猫になった君へ

ゆで魂

第1話

 目覚めると彼女が猫になっていた。

 脈絡みゃくらくのない日本語なのはわかるが、そうとしか表現できない光景が目の前には広がっていた。


 彼女の愛用しているスウェットが転がっている。

 いつも寝る時に着るやつで、まだ温かさを残している。

 そのど真ん中にはお行儀よく腰かける黒猫の姿。


 どこから入ってきた⁉︎ こいつ⁉︎

 それよりも彼女は⁉︎


 半ばパニックになった俺は、彼女の名前を連呼しながら、狭い家の中を行ったり来たりした。

 トイレに向かって名前を呼びかけ、7階のベランダから名前を呼びかけ、いい歳した大人が半泣きになっている様子は、さぞ滑稽こっけいに見えたことだろう。


「にゃ〜お」


 俺は彼女の名前を呼ぶ。


「にゃ〜お」


 黒猫が前脚でちょんちょんしてくる。


「もしかして、お前……」

「にゃ!」

「俺の言葉がわかるのか?」

「にゃ!」


 黒猫は一目散にダッシュすると、いつも彼女が腰かけているリビングの椅子へジャンプした。

 私はここにいる! という声が聞こえたような気がして、俺はその場に崩れてしまう。


 いや、しかし、ファンタジーじゃあるまいし。

 うろたえが抜けない俺の脳裏をよぎったのは、仕事に疲れきった彼女が、


『あ〜あ、猫になりた〜い、猫になりたいよ〜』


 とボヤきつつ動画サイトの猫動画にアクセスしていた姿。


 動物園のパンダになりたいとか、大富豪の養子になりたいとか、誰しも一度くらい願ったことがあると思うけれども、彼女の場合、それは猫だった。


 何をバカな。

 人間の方が快適に決まっているじゃないか。


 俺がそのことを指摘すると『猫は自殺しないから、人間より幸せな生き物なんだよ』と理屈屋の彼女らしいセリフが返ってきたのを覚えている。


「にゃ、にゃ、にゃ」


 ボケっとする俺を叱るように、黒猫はテーブルをトントンする。

 その様子は、冷えたビールをさっさと持ってこい! と怒鳴り散らす居酒屋の酔っ払いに似ていた。


「もしかして、のどが渇いているのか?」

「にゃ!」


 俺は冷蔵庫から麦茶、ボトルコーヒー、牛乳、ミネラルウォーターを取り出して、テーブルに並べてあげた。


「にゃ! にゃ! にゃ!」


 黒猫は牛乳のパッケージを前脚でちょんちょん。

 それから電子レンジの方向を示した。


 あまりに人間臭い仕草しぐさだったので、こいつは猫の形をした人間なのだと、俺も納得せざるをえなかった。


 マグカップ……じゃ猫は飲めないよな。

 底の浅いお皿にミルクを入れるべきか。


 電子レンジが動作しているあいだ、黒猫は舌をペロペロさせており、俺の口元も自然とほころんだ。

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