「元気にしてた?」

 思い切りもがけば、逃げられるかもしれない。周りに人影はないが、隣の筋は人通りの多いアーケードだ。そこまで出ることができれば、下手な手出しはできないはずだ。

「実はちょっと、お願いがあるんだよね」

 そう言いながら、男は俺に密着したまま上着をめくり、腰に差したナイフを見せた。

 最悪だ。先手を打たれた。当たり前に考えれば、まさかこんな街中でナイフを振り回すほど狂った真似はしないだろう。しかし、この男は別だ。何の関わりもない俺を出会い頭に殴り、蹴り、女の顔を粘土のように扱う男だ。ナイフを抜き、俺の脇腹に突き立てて走り去るのにどれだけの躊躇をするだろうか。

「とりあえず、付き合ってよ」

 ゴリラの背後霊に取り憑かれたように、ずるずると引き摺られながら暗い路地をしばらく歩いた。道を一本隔てただけで、こちらの路地にはほとんど人の姿もない。時々擦れ違う人もないわけではないが、誰も他人になど興味を示さない。俺が救いを求める視線を向けても、その顔は俺を一瞥すらしない。

「どこに行くつもりだ」

「焦らなくても、着いたよ」

 居酒屋やインターネットカフェなどの看板が並んだ、よくある雑居ビルだ。俺は男に押され、赤い煉瓦敷きの階段を降りる。地下にはいくつかのテナントが入っていたが、男はバーらしき店の鍵を開け、俺を暗い店内に押し込んだ。

 照明が灯ると、細長い空間にバーカウンターが浮かび上がった。けばけばしく、陳腐な内装だ。酒好きのための店ではなく、ガールズバーのような猥雑さを感じる。俺は立ったまま、男の次の行動を待つ。

「びっくりしたよ。どっかで見たことある顔だと思ったら、こないだのお兄さんだもん」

 俺の逃げ道を塞ぐように、男は入口付近のスツールに座る。

 女に俺の名刺を渡したか? そんな言葉が口から出かけたが、俺がそんな事情を知っていることはまだ伏せておいた方が賢明だろう。男が落ち着いているうちに、脱出する方法を考えた方がいい。だが、それとなく店内に視線を滑らせてみても、男の背後以外に、出口らしきものはない。

 男は煙草に火を点けてから、まるでポケットから飴玉でも取り出すような気軽さで、上着の内側からナイフを抜くと、刃先を俺に向けてカウンターに置いた。

「お兄さん、あんまり派手に遊んでる感じには見えないけど、給料は貯金するタイプ?」

 この男は自分が追われているのに気付いているのだろうか。もし気付いているとしたら、逃亡の資金を欲しがっているのかもしれない。

「……金が欲しいのか?」

 俺は単刀直入に聞いてみる。男は眠そうに煙を吐きながら、俺の質問には答えず、言った。

「さっきの、彼女?」

 ……見られていたのか。

 どう答えるのが正解だ。迷うほど怪しまれる。

「違う」

 余計なことは話すべきじゃない。男は俺に視線を移し、狡猾な笑いを浮かべる。異様に白い歯が、暗闇に舞う花びらのように、ちらちらと覗く。

「あの子、かわいいね。いや、別にかわいくはねえんだけど、なんつうか、かわいくねえよな。はは」

 男の巨大な体躯が小さなスツールの上で身じろぎする。

「ああいうの、好きなんだよね、俺。どこにでもいる普通の女って感じで。美人は勃たねえんだ、俺。病気かな。特に整形してる奴は、イラッとするよな。気持ちわりいもん。死刑だよ。それに比べて、いいよなあ、あの女。で、何、友達?」

「ただの顔見知りだ」

 ファミレスで金髪男の話を聞いた時、俺は殴られた女と、この男の間で、何か諍いでもあったのだろうと思っていた。しかし、理由は別にあったのかもしれない。吐き気がするほど、くだらない理由が。

 顔が気に食わなかった。たったそれだけの理由で、女は顔の形が変わるほど殴られたのか?

「ま、何でもいいよ。呼び出して」

 ……恐怖か、怒りか、全身が粟立ってくる。

 女をここに呼び出せだと? 馬鹿な。やってきた女を襲って、俺を半殺しにして、金をむしり取るまでがワンセットか。あの女が易々とやられるとは思えないが、呼び出すなど論外だ。

「すぐ来てもらって。駅前のカラオケの裏のネカフェの地下ね。黒いドアのバー」

 あの女の連絡先など、俺のスマホには入っていない。俺さえ黙っていれば、あの女への接点は何もない。ただ、このまま黙っていれば俺が無事で済むこともないだろう。

「電話して、こっちに聞こえるように喋って。妙なこと言ったらお仕置きね」

 どうしたらいい。正直に連絡先を知らないと言うか? 例えそれが真実だったとしても、今この場での真実は、男がそれを信じるか否かでしかない。

「制限時間十秒だから。はい、スタート」

 連絡先は知らないと言って、その後どうなる。奇跡的に男が諦めたとして、俺はどうなるだろう。まだ男の本当の用件も聞いていない。

 男が逃げるための金を集めようとしているなら、俺に何をさせる? ATMにでも向かわせるか? 外に出ることさえできれば、どこかで隙を突いて逃げられるかもしれない。しかし、逃げてどうする。いつまでも男の影に脅えて暮らすか? いや、どうにかして今、この男を返り討ちにする方法はないのか。


 一つだけ、ある。

 あの金髪男を、ここに呼ぶ。

 ……だが、それは不可能だ。番号の履歴がある社用のスマホは会社に置いたままだ。番号がわからなければ、連絡の取りようがない。

「残念。時間切れ」

 男はナイフを掴み立ち上がろうとする。

「ちょっと待ってくれ」

 何でもいい。時間稼ぎをしなければ。

「あの女は、やめた方がいい」

 男はしかめっ面のまま剥製のように静止して俺を見ている。

「あの女には、手を出さない方がいい」

 男は苛立つようにナイフを揺らす。今にも尖った刃先が俺に向かって飛んできそうだ。

「あの女は……」

 続く言葉が出てこない。あの女は、何だ? ヤクザの娘か? 拳法の達人か? それとも、異次元から来た悪魔か? 駄目だ。まともな理由が浮かばない。

 男が立ち上がった。俺までの距離は三歩だ。いや、二歩目でもうナイフが届く。

「わかった、電話する。するから、座ってくれ」

 俺はなるべく時間をかけて、ゆっくりとスマホを取り出す。頭はこの状況を切り抜ける策を捻り出そうと高速で回転するが、焦りと恐れで、どこまでも空回りするばかりだ。

 薄暗い店内で、スマホの画面が秘密めいた光を放つ。その画面を見た時、回転する俺の脳味噌が、小さな歯車を噛み合わせた。

 赤いアイコン。世界を飛ぶアプリ。

 俺は男の目を盗むように、アプリを起動する。分岐時間に今日の昼頃を指定して、検索画面からマップを表示させる。指が震えて、うまく操作できない。

「何やってんだ?」

「すまん、指が汗ばんで、うまく指紋が認証できない」

 酷い言い訳だ。男は真意を量るように、無言で俺を睨みつける。

 ……出た。アプリのマップに、いくつかのピンが表示されている。男に気付かれないように、そのまま地図をスライドさせる。見つけた。俺の会社の位置に、ピンが立っている。俺はそのピンを押し、出てきた結果の一番下、非常口に似たボタンに指をかける。

「電話する前に、一つだけ聞いてもいいか?」

 聞きたいことなんて何もない。その質問は、このあと、この世界の俺が、適当にでっち上げてくれるはずだ。とにかく、三十秒、いや、十秒でいい、どうにかして時間を稼いでくれたらそれでいい。

 俺は、俺に、無茶なバトンを渡し、ボタンを押した。


 瞬きの間に、俺は会社のデスクに座っていた。

 残業をしている俺がいてよかった。きっと同僚の誘いを断ったのだろう。社用のスマホを掴む。一秒も無駄にできない。履歴から、金髪男の電話番号を探す。今日の着信が残っているはずだ。匿名の番号がすぐに見つかった。その番号を心の中で三回読み上げる。すぐさま私用のスマホを起動する。十秒もかかっていないはずだ。ブックマークしていた元の世界を表示して、ボタンを押す。背中の皮が引き剥がされるような引力。息つく暇もなく、再び意識が飛び移る。


 一瞬、何かが手に噛み付いているのかと思った。

 左手の先に、引きつったような鈍い感触。見ると、カウンターに置いた俺の左手にナイフが突き立っている。

 何だこれは。刺されたのか? 次第に身体中の痛覚が左手に流れ込み始める。めちゃくちゃだ。貫通している。肩から先が麻痺したように動かない。

 ……時間稼ぎは失敗した。意識が飛んでいた十数秒の記憶がよみがえる。適当な質問を投げかけ時間を稼ごうした、その直後に、俺が言葉を継ぐ間もなく男はナイフの刃を返し、俺の左手を貫いたのだ。声にならない叫びが、噛み締めた奥歯の隙間から漏れる。

「わかった……。すぐ電話する……」

 息がしづらい。心臓が出鱈目に脈打って、肺を圧迫する。

「頼む、ナイフを抜いてくれ……。まともに喋れる気がしない……」

 男は動かない。巨大なチョコレートの塊に埋め込んだヒマワリの種のような小さな目が、俺を直視したまま止まっている。俺は涙を滲ませて、光のないその目を見つめる。蝋人形のような無機質な視線。人間は、他人を傷つける時、ここまで無感情な顔ができるのか。

 カウンターにゆっくりと流れる俺の血が、台の端を伝って床に垂れ始めてから、男はようやくナイフを引き抜いた。

 俺は左手を血溜まりに置いたまま右手でスマホの画面を開き、通話アプリを起動する。男は目の前にいるが、画面は見えていないはずだ。震える指を無理矢理動かし、心の中でもう一度番号を繰り返してから、画面の数字を押す。

 コール音。

 頼む、出てくれ。

 砂を噛むようなノイズに合わせて、音が止む。相手は答えない。

「もしもし、突然すまん」

「……ああ、あんたか。番号違ったから、わかんなかったよ」

 間延びした男の声が答える。

「今、いいか?」

「大丈夫だよ」

 あの金髪男に間違いない。なるべく自然に、さっき別れた女と会話するような言葉を選ぶ。

「まだ家には帰ってない?」

「ん、どういうこと」

「その辺にいる?」

「……何かあった?」

 気づいてくれ。俺が誰といるのか。

「いや、実は今バーで飲んでるんだけど……、さっき、言い忘れたことがあって」

 電話口の向こうで、男は黙って耳を澄ましている。

「もしよかったら、来てくれないかな。家まで……行くのは、ちょっと難しい。すごく、大事な、話なんだ」

 しばしの静寂のあと、男は囁くような声で答えた。頭の回る男だ。こちらの状況を何となく察したらしい。

「わかった。できる限り早く行く。なるべく時間を稼いで欲しい。場所は?」

 俺は指示された通りの説明をして、電話を切った。

 ……また時間稼ぎだ。仲間を集めるのかもしれない。とは言え、この男も女が来ると思ってしばらくは待つはずだ。あとは金髪男が乗り込んで来た時に巻き添えを食わぬようやり過ごす方法さえ考えておけばいい。


 人間は、どれだけ血を失ったら死ぬんだろう。それほど大量の出血ではないが、太い血管が切れているらしく、生温かい血が垂れ続けている。心臓の鼓動に合わせて電気を流すような痛みが襲うものの、耐えきれないほどではない。止血したいが、ハンカチなんて持っていないし、男が何かを貸してくれるはずもない。そもそも片手で処置できるほど器用でもない。

 男は再び入口付近の椅子に座り、二本目の煙草を咥えた。

「来るんだな?」

「ああ」

「ひでえ奴だな、おまえ」

 ふうっと煙を吐き、ゆっくり立ち上がると、男は俺に近づき、まるで同情でもするように、俺の両肩に手を乗せた。かと思うと、そのまま俺のみぞおちを膝で突き上げた。

 内臓が掃除機で吸われたように、息が止まる。うずくまった俺の背後に回り、男はカチャカチャとベルトを外すような音を立てた。乱暴に両腕を掴まれ、後ろ手に組まれると、軽い金属音ととももに手首に冷たい物が触れた。呼吸を整えながら体勢を直そうとして、かえってバランスを崩して肩から床に倒れ込んだ。手が動かない。手錠をはめられたらしい。

 男は俺を挟んで入口の反対側の席に座り直した。女以外の誰かを呼んだと疑っているのか、それとも、本能的に侵入口を背にすることを嫌ったのか。いや、俺を入口側に置くためにわざわざ手枷をしたのだ。いざという時に、俺を壁として使うために。

 男は両手に俺の血をべっとりと付けたまま、うまそうに煙草をふかした。

「いくらある? 貯金」

「……数十万程度だ」

「え、そんだけ? 何に使ってんの?」

「元々大してもらってない。あとは……酒だ」

「ふうん、ま、いいや。あとでもらうわ」

「金が欲しくて俺を拉致したのか?」

 男は無言で血に濡れた刃を眺めている。刃渡り十センチほどの細いナイフだ。胸か腹にうまく通れば、内臓の奥まで届くだろう。

「なんかさあ、俺のファンがいるみたいで、俺のことを嗅ぎ回ってるらしいんだよ。お兄さん、知らない?」

 俺は黙って否定の意思を表す。俺が知っていることは、まだ気づかれてはいないはずだ。

「まあ、ファンサービスはいくらでもやるけどよ、なんか面倒臭そうな奴らも出てきてるみたいなんだよね」

 そう言うと、男は突然カウンターの灰皿を掴み、俺に目掛けて投げつけた。血で滑ったのか、灰皿は壁に当たって砕けた。透明の、ガラスの灰皿だ。頭に当たれば、砕けていたのは頭蓋骨の方だろう。

「そしたら、どっかで見た顔が、女とイチャイチャしてるわけよ。それも、超俺好みの女と。で、楽しそうだから混ぜてもらおうと思って女をつけたんだよ。けど、いつの間にか消えちまった。周りに隠れるとこもねえのに、どっか行っちゃってさあ。なんなの、あの女? 幽霊?」

 この男の凶暴さは、何か違う。俺の知っている暴力とは種類が違う。怒り、威嚇、快楽、そういうトリガーがあって引き起こされる暴力ではない。しゃっくりとか、あくびとか、そういう何の気もなく生理的にふと出てくる類のものに近い。言動や行動自体の暴力性は、弱いとは言えないが、極端に強いわけでもない。それなのに、ふいにひきつけのように暴力的行動を起こす。この男自身、なぜ暴力を振るうのかわかっていないのかもしれない。電車に揺られていて、ふと何気なく窓の外を見るように、殴り、蹴る。今のところ俺は生きているが、五秒後に生きている保証はない。この男が俺を殺すか、殺さないか、ただサイコロの目で決まる、そんな冷たい恐ろしさがある。

「そいつら全員やるつもりだったけど、面倒臭そうなんだよね。だから金持って引っ越しでもしようかと思ってさあ。別にこの街に愛着もねえし」

 男はカウンターの下から白い錠剤の入った袋を取り出し、中からいくつかつまんで口に放り込んだ。

「おせえな。マジで呼んだ?」

「来ると言っていた。迷ってるのかもしれない」

「もっかい電話しろよ。あと一分で来いって言って」

「怪しまれるだろう。ただでさえ特に親しくもない顔見知りだ」

 荒い鼻息を吐き、男はカウンターにナイフを思い切り突き立てた。小さな目を見開き、血管の走ったこめかみを震わせて俺を睨みつけているが、その視線はどこにも焦点を結んでいない。さっきの錠剤はドラッグだろうか。明らかに目つきが変わっている。これ以上に凶暴性が増しては堪らない。サイコロの一の目が出たら俺が殺されるゲームが、一以外の全ての目で殺されるルールに変わったとしたら救いようがない。

 男はすっと立ち上がった。さっきまでの鈍重さが消えている。何をする気だ。ゆっくりとナイフの柄に手を掛ける。


 その時、ほんの微かな音を立てて、入口のドアが動いた。

 ……来た。

 俺は下半身だけで無理矢理体勢を整え、闖入者の姿が現れるのを待った。

 この状況を見れば、話し合いにはならないだろう。すぐに、外で待っている仲間を呼ぶはずだ。一瞬のうちに、多勢で制圧する。俺はドアと男の間にいる。巻き添えを食わぬよう動きたいが、両手を封じられている以上、機敏な動きは困難だ。

 男が立ち上がって俺ににじり寄る。俺は男との距離を測りながら、いつでもドアに向かって飛び退けるよう身構える。


 ドアが、今にも、開く。

 ドアノブを持った手から、肘へ、肩へ、それから顔へ、訪問者の全身が、少しずつ明らかになる。

「なんで……」

 俺は嗚咽のような声を漏らした。

 薄明りに半分だけ照らされた顔は、見間違えようもない、この男の待ち望んだ、女の顔だった。



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