左手で掲げる。飲んだ際に残った泡が、何段かの線となって内側に残っていた。


「うちから現場までは離れてるから実際に見てはいないんだけど」童顔を大げさにしかめて、井上が言った。

「すごい数のサイレンが鳴って大騒ぎになったから、火事があったのは覚えてるよ」


 高橋が酔っ払い特有の大声で話す。

「おれは、親父が煙草の火の不始末をやらかしたって聞いたんだが……、違うのか」


「それ――」

 正面右に座る梶山が、思案顔になる。「ふたり死んでるんだよな……その火事」


 松田がうなずく。そうだった、と言って、遠い目になる。

「あの夜は強風が吹いててさ、しばらく雨もなくて空気も乾燥してたしさ。あっという間に火の手が上がって……うちにも火の粉が飛んできたから、もらい火しないかって親がすごい心配してたのを覚えてるよ」


「深夜に消防車が何台も来ただろ。だからすっかり目が覚めちまってさ。隣近所もちょっとしたお祭り騒ぎみたいになって、見に行っていいかって訊いたら、子どもは危ないから絶対駄目だって親父にすっげえ怒られたよ」

 高橋が記憶を掘り起こす目線になって言った。右眉の上を掻いている。


「うちは、ああ言うのを見ると子どもは寝小便垂れるから見に行ったらあかんって、おかんに言われた」

 親の出身地もあって井上の会話には時折、関西弁が混じる。


「俺さ、前に正月飾りを焼く行事を神社の境内で見たことあるんだけどさ」

 ビールのジョッキを傾け、口にしてから高橋が続ける。「焚き火程度でもかなりの放熱なんだよ。大人が何十人、消防車で管理しても煤はふつうに舞うし、風吹いたら簡単に焦げそうなくらいに熱くてけっこう怖かったんだよなあ」


「まあ、まるごと一軒家が燃えたら、映画とかドラマみたいに人なんか容易に近づけたもんじゃねえよな」と梶山が同意する。


 松田が遠くを眺める目線になって、記憶を語った。

「ウチの弟だけ全然起きなくってグースカ寝てるもんだから、起こして見せてやろうかって言ったら、爺ちゃんに放っとけって言われたな。野次馬はみっともねえからって」

 ああいう場面では大人の浮ついた姿が見えたりするから、見なくてもええ、子どもはおとなしく寝とけと言われた、と続ける。


「死人が出るような火事は、好奇心で騒ぎ立てたらダメなヤツだろ」

 ダメ押しでもするかのように、梶山がやけに冷静な声で言った。そのままグラスに口をつける。


 いきなり、場に間が空いた。


 視線を感じて修哉が目線を向けると、梶山と目が合った。なにかを気にしているように思える。


 実はさ、と気を取り直した松田が話を戻す。

「火事の後、整地されてしばらく時間貸しの駐車場になってたんだよ。だけど土地もそこそこ広いし、だいぶ近所の記憶も薄くなったのを見計らって二階立ての賃貸物件が建ったんだ。そしたらさ――」


 梶山の機嫌をうかがうように、続ける。「――噂がね」


「ウワサ?」

「うん、新築なのに出るって」

「はぁ?」

「出るって……まさか、幽霊ってか?」

「らしいよ」


 へえ、と一同が唸ると同時に、修哉はここにもいるけどな、と手元のグラスを眺めながら考えていた。


 しかも、一体じゃなく二体も。片方は他者には無害と言えるが、もう一体はどうにもタチがよくないとしか思えない。

 さっきから気になってしかたない。ふだんから意識して視ないように釘を刺されている。気を逸らそうと味つきの冷水をちびちび口に含みながらも、どうしても目が行ってしまう。


 なんでだよ、どうしてこんなところにあんな気持ち悪いもんが落ちてんだよ、ふざけんなよ、と心のなかで悪態をついた。冷や汗が身体を伝うのを感じつつ、平静を取り繕う。


 ほんの少し前、あれが視えたときは目を疑った。

 最初は二本の指が床面にかかった。一瞬、だれかが廊下に倒れていて、助けでも求めているのかと思った。


 楽しげな雰囲気におよそ似つかわしくない、上がりかまちの下から現れたもの。ずるりと這い上がる。手のかたちを模した、不気味な物体が動いている。

 肌の色は、血の気の失せた青白さ、いや、灰色に近い。


 それぞれの爪を、力任せに畳にめり込ませて移動する。梶山と井上のあいだまでじりじりと近づく。まるで亀のようにゆっくりと移動する。本来ならくっついているはずの腕から先の身体が、ぼやけて消失している。


 立体なのに、半分透けて畳の目が見える。


 ふいに動かなくなる。そして飛び上がって裏返しとなった。

 おそらく仰向けに倒れた状態――手首から先、手のひらを上に向けてばたつき、五本の指先がそれぞれ別の生き物のように乱れ狂い、蠢く。


 裏返って足掻く害虫を連想した。嫌悪で総毛立つ。


「おいシュウ、……どうした?」

 視界の内に前から手が伸びてきて、ひらひらと動き、こちらの注意を引く。

 気が逸れて、意識が現実へと戻された。


 見つめる眼鏡越しの両目。五人のなかで一番、垢抜けた服装をして清潔感のある髪型、生真面目そうな顔。切れ長の目を見開き、眼鏡のレンズ越しに気がかりの眼差しを向けてくる。


「大丈夫か? なんかぼんやりしてるけど」


 相手――梶山ただしの振っていた手が畳へと向いた。

 偶然にも転がっていた腕の上に、梶山の手のひらが着地する。とたんに転がる腕がびくりと震え、かき消えた。


 同時に、修哉の胸の内に広がっていた不快感が消え失せる。

 ああそうだ、こいつ、凄い生命力強いんだった、と思い返す。


「いや……、なんでもない」

 口を開く。やけに感情の失せた声音になったのに気づく。慌てて、言い訳を続けた。

「悪い、ちょっと酔ったかな」


 ふつうの人間はあれに気づかないし、なんの影響も受けない。多少敏感なやつが不快な空気に感じる程度。

 だけど、視えてしまう。視覚による影響というのは存外大きい。一度気づいてしまうと地味にダメージを食らう。


 視えてるとわかると、あいつらなぜか全力で視界に入り込んでくる。舌打ちしたいのをこらえて修哉は思う。


 どんだけ構われたいんだよ、迷惑なんだよ。こっちは関わり合いたくもない。

 とうに死んでるんだから、とっとと成仏しやがれってんだ。


 松田がこちらを気にしながらも話を続ける。

「なんかその幽霊、なんでか知らないけどさ、建物の中じゃなくて外に出るらしいんだよ」


 修哉の背後で反応があった。

 修哉の左の肩から女が顔をのぞかせ、ふうん、と唇が動く。

「なになに、どこの話?」


 興味津々の声音。修哉の気を引こうとしてか、前に回り込もうと身をよじる。そのとき左横にいた高橋に、彼女の身体が当たったかのように見えた。まさに男女の姿が重なる。


 幻影のごとく、ぶつかる衝撃もなく高橋の身体を通り抜けていた。

 震え上がった高橋が壁側へ飛び退く。


 うひょお、とおかしな悲鳴を上げ、その声が裏返った。顔を強ばらせて目を泳がせる。

「なにっ? 寒ッ!」


 一同が驚いて、目を向ける。

 いや、そのカッコで言うんかい、と井上がツッコミを入れた。


 反射的に左を見た修哉は、視界を遮る女の顔をまともにとらえた。ばつが悪そうに眉を寄せ、えへへ、と笑っている。

「ごめんね、触っちゃったみたい」


 なんだ今の、と言って、高橋は背後と両横を確認している。


「なんだよ、いきなり? びっくりするじゃねえかよ」

「いや、なんか――氷みたいなのが、肩らへん? を通り抜けたような……すっげぇ冷たい感じが」 


 と言って、左手でしきりと背中から右肩にかけて払う。その腕に鳥肌が浮いているのがはっきりと見て取れた。


 そのようすを眺め、やあね、失礼しちゃう、と言って彼女がむくれる。


 料理の皿へ手を伸ばしながら、しれっと井上が口にする。

「怪談してると集まってくるって言うからなぁ」


 ええ、とこぼした高橋が「あの程度で怪談かよ?」と気弱に言い、口角がへの字に下がった。

 平然として肴を口に放り込んでいる梶山を横目に、向かい合う松田と高橋が目を合わせ、互いの背後へと目線を流す。


「よせよ」「やめろって」とそれぞれに口走った。

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