紫の彼女
お餅。
紫の彼女
彼女と別れたけれど、私の日々はしばらくは楽しいままだった。
付き合う時は熱病にうかされたようにくっついたのに、別れるのは一瞬だった。
付き合っていた時、周りの批判は多かった。
あの子達付き合ってるんだって。ええ、まじ?女子同士じゃん。
そんなのはまだ良い方で、
あいつらガチじゃん、キモ。
もうキスとかしたのかな?人のいないとこでしてほしいわ。
そんな心ない言葉も飛んできた。
私は気にしなかったけれど、彼女はいつも泣いていた。
どうして私達はフツウに付き合えないのかって。
フツウじゃないから。
私はいつもそう返していた。慰めたつもりだった。
私の言葉に傷ついていたなら、言ってくれたらよかった。
そうしたら、私、あんたの言うことはなんでも聞いた。
「あんたが逃げたいって言ったら、私はあんたと一緒に逃げた!」
道行く人達が、何事かという顔で私を、私一人をまじまじと見る。
彼女は、そんな私にうつろな目を向ける。色とりどりの花が彼女の居場所を作っている。彼女は何百輪の紫の花に乗って、川の上に浮かんでいる。
私の後ろで、ドールさんが後五分だと告げる。ドールさんは黒いスーツを着た紳士だ。今晩花筏を作り出して彼女を呼んでくれた人だ。私の恩人だ。
私は物言わぬ彼女に問いかける。あんたはもっとおしゃべりだったじゃないか。どうして黙る。
死人に口なしだからだなんてくだらない冗談は、聞きたくない。
「ねえ、レンゲ。聞こえているんでしょう」
私は橋の欄干から身を乗り出して彼女に問う。上半身はもうはみ出していて、足を踏ん張っていないと落ちてしまいそうだ。いっそのこと落ちてしまおうかなんて思う。
後ろを通る人達が、ヒソヒソ話す声が聞こえる。
あの子、川に向かって何か話してるわよ。
関わらない方がいいわよ。
「レンゲ!」
私はほとんど泣き喚くように呼ぶ。彼女はあの長い黒髪の先を風にゆらゆらさせながら、私をじっとただ見つめているだけで、応えてはくれない。
あの艶めいた髪は、一年前までは私の隣にあったのだ。
まだあどけなさの残る鼻筋も、桜色の唇も、確かに私は知っているのだ。
全部私のせいなのだ。
「春カちゃン」
その時呟く声が聞こえた。レンゲの口が小さく、動いた。やっと、レンゲの声が聞けた。
「春カちゃン、ワタし、とテモ嬉しイよ」
レンゲの笑い声を思い出す。誰のことも気にせずに、大きく笑う彼女のことを。
今はその笑顔を見ることは叶わないけれど、それでも私からすれば、このまま消え去ってしまいたいほど幸せだ。
私は目から流れるものも鼻水さえも拭わないまま、叫ぶ。叫んで叫んで、このまま喉が引きちぎれればいい。私の中から咲く血の色が、レンゲの手のひらに届けば良い。そんな馬鹿らしいことで頭がいっぱいになる。
とにかく、もうレンゲを一人にしたくない。
いや、それも都合の良い言い訳かもしれない。
「レンゲの話を私もっと聞けたはずだった!私がレンゲを殺した!お願い、私のせいだって怒鳴ってよ・・・ッ!」
レンゲは何も言ってくれない。
「責めて、傷つけてよ!私がレンゲにしたぐらい、いや、その何十倍も、私を傷つけて!」
あれから、レンゲが飛び降りてからずっと、うまく息が吸えなかった。
私の身体はとうとう使い物にならなくなる。涙で顔中が一杯になる。ごちゃごちゃした感情がどろっと溶け出して、小汚く嗚咽を漏らしながらしゃがみこむ。欄干にしがみついて泣きじゃくる。どれだけ縋っても祈っても、過去に帰ることはできない。そんなこと、私が一番よくわかっている。
生きてよ。助けさせてよ。行かないで。
言葉は感情に蓋をされて、もう生み出せない。
その時、後ろで小さなため息が聞こえた。
「仕方ありません。今回だけですからね」
そして、指がパチンと鳴る。それは遠くまで反響して周囲の音を全てかき消した。
ーーーーなんだか心地の良い夢を見ていたように思う。
目を開けると、優しい匂いがした。
「お目覚め、だね」
大きな瞳が私を映す。
私は今、馴染みのある体温に包まれている。
「春香ちゃん、大丈夫?喉、枯れてない?」
指が私の頬をゆっくりと撫でた。
「レン・・・ゲ・・・」
レンゲの微笑みは、地球に降り立った女神そのものだった。どこまでも、深いのだ。
ぼろぼろ涙がこぼれ落ちて、紫の花筏に落ちる。蓮華の花の先から雫が、中に滑るように入りこんだ。
私はレンゲの肩に顔を乗せて眠っていたらしかった。
「久しぶり、春香ちゃん」
私はレンゲの肩に手のひらを滑らせる。そこには確かに実感があった。私の指はレンゲの肩から首筋、そして頬まで上がっていく。レンゲがくすぐったそうな素振りを見せて、私の心の中で激情が浮遊感に勝った。
反応が返ってくることに胸がキュッとなって、私はレンゲの唇に飛びついていた。
息をするのも忘れてレンゲの中に飛びこむ。
しばらくして離れた唇は、どちらからともなくもう一度重なった。今度は、もっと自然に。
私たちは抱きしめ合う。このまま一緒に溶けてしまえそうだ。
「春香ちゃん、一人で死んじゃってごめんね」
「悪いのは私だよ。レンゲの気持ちに気づいてあげられなかった」
川の水流が花筏の下を通っていくたびに、心地よい波が私達を揺らす。
レンゲは首を振りながら、私の体をさらにきつく抱きしめる。その腕が小刻みに震えているのに気づいた。
「死んでみて分かったことがあるの。死んだら、二度と生き返れない」
私の首筋にレンゲの涙が一筋伝った。
視界の隅でドールさんの姿が映る。橋の上で腕時計を見せつけてこちらを見てくる。きっとドールさんが魔法をかけてくれたのだ。私がレンゲと話せるようになる魔法を。
私はレンゲに向き直る。黒くてまっすぐな髪を指で透いた。
「春香ちゃん、死なないで。おばあちゃんになるまで生きて。もう私のために悩まないで」
体が、離れる。レンゲが私と目を合わせる。彼女が亡者だということは、その瞳の奥の透明が告げていた。
私は行かないでという言葉を必死で呑み込む。
レンゲの黒い髪が光を放ち出す。触れる手のひら、肩から蝶の形をした光が、ほわほわと空に浮かび出す。それと同時にレンゲはどんどん薄くなる。輪郭がぼやけ始めた。
蝶まで淡い紫で、レンゲは死んでも綺麗なんだと知る。
「レンゲと一緒にいきたいなぁ。私、レンゲがいないと」
言葉はとうとう溢れ出て、すがりつこうとした。花筏がゆっくりと解れ始める。何もかもがなかったことになっていく。何百匹もの光の蝶が、レンゲの髪から、胸から溢れていく。
レンゲはしっかりと、痛いほど私の掌を握った。そして、私の髪に唇を重ねた。
「春かチャん、ごメんネ。ひとリにシてゴメンね」
気配も香りも消えていく。私の掌からさらさらと砂のようにこぼれ落ちていく。
レンゲが、いってしまう。
私は手を伸ばす。もうレンゲの肌を捉えることはできない。
「レンゲ」
呟いた時、頭を手が撫でた感覚がした。
「大好きだよ、春香ちゃん」
一月の川の中の冷たさも服がびしょ濡れになったことも、自分が嘘のようにボロボロ泣いているのも事実だった。
ただレンゲだけが、またいなかった。
私の手は、蓮華の花びらを皺々になるぐらいに握りしめていた。
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