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「回りくどいのは嫌いだから、なるべく要点だけに絞って話す」
状況を飲み込めていない俺を置き去りにして、女は続ける。
「あんたが動けないのは、すごく都合がいい。逃げられると面倒だからね。最初に言っておくけど、あんたにとって不利益な話にはならない。だから、基本的には、受け入れるつもりで聞いてもらいたいんだ」
俺は頷くことすらできず、ただ女の顔を見ている。
「まず、自己紹介しておこう。と言っても、名を名乗るつもりはない。必要がないからね。ではわたしは何者かというと、さっき見てもらった通り、人間ではない。この姿は、なるべく警戒されないよう選んだ他愛ない着ぐるみに過ぎない。中身は……、想像に任せるわ」
人間ではないと名乗る、いかにも人間の姿をした女が俺を見下ろしている。
平時なら、病的な女の戯言だと一笑に付すところだろう。だが、なるほど、確かに女の言う通り、百聞は一見に如かずだ。女の魔術じみた力を目の当たりにした後では、俺はその異常な言葉を、簡単に掃き捨てることができない。
「人間じゃないという不明瞭さが気に食わないなら、あんたたち人間に馴染みのある言葉でイメージしてくれたらいい。例えば、悪魔とかね。別にお化け、妖怪、何でもいいけど、人間の価値基準に照らすと、悪魔と呼ぶのが一番自然に連想できるんじゃないかな。人間の不幸を集めて回るのがわたしの仕事だから」
やはりただの狂人だったか。子供が落書き帳に書き殴ったでたらめな空想の方が、まだリアリティがある。不幸を集める悪魔だと? 殴られたショックで、脳がイカれて幻覚を見ているのだろうか。
「まだ信じられないって顔だね。自分の目ではっきりと見た物すら信じられない。自然科学に反する物に対しては特にその傾向が強い。人間の科学は妄執に近いね。道徳にしても然りだわ」
女はこちらに掌を広げて見せた。たちまち、五本の指に小さな炎が一斉に灯る。炎は順番に指から離れ、空中で輪を描くように回転し、やがて掻き消えた。
この女が狂っているかどうかは差し置いて、何か理解を超えた超常的な力を持っていることは認めざるを得ないだろう。
「何が欲しいのか知らんが、そんな馬鹿げた奇術が使えるなら、脅すなり痛め付けるなりして奪えばいいだろう」
「痛め付けられるのは懲り懲りって顔してるけど?」
「なぜ俺と対等に話をする必要があるのかと聞いてるだけだ」
「だから言ってるでしょ。取引が必要なの。この世界に法律があるように、わたしにだっていろいろと従うべきルールはあるのよ」
どうやら本当に取引を持ちかけているらしい。不幸を集めていると話していたから、この最悪な一日を帳消しにして、もっとマシな一日に変えてくれるとでも言うのか。
「取引するとして、俺から出す物は何だ。寿命か、労働か?」
「まだ勘違いしてるみたいね。わたしはあんたの不幸を買い取るのよ。あんたが提供する物は、それだけ。それに、言ったでしょ。あんたに不利益はないって」
「不幸を買い取ってもらって、俺は今日一日が健やかな日に変わる。それで取引成立か?」
「悪いけど、あんたの不幸は変わらないわよ。取引することで新たな不利益は生まれないけど、あんたが元々持ってた不幸はそのまま。つまり、あんたの不幸な状況に価値を付けて、それを使用する権利を買うの」
本当にこの女と会話することに意味があるんだろうか。喋っている内容が、まるで理解できない。何と言うか、とてつもない徒労をしている気がする。
「話が飲み込めないんだが、……その前に、一つ頼みを聞いて欲しい」
「何?」
「炎を自在に出せるのなら、水も出せるのか?」
「同じことよ」
「だったら、ちょっと出してみてくれないか。顔が洗いたいんだ」
そう頼むと、女は急に静かになった。顔の筋肉を一箇所も動かすことなく、俺を無表情に見下ろし続けている。
「聞こえなかったか? この辺りに、蛇口から出るくらい……」
頭からプールに飛び込んだような衝撃。
滝だ。突然、俺の頭上に滝が現れた。息ができない。あまりの水圧で、皮膚が千切れそうだ。女はどこだ。何も見えない。
溺れる……、そう思った瞬間、また唐突に水は止まった。見ると、俺の周りだけが、集中豪雨を浴びたように水浸しになっている。女は、少し離れたところから何食わぬ顔で眺めている。
「きれいになった?」
「こっ……、何を……」
「話を続けてもいいかしら。わたしたちは、人間の不幸に対して、その権利を買うの。使用権よ。あくまで、わたしたちの社会にだけ存在する権利。人間にとっては何の影響もない。そして、権利を得るために、その当事者である人間の承認と、契約が必要。そのための取引よ。そうしないと、取り放題の無法状態になるでしょ。然るべき契約の形を経ることで、秩序を保つのよ」
俺はジャケットの袖で顔を拭う。めちゃくちゃな女だが、お陰で顔の不快感はマシになった。ただ、全身がずぶ濡れで、一歩進んで二歩下がった気分だ。
「権利を買うというのはわかった。だが、そんな物を買って何になるんだ」
「それは、あんたには関係のないことだから、話す必要はない。けど、せっかくだから教えてあげるわ。人間の不幸は、わたしたちにとって欠かすことのできない娯楽なのよ。ある者はそれを鑑賞し、またある者は体験する。信じられないでしょうけど、不幸そのものを、匂ったり、舐めたりもできる。不幸には、匂いや、味があるのよ。まあ、あんたにはわからない話だけど」
話が突飛すぎる。最低限の筋は通っているが、何しろ立っている文化の土壌が違いすぎて、理解の線が交わろうとしない。
「……それで、おまえが俺の不幸を買い取って、俺は代わりに何をもらえるんだ?」
女の顔が僅かに明るくなったような気がするが、なにしろ元が無表情すぎて、ちょっとした筋肉の動きを見間違えているだけかもしれない。
「やっと話が進んだわね。そう、あんたに渡す対価、その話をしよう。見ての通り、わたしは人間の持つ様々な能力の限界を簡単に飛び越えるような、特別なことができる。その一部を、あんたに提供するのよ」
「俺も空を飛べるようになるのか」
「もちろん、わたしたちだって、一目でそれとわかるような超人を量産するつもりはない。人間社会の秩序を乱すわけにはいかないからね。だから、なるべく目立たない、周囲への影響が最小限に留まると予見できる範囲に限られるわ。そのために苦心して作られた、いわゆる商品のような物がいろいろあるのよ」
だんだんイメージできてきた。この女は、セールスマンみたいなものだ。そう考えると、不思議と気味の悪さは消え、理性的に話ができる余裕が生まれる。
「例えば、どんな商品があるんだ」
「そうね、実際のところ、今回のあんたの不幸に、それほどの価値はないわ。ただ、自分のゲロに顔から突っ込んで、そのまま犬みたいにペロペロ舐める辺りは多少評価してもいいわね。一部のマニアにも受けるし」
言いたい放題言ってくれる。犬みたいにペロペロやった記憶はないが、それで価値が上がるのなら、今はあえて反論することもないだろう。
「多少甘く見積もっても、今回の不幸の対価として、大した物はないわ。けど、今売り出し中で融通しやすい物がある。持って回った言い方は好きじゃないから、はっきり言うわね。わたしはあんたに、それを受け取って欲しいのよ」
やはり、間違っていない。この女はセールスマンだ。初めから売る物は決まっている。回りくどい誘導をせず率直に売り込んでくるやり方は、お世辞にも賢いとは言えないが、好感は持てる。
「ノルマがあるのよ。人間にもあるでしょ。でも、悪いようにはしないつもり。それなりに自信もあるわ」
「断ったら?」
「他を当たるだけよ。悪いけど、濡れた服はそのままね」
断ったところで、俺の境遇には何も変わりはない。それなら、話だけ聞いてみてもいいだろう。
「とりあえず、詳しく話してくれ」
「よかった。もし断ったら髪の毛くらいは燃やすつもりだったから」
忘れるところだった。この女はただのセールスマンではない。悪魔のセールスマンなのだ。
「冗談よ。そんなことをしたら、わたしがただじゃ済まないわ」
女は、また俺の目を見つめて微笑んだ。さっきよりは、少しだけ自然な表情に見えた。
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