19.大事にしたい気持ち

 わたしがぼんやりしていたという話は、しっかりディエ様にも伝えられていたらしい。

 自分では目を開けたまま、寝ていただけじゃないのかと思っているのだけど。


 夕食のあと。

 まだほんのりと夕陽の雰囲気を残す夜始よるはじまりの空の下、わたしはディエ様と一緒に中庭のベンチに座っていた。


 一体これはどういうことなのか。



 夕食後、片付けを終えたらいつものように部屋に下がる予定だった。部屋で湯浴みを済ませたら、今日はのんびりと本を読もうと思っていたのだ。

 以前にディエ様が買ってきて下さった冒険小説がまだ最後まで読めていない。毎日少しずつだけ読むようにしているのだ。あまりにも面白いから時間を決めないと、夜更かしして一気に読んでしまいそうだったから。


 それなのにディエ様に声を掛けられてしまった。後片付けは双子に任せるように言ったディエ様は、「ついてこい」とだけ短く言葉を紡いだかと思えば、黒豹の姿になって歩き出してしまう。

 ルカとリオに促されて、ディエ様の後を追いかけることになった。そして今──


 わたしの隣には黒豹姿のディエ様が、両前足を揃えて座っている。

 その体はわたしに向けられているものだから、わたしもディエ様の方へと体を向けて座っていた。


「今日、ぼんやりしていたと聞いたが。今までもあったものなのか? それともここ神域に来てからなのか?」

「そう言われると、ここでお世話になるようになってからのような……。でも何となく理由は分かっているんですよね」

「理由が分かっている?」

「はい。ここに来て、気を張らなくても良くなったからといいますか……なんだか腑抜けてしまっているみたいです」


 子爵家に居た時は、気が休まる時なんて一瞬もなかったもの。

 いつだって耳を澄ませて、体を小さくして過ごしていた。それに比べて……というのもどうかと思うけれど。この場所でそんな風に警戒することなんてしなくてもいい。


「眠気は?」

「それも……ちょっと本を遅くまで読んでしまっているからかもしれません。気を付けてはいるんですが、ついつい続きが気になってしまって。それに、わたし、季節が変わる頃というか……春が近付くと陽気につられて眠くなってしまうところがありまして。ここはいつも春のように穏やかですから」

「違う季節がいいか?」

「え、変えられるんですか?」

「お前は……。俺を誰だと思っている」


 呆れたようなディエ様の声。溜息をつくその姿も大好きだった。

 自分でも驚くくらいに、以前と同じようにお喋りが出来ている。それにほっとしながら、わたしはくすくすと笑みを漏らした。


「守護神様です。でもわたし、この穏やかな雰囲気が大好きなので、ディエ様のどうぞお心のままに」

「……そうか」


 小さく頷いたディエ様は、一度視線をお庭で揺れる花々に向けた。スイートピーにかすみ草、ラナンキュラス、マーガレット……わたしが名前を知らない花も、いつの間にか上っていた月の明かりに照らされている。


「もしぼんやりする状態が続くようなら俺に言え。いいな?」

「はい、分かりました」


 随分と心配して下さっているらしい。

 嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが綯い交ぜになって、何だか胸の奥が苦しくなる。


 ディエ様はやっぱり優しい。

 心の奥に隠したはずの恋心が小さく疼いた。


「それと、あー……」


 ディエ様は迷うような声を出した後、ゆっくりと視線をわたしに戻す。その声が珍しいと思ったのも一瞬で、わたしの勘が告げていた。これは、図書室の件・・・・・だと。


 おいとましよう。

 そう思ったわたしの心がまるで読まれていたかのように、足の上で揃えていた両手に──ディエ様の前足が掛けられた。

 柔らかくて、独特の……これは肉球? こんな可愛らしい手で縫い付けられて、それを跳ねのけるなんて出来るわけがない。

 絶対に分かっていてやっている。そう思ってディエ様の顔を見ると、ふいと目を逸らされた。


「その……泣いていたんじゃねぇかと」

「わたしが、ですか」

「あー……俺は耳が良くてだな、その。……図書室を出た後も、少し耳に届いちまって」

 

 やっぱり図書室のことだ。

 殺していた嗚咽が聞こえてしまったなんて、迂闊だった。またディエ様を困らせるだけなのに。


「えぇと……あの、確かに少し泣いていたのかもしれないんですが。申し訳なさというかですね、ディエ様を困らせてしまったというか……」

「俺が困る?」

「はい。……わたしが心を寄せるなんて浅ましい事をして、ご迷惑を掛けてしまって」

「迷惑だとは思っていないが。俺も言葉が足りなかったが、お前のその自意識の低さは何とかならねぇのか」

「性分ですので、何とも……」


 笑ってしまったのは、泣きたくなるのを誤魔化しているから。眉が下がっているのは分かっているけど、声が震えてはいない。上出来でしょう。


「やめとけって言ったのは……いつか人の世に戻る時に、俺に心を残しているとしんどいだろうよ」

「戻るつもりはないのですが……」

「こんな何もない場所よりも人の世の方が楽しいだろ。この国でも他の国でもお前ならやっていけるだろうしな。別に追い出したいわけじゃねぇから勘違いすんなよ」

「それでしたらわたしは、ずっとここに居たいです。ディエ様が居て、ルカとリオが居て、この場所を知ってしまったらもう他のどの場所だって素敵には見えませんもの」

「変なやつ」


 呆れたような溜息をつくディエ様の体が光に包まれる。

 光が弾けた先には人の姿を取ったディエ様で、この変化にもすっかり慣れてしまったようだ。


 ディエ様の手はまだわたしの手の上にある。

 柔らかい肉球とは違う、硬くてしっかりとした男の人の手。長い指も短く整えられた爪も綺麗だと思った。


 触れられている手の甲がひりひりと熱い。

 そこに目を落とすと、わたしの視線を追いかけたディエ様は「悪い」と言って手を離してしまった。熱さはすぐに消えてしまって、それが何だか凄く寂しい。


「わたしの気持ちに応えて欲しいとは願いません。でもわたし……この気持ちをすぐに無くしたりは出来ないみたいなんです。表には出しませんし、忘れて下さって結構ですから……この気持ちをもう少し、見て見ぬふりをしては下さいませんか?」

「……何言ってんだ、お前は」


 呆れたようなディエ様がわたしの額を長い指で突いた。

 あまりにも強いその衝撃に、涙目になってしまったわたしは額を両手で覆い隠した。赤くなっているんじゃないかと思うくらいに痛い。


「痛いです!」

「あのなぁ……お前の気持ちは、お前のものだろう。俺がどうこう言う立場にねぇよ」

「え? ……でも、わたしに好意を向けられて迷惑じゃないです? 気持ち悪くないですか?」

「自己評価も低い。お前は周りを──俺の事を気にし過ぎだ。迷惑でも気持ち悪くもねぇから、お前の心をお前が否定すんな。俺に心を残していろとは言わん。好きでいてくれなんて言わねぇ。嫌いになれなんてこともな。それはお前の心が決めることで、俺が口出しするもんじゃねぇだろうが」


 荒い言葉なのに、声は真綿のように柔らかい。

 深いくらいに優しくされて、涙を堪えることなんて出来なかった。


 そういえば……ルカもリオもわたしの気持ちを知って、それを否定する事なんてしなかった。

 気持ちを大事にしていいのだと、言っていたじゃないか。


 それなのに一人で空回からまわって、一人で悲しくなって、自滅していたのはわたしだ。一体何をやっているのか。


「わたし……何をやっていたんでしょう」

「まったくだ。急に避けられたかと思えば、泣いていたのを誤魔化して。悪夢に魘されて、いつも通りにしようと気を張って。随分と振り回してくれたなぁ?」

「わたしに振り回されるようなディエ様じゃ……って、どうして夢の話を?」


 正直なところ、夢の内容はあんまり覚えていないのだけど。

 でもどうしてディエ様が悪夢だったと知っているのだろう。まさか魘されて大声で喚いていたりしたのだろうか。


「お前の突拍子もない考えは何とかならんのか」

「心を読むのはやめてください」


 低く笑ったディエ様に誤魔化されたと分かっても、それ以上を追及することは出来なかった。


 見上げた先、夜の空には小さな星が瞬いている。

 細い月はまだ仄暗く、まだ眠っているようにも見えた。


「ディエ様」

「ん?」

「わたし、ディエ様が好きです」

「……おう」


 夜風が吹き抜ける中、そっと想いを伝えてみる。

 わたしの、心のままに。


 ディエ様は形の良い眉を跳ねさせて、それから低く笑った。

 赤と黄の瞳が優しい光を湛えていた。

 

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