第15話 家族と過去 中編
月明かりだけが道を照らす、宵闇に包まれた山の奥。一人の女性が、しゃがんで私の肩に手を置いたまま泣いている。
「おお、外道丸……お前を捨てる母をどうか許しておくれ。村長様たちに殺せと命じられても、実の子を殺せなかった母をどうか許しておくれ。この山の奥には、孤児を引き取り育てる和尚様がいると聞く。どうかそこで、安らかに暮らしておくれ……」
女性は……母は泣きながら、ぽつりぽつりと語りかけた。
私の名は外道丸。越後国の小さな村に生まれた数え四つの男児。
生まれながらに黒の髪と白き歯を生やし、産声をひとしきり上げた後に母の呼びかけに応えた事から、村では化け物と忌み嫌われていた。
村長は特に私を忌み、母に何度も私を殺せと命じてきた。母はその度、化け物でも自分の子だと拒んできた。が、数日前遂に村長は「外道丸を殺さなければ村から追放する」と母を脅した。
母は私を連れ、山を幾つも越えた。そして今、孤児を引き取る和尚が住むというこの山に私を捨てようとしている。
正直、母の行く末を除けばこの世に未練などなかった。このまま母を見送り、飢え死ぬのも悪くないだろう。
「顔をお上げください、母様。外道丸は母様が居なくとも、立派に生きてみせると誓います。その得物を貸して下さい。私の血のついた凶器を見せれば、村の者達も私が死んだと信じるでしょう」
私は泣き止まない母を慰め、懐に護身用としてしまっている短刀を借りたいと申し出た。母は涙を拭い、おずおずと短刀を差し出した。
私は刃長の短い直刃の得物を抜刀し、自らの左腕を切りつけた。
「っ……」
「外道丸、それ以上は…… !」
「構いません。十分な凶器と成りうるまでは、幾らでもこの血を流しましょう」
切る度に鈍い痛みが走り、赤々とした血が流れる。化け物でも、血の色は他の人間と変わらないらしい。
左の腕に力が抜けた頃には、短刀は私の血で赤く染まっていた。
「さあ、行ってください母様。そして村の者達に、化け物は死んだとお伝え下さい」
「嗚呼……どうかこの子に、仏様の御加護があらんことを……」
母は血のついた短刀をしまい、ひとしきり祈った後に山を降りていった。
さて──数日水以外何も口にしていないから、もってあと数日の命だろう。それよりも腕の傷で失血死するのが先か。母の言っていた和尚が本当にいるかも分からないし、ここで大人しく夜空を見上げ、命尽きるまで待っていようか。
私は、山の道端で一人、月が昇る空を見つめていた。
月が沈み、東の空が明るくなりだした頃。
朦朧とする意識の中で、こちらに近づく足音を聞いた。腕の痛みは、いつの間にか消えていた。
「……孤児を引き取る坊主の噂が立ってから、この山に捨て子が増えたのう。悲しい事じゃ。坊主は全員を引き取っている訳ではないというのに」
足音の主は、木の幹に凭れる私を見下ろしてため息を吐いている。
網代笠を被っていて顔は見えないが、声から判断して古希は過ぎているだろう。右肩を出すように掛けた五条の袈裟が、慎ましさと信心深さを感じさせる。
「お前さんも、そんな噂に躍らされた愚かな親に捨てられたのか ?」
……私に話しかけていたのか。独り言かと思って無視していた。
「母様は愚かではない。貴方と仏を信じ、私を預けるに足ると判断してここに置いたのだと思う」
「ふむ……随分と大人びたことを言う童じゃのう。年は幾つか」
「四つ」
私は、母を愚かと言った和尚が気に食わなかったので訂正した。坊主は私の言いようを見て、村の者達と同じことを言う。年の割に大人びていると言われるのはもう慣れた。ただこの和尚は他の者と違い、気味悪がる様子はない。単に興味が無いだけかも知れないが。
和尚は顔のよく見えない笠の下で静かに笑っていたが、やがて笠を外し私に目を合わせた。
丸刈りの頭に細い目の、何処にでも居そうな老人の顔をしていた。声は老いて聞こえていたが、不思議とその見た目は健康そうだった。
「そうかそうか……お前さんなら儂が居ずとも、生きていけそうではあるが。捨て子には皆聞くようにしておるのでそれに従おう。お前さん、仏の道に興味はないかね ?」
「──では、本日も読誦を始めよう。外道丸、前へ」
先生が、経卓の横に移り私の名を呼んだ。私は写し終えた経典を持ち、立ち上がる。
「はい」
ゆっくりと歩く間、他の小僧がこちらに注目するのが分かる。彼らは無言で、こちらを見つめている。
私は経卓の前に立ち、経典を置いて読誦を始めた。私が一行読むのに続き、他の小僧たちが声を揃えて経を読む。
母様に捨てられた翌朝通りがかった坊主……先生について行った私は、山奥の寺で僧となった。先生は、山に捨てられた孤児の意志を問い、仏道に興味のある子どもを寺に迎え入れていた。名のない子どもには名前も与え、共同生活を送らせることで他者と協力して仏の道を歩むよう教えているらしい。殆どの子どもは身寄りを失い、路頭に迷って先生について行く他ないため、孤児を皆引き取ると噂が立ったようだ。
私はと言うと、別段仏道に興味がある訳ではなかったが、初対面で私を見ても気味悪がらなかった変わり者の老人に少し興味を持ったので、入門する事にした。
寺での日常は、騒がしくも平穏だった。朝早くに起きて小僧全員で食事をとり、一般教養の授業や漢字の読み書き、写経や読誦をする。休み時間には境内で追いかけ合いをしたり、室内で余った半紙に絵を描いて遊んだりする小僧が多い。
私はそんな喧騒に包まれながら、先生の書斎から借りた本を読んで過ごしていた。
座学の合間に、先生の布施巡りに同行することも時々ある。私は小僧の中でも優秀だから……と先生は話していた。今やっている読誦の手本も、その日最も上手く写経できた者が行う。殆どの者は未だ時間内に全て書き終えられず、時間内に写し終えても悪筆なものばかり……と、他の小僧たちがいない所で先生はため息を吐いていた。
般若心経を全て読み終えた後、私は自分の席に戻った。
「うむ、皆よく読めていたぞ。数日後に暗唱の試験をするから、よく復習しておくように」
先生が満足そうに頷き、教室を出ようとしたその時、一人の小僧が立ち上がった。
「せんせー !最近外道丸ばっかりに読ませてるだろ !不公平だぞ !俺いつもこいつより早く書き終えてるのに !」
強気な目を持ち一回り大きい体つきをしたこの少年は弥太郎(やたろう)。現在この寺で最も古株で、小僧たちの大将のような存在だ。
「前も言ったじゃろ、お前は早く書くことに拘りすぎて雑になっていると。字にはその者の魂が込められる、もっと丁寧に書くことを心がけなさい」
「そうじゃなくって !たまには他のやつにも読ませてやれって言ってんだ !」
「分かった分かった、考えておこう。ひとまず小休憩じゃ、次は珠算だから算盤を忘れないように」
先生は文句を言う弥太郎を諌めながら教室を出て行った。
「くっそー !おい外道丸 !今日こそ俺と勝負しろ !」
弥太郎は文字通りに地団駄を踏んだ後、私を指さして言った。
「人に指を指すなと数日前先生に言われていなかったか」
「う、うるさい !勝負しないなら不戦敗だからな !」
「それでいいといつも言っているだろう、私は『新訳万葉集』の続きを読みたいから失礼する」
「不戦敗だけじゃなくって、その長ったらしい髪をお前が寝てる間に切ってやるからなー !」
ほぼ毎日のように突っかかってくる弥太郎の言葉を聞き流して落ち着ける場所に行こうとすると、弥太郎は逃げるなら私の髪を切ると言った。
本人にとっては口をついて出た、心にもない言葉だったのかも知れないが私には効果覿面だった。立ち止まって机に『新訳万葉集』を置き、弥太郎に向き直る。
「それだけは止めろ。何で勝負すればいい」
「お ?おう、そう来なくっちゃ !表に出ろ、腕相撲で勝負だ !」
弥太郎は私が乗るとは思っていなかったのか一瞬驚いたが、すぐに親指で外を指し示した。別に外に出る必要はないのではと思ったが、他の小僧たちが私たちの勝負を一目見ようと集まっているのが見える。
私は右腕の袖を捲りながら弥太郎に続いて外に出た。
「や、弥太郎くん……止めようよ、また先生に叱られちゃうよ」
人混みをかき分け、弥太郎と同時期に寺に入った小柄な少年……雨月(うづき)がおろおろとしながら弥太郎に声をかけた。
「うっせ、雨月は黙ってろ !怖いなら見なきゃいーだろ」
「で、でも弥太郎くんも外道丸くんも心配だし……」
「俺が圧勝するから心配すんなって。俺はこの寺の小僧の中で一番の力持ちだからな !」
「そういう問題じゃなくって……外道丸くんもどうして勝負受けちゃったのさ〜 ?」
弥太郎は捲った腕で力こぶを作って自信満々にして見せた。説得できないと思ったのか、雨月は私を泣きそうな目で見てくる。自分が勝負する訳でもないのに何をそんなに怯えているのだろう。
「髪を人質に取られて受けざるを得なかったんだ」
「そんな理由で !?」
「雨月、男には理不尽な理由でも戦わねばならない時があるんだよ……分かってくれ」
「分からないよぅ弥太郎くん……」
私が弥太郎から売られた喧嘩を買った理由を話すと、雨月は驚いた。
他の小僧になく、私にだけある長い髪。妄りに他人に触れられるのは嫌だし寝ている隙に切られるなど言語道断だった。
弥太郎は地面に伏せ、右腕の肘を立てた。私も同様にして、弥太郎の右手を握る。
「いいか、手の甲が先に付いた方が負け、肘を動かした方は失格だからな」
「腕相撲の規則くらい私でも分かる」
「その余裕面泣かせてやる……おい雨月、合図 !」
「う、うん……二人とも、けがしませんように。用意、どん !」
弥太郎に声をかけられた雨月は徒競走の合図のようなことを言い、手を叩いた。同時に、弥太郎がぐっと力を込め私の腕を押してくる。私は力を込め留まった。
「いけいけー、そこだ弥太郎ー !」
「大和魂見せてやれー !」
周りの小僧の殆どは私が寺に入る前から弥太郎を慕っていた者達だ。彼らにとっての弥太郎は英雄のような存在なんだろう。
雨月はどちらの味方をするでもなく、おろおろと私と弥太郎を見比べている。遠慮などしなくても良いものだが、この少年の心優しさがそれを許さないのだろう。
数十秒、腕は少しも動かず私と弥太郎はお互いを睨みつけていた。単純な腕力なら相手が一枚上だが、本気を出さずに遊んでいると見える。
「な、なかなかやるな外道丸……、ここから本気だぜ── !」
弥太郎はにやりと笑って腕に一層力を込めようとする。
その一瞬の隙を、私は見逃さなかった。
「あ、寺の方から先生の声が──」
「何っ !?ってうわぁあ !?」
私の発言を鵜呑みにし、寺の方を向いた弥太郎。一瞬緩んだ腕を、私は地面に押しつけた。
「そ、そこまで !外道丸くんの勝ち !」
雨月は驚きつつも、審判の役割を全うした。周りの小僧たちは決着を目の当たりにして、私に非難の声を浴びせる。
「うわー、ずるいぞ外道丸ー !」
「いんちきだいんちきだ !」
「油断をする方が悪い。それに声が聞こえたのは本当のことだ。先生が来る前に解散した方がいいぞ」
私は身体についた砂を払って立ち上がり、教室に戻った。
弥太郎は負かされた後放心していたが、立ち上がって私の背中に向けて叫んだ。
「こ、今回は先生が来そうだったから早めに勝負を切り上げただけだ !次は本気で倒してやるからな !」
そちらの勝ちでいいからできればもう勝負を仕掛けないで欲しい、とは言わなかった。あの脳筋には私を倒すことしか頭にないのは、数年共に暮らしてきてよく分かっていた。
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「なんだよあいつ、いっつも大人ぶって達観したような感じで……」
「先生に気に入られてるからって調子乗ってんだろ……」
「女みたいな髪してて、坊主として恥ずかしくないのか…… ?」
残った小僧たちは、ひそひそと外道丸の陰口を言っている。
「お前ら !!教室に戻らねーと先生のお説教くらうぞ !」
それを見た弥太郎は一際大きな声を出した。小僧たちはびくっとしつつ、ばたばたと教室に戻る。
「弥太郎くん、後で外道丸くんに謝らないとだめだよ ?」
雨月だけは、弥太郎の横に並んで歩く。
「謝るって何がだよ」
「外道丸くんの髪のこと。知ってて切るなんて意地悪言ったんでしょ ?」
「……ああでも言わないと乗ってこないと思って」
「先生は僕たちみんなに平等だ。外道丸くんは本当に優秀だからお手本になることが多いだけ。弥太郎くんもよく分かってるよね ?僕も一緒に行ってあげるから謝ろう、ね ?」
物心つく前、同時期に拾われた二人の少年。性格は正反対でも、お互いの考えていることはよく分かっていた。
「……今はあいつがこの寺一番でも、いつかは俺が抜かしてやるんだ。雨月も見てろよ」
「分かってるよ、素直じゃないなあ弥太郎くんは」
「うるせー !」
弥太郎は照れているのを怒鳴って隠し、教室に駆け入った。雨月はくすくすと笑いながら、彼の後を追った。
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夕食が済み、他の小僧たちが風呂に入ろうと走り出した時、私は先生に呼び出された。今日も布施に同行するらしい。私も先生に聞きたいことがあったのでちょうど良かった。
「時に外道丸。他の小僧たちとは仲良くしておるか ?」
先生は山道を歩きながら尋ねてきた。
「馴れ合う理由が分かりません。仏道修行とは本来、苦から脱し悟りを開くことを目的としたもの。善行を積むことを主としているのであれば、他の小僧と馴れ合う必要性は無いと考えます」
「大勢での共同生活は嫌いかね ?」
「嫌い……ではありません。理由、意義が分からないだけです」
他の小僧たちは拾ってくれた先生に恩義を感じ、先生の教えに従って日々座学に励み、休み時間に小僧同士でじゃれ合っている。寺に入って十年が経とうとしているが、未だ先生の意図が読めなかった。
「お前さんもまだ若い。いずれ、他者と手を取り合い、時に競い合い、時に遊びながら学ぶ大切さが分かるよ、ほっほ」
先生は分からない理由を考える私を見て、面白そうに笑っている。いつかその答えが分かる日は来るのだろうか。
「私も先生に聞きたいことがあります。未だ私の頭を治療しようと考えておられるのですか ?」
「はて、何のことかね」
「先生の書斎にあった、奇病難病についての書物。あの中に、私の頭に関する病がないか探していたのではないのですか」
私は聞きながら、長く伸ばした髪をかき分けた。
私が元いた村の者達から化け物と忌み嫌われた、もう一つの理由。私の頭には、他の者にはない二つの小さな突起物が付いていた。
寺に入るにあたり断髪しようとした先生だけは事情を知っている。女のようだとからかわれても伸ばし続けている理由は、人と異なる頭を隠すためだった。
「……お前さんは本当に鋭いのう。儂が隠そうと思っていても、すぐ見破ってくる」
「私の事で先生が気を揉む必要は無いと言っているのです。化け物扱いならば慣れております。それに恐らく私は── !先生危ない !」
私が言葉を続けようとしたその時、遠くから矢の放たれる音がした。私は先生を押し倒して伏せる。
カンッ !
背後の木の幹に、矢の刺さる音がした。
「痛た……老体はいたわってほしいのう」
「申し訳ありません先生、咄嗟でしたので……」
倒された時腰を打った先生を起こしながら、私は放たれた矢を見つめた。
木に刺さった矢には、文が結ばれている。
また、あの文か。
数カ月前、初めて貰った時は枕元に置かれていた。小僧の誰かが悪戯で置いたのかと思いつつ開くと、それは女性からの恋文のようだった。
おじい様の葬儀でお見かけした日から、お慕いしております。この寺の和尚様に、貴方のお名前を聞きました。外道丸様、なんと素敵なお名前なのでしょう。叶うならば貴方と結ばれたい……差し支えなければ今夜、枕元に返しの文を置いてください。文のやり取りでも構いません。
丁寧な字で綴られていたが、肝心の送り主の名が書かれていなかった。誰とも知らない者と文通をするのは気が引けたし、曲がりなりにも寺に身を置く者として恋愛にうつつを抜かす訳にはいかなかったので、返しの文は書かず貰った文は葛籠にしまった。
その数日後、また枕元に文が置かれた。その一週間後も、その次の週も……返しの文が貰えないと分かってか、寝ている間に枕元に置かれる文は矢文に変わった。最初に貰ったもの以外は、不気味なので読まずに葛籠にしまってある。
今度は外出した隙を狙ってきたか……間違って先生に当たったらどうするつもりだったのか。私は矢から文だけ外し、忌々しく見つめてから懐にしまった。
「知人からかね ?」
「いいえ、顔も存ぜぬ者からの意味の分からない怪文書です。気にせずに行きましょう」
その夜の布施中は周囲の警戒を解かなかった。
数日後の夜。
小僧たちが寝静まった夜更け、私は先生の書斎に呼び出された。先生はいつもの穏やかな顔を崩し、険しい表情をしている。身に覚えはないが、私が何かしでかしたのは明白だ。
「……今日の昼間、麓の村で若い娘が亡くなった。自殺じゃった」
先生は重い口を開き、話し始めた。午前の座学が終わった後、客が来てその日は自習となっていた。
「それは……ご冥福をお祈り申し上げます」
「うむ。して、その娘の懐には遺書があった。宛先は──お前じゃ、外道丸」
「っ !?私に遺書……ですか ?」
私が呼ばれた理由はその遺書を渡すためだったのか。麓の村には何度か布施や葬儀の手伝いに行っていたが、娘と交流した覚えは……いや、そうか。
自殺したという娘は、あの不気味な文の送り主か。先生がお怒りな理由も、そう考えれば納得がいく。
「先生、弁解をお許しください。私は確かに名も知らない誰かから恋文を受け取り、それを隠していました。ですが、今まで一度たりとも横道に逸れようと思ったことはありません」
「分かっておる。儂が怒っている理由はそれではない。何故その送り主に返しの文を書き、きっぱりと断らなかった ?」
「それは……見ず知らずの者に文を送るのが、不気味だったから……」
「見よ、これがお前が放置した事の末路じゃ」
先生は静かに怒りながら、懐から何かを取り出した。夜の闇のせいでよく見えないと思っていたが、それだけが理由ではなかった。
それは、何をすればこうなるのか分からないくらい黒く染まった封筒だった。焼け焦げているわけでも、墨で予め染めている訳でもないのに、真っ黒だ。
私は恐る恐る、黒い封筒を開いた。中の便箋も、同じく黒く染まっている。何枚にも綴られた黒い便箋を、私は開いた。
憎い。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
「ひっ…… !」
便箋には赤い文字でいっぱいに憎いという二文字が並んでいた。思わず便箋を投げ出しそうになったが、先生に睨まれて思い留まり、憎いの羅列が続く紙を見る。
最後の一枚だけは、まともな文が書かれていた。相変わらず、文字は血のように赤かったが。
何故、振り向いて下さらないのですか。
私はこんなにも貴方のことを愛しているのに。
どうして、返事の一つもくれないのですか。
貴方が一言嫌だと言えば、私はすっかり諦めてしまえたのに。
貴方が愛おしくて憎らしい。
こんな身の焦げるような思いをするならばいっそ、
貴方ごと燃えて一つになってしまいたい。
最後の文を読み終えたその時、手紙に火がついた。火はたちまち燃え上がり、私の手まで達しようとする。
私は咄嗟に手紙を投げ捨てたが、火は床に広がらず私目がけて飛んできた。小さな火は私に着くや否や大きな炎となり、私の身体を包んだ。次の瞬間、経験した事のない熱さと痛みが全身を襲う。
「っ !?う、あああああああっ !熱い、熱い熱い熱い !」
「外道丸 !?くっ、待っておれ、今水を取ってくる !」
「待って、先生 !熱い、熱い、痛い…… !早く消して……うぁぁぁあああっ !!」
先生は驚きつつも冷静に対処しようと、外の井戸に向かおうとする。私は火だるまになり、苦しみ悶えながらそれを追う。
熱い、熱い、熱い。
痛い、痛い、いたい、いたい。
私のせいなのか ?私が、あの文を無視したから ?送り主が私を憎み、私は殺されるのか ?
いや……それだけじゃない。
私は他の者とは違うから ?他の者と違う私は輪廻転生の流れにも乗れず、苦しんだ後に消えるのか ?
私が……化け物だから ?
ああ、そうだ。おまえは化け物なんだ。
炎に焼かれる中、頭の中で誰かの声が響く。この声は…… ?
化け物なら化け物らしく、何もかも壊しちまわないか ?なあ ?
「外道丸、耳を貸すな !あちら側に引きずり込まれるな !儂の教え子から離れよ、鬼魔駆逐 急々如律令、鬼魔駆逐 急々如律令…… !」
先生が私に語りかける声に気づき、悪霊退散の呪文を唱える。その度に、私の頭がさらに痛みを覚える。
ああ……やはり、私はこの世に生まれた時から……。
とすると、この声は──。
分かってるじゃないか、『俺』。さあ、全てを壊そうか ?
「うっ……ああああああああ !!!」
外道丸は自らを包む炎に焼かれ、苦しみながら、その姿を変えた。耳は尖り、生え揃った歯は鋭い牙となり、爪は黒く染まり。頭に生えた二つの突起物は、純白の角へと形を変えた。
さながら、伝説上の鬼のような姿に。
外道丸を包んでいた炎はさらに燃え広がり、法師の書斎へ燃え移った。
「くっ……遅かったか…… !」
法師は熱と風圧に耐えながら、外道丸に手を伸ばそうとする。
が、火の中にいた少年はその手を払った。
「はは……アははハハははは !!見タか人間、これガ俺の真の姿ダ !お前が拾った子どもハ、禍々しい化け物だったんだよォ !後悔してももう遅い、俺は化ケ物、何もかも壊してやルよぉ !!」
外道丸だった者の声に、何重もの声が重なり、不気味な音を響かせる。柱や本棚は炎で焼け崩れ、寺院へと燃え広がっていく。
「そこに居るんだろォ……お前ら、名のない鬼火たち !!暴れろ、取り憑け、全てを燃やし尽くせ !」
鬼は墓場に向かって叫ぶ。すると、あちこちの墓石から数多の火の玉が現れ、寺の方へと向かった。
「止めろ、教え子たちに手を出すな !!」
法師が必死に乞うが、鬼火たちは止まらなかった。小僧たちの寝静まった部屋に飛び、小僧たちの身を焼き尽くさんとする。
「うわぁぁあ !?火事、火事だあぁ !」
「わっ、近づくな火が付いてる !」
「お前もだろ !みんなが燃えてる、どうなってるんだ !?」
鬼火に取り憑かれた小僧たちは、身を焦がす炎に苦しみ悶える。次々と周囲の者が燃える恐怖に、小僧たちは怯え出す。
気の弱い少年、雨月もその炎に焼かれていた。
「熱い……熱いよ……だれか……」
「お前ら落ち着け !燃えてない奴は井戸から水取ってこい !寺まで燃える前に消し止めるんだ !……大丈夫だ雨月、俺が絶対助けるからな !ちっ、こんな時に外道丸はどこ行ったんだよ…… !」
「弥太郎、くん……逃げ、て……」
弥太郎は年下の小僧たちを落ち着かせて指示を出す。動ける者達が出た後、自らの手が焼けるのも気にせず雨月の手を取り、助けると誓った。
「無駄だ……無駄むだムダ !お前ら脆弱な人間ガ、この炎に耐えられる訳が無イだろぉ !?せいぜい足掻いてろ、苦しいのなら俺が終わらせてやるカらサァ !!」
鬼は狂ったように笑い、鬼火を操りながら暴れ回る。炎の海の中、法師はその様子をじっと見据えていた。
「……いつかこのような日が来ることは覚悟していた。外道丸よ、儂がお前を終わらせる」
法師は袈裟を脱ぎ捨て、戦闘の構えを取った。
「止められるもんなら止めてみろよォ、老いぼれに何ができるか見せてみろよなぁァあ !!」
鬼は法師の挑戦を受けるとばかりに挑発した。法師が前へ進み出ると同時に爪を立て、牙を向く。
その瞳が何故か、涙を流していたことには法師以外気づかなかった。
身体が動かない。瞼が重たい。
私は……いつの間に眠ってしまったのか ?
大量の水が身体を打ちつけている……雨が降っている ?
「う……っ !?」
目を開き、自分の身体がどうなっているのか確認した私はぎょっとした。
身につけていた着物はぼろぼろになり、身体のあちこちが焼け焦げている。
だが、もっと驚くべきは私の四肢だ。
金属製の鎖のついた枷が、両手両足に付けられている。動けなかったのはこれが原因だった。
冷たい雨水から逃れるために、私はじたばたともがきどうにか起き上がった。動かしづらいだけじゃなく、身体中が痛い。火傷が水にしみてひりひりする。
「これでは歩きづら……うわっ !?」
足元のぬかるんだ土で滑り、手をついて転んだ。少し濁った水たまりに、自分の姿が映る。
目元に入れた覚えのない紅が入っており、開いた口からは牙が覗いている。頭に生えていた突起物は、白い角に変わっている。
「ひっ !?」
自分の変わり果てた姿に、私は悲鳴を上げた。化け物化け物と言われ続けていたが、これでは本当に悪鬼の類ではないか。
はらり。
懐から、一枚の紙が落ちたのに気づいた。手枷がついて動かしづらい腕を何とか使い、紙切れを取る。
よく見覚えのある、先生の字だった。
外道丸。お前は寺院のみならず、多くの小僧を焼き殺し、自らの妖力の糧とするためにその命を喰らった。
お前の頭に生えた小さな角のような突起物から、悪しき物に取り憑かれていると推測していたが、それに心身を奪われたお前を、儂は許す訳にはいかない。
人喰い鬼の外道丸、お前に妖力封じの枷を付け、霊山の結界内に無期限追放する。
結界内には水も植物もあり、動物も棲んでいる。生き永らえるには困らないだろう。
妖に与えられた無限の時を有効に使い、己の犯した罪を悔いるように。
先生からの手紙を読んだ私は、言葉を失った。震える手から手紙が落ち、雨に打たれて濡れていく。
私が……寺を焼いた ?小僧たちを焼き殺し、喰った ?
頭に思い浮かべた途端、その様が憧憬となって蘇る。
倒れる先生、焼け焦げた小僧たち。
それを喰っているのは……私 ?
「違う……違います、先生……それは私じゃない……私が、寺の者達を殺すなんて有り得ない……」
震える声で呟き、自分の手を見つめる。雨で流され、泥がついて分からないが、真っ赤な血で染まっているようにも見える。
認めろよ、外道丸。
『俺』は化け物、人喰い鬼なんだ。
『俺』が寺を焼き、皆を殺して喰った。
「違う……違う !!私はやってない、私は……わた、し ?私は……外道丸 ?いや、あの時の私は……ぼクは、おイらは……あれ…… ?」
いくつもの声が混ざって聞こえる。身体の中で響く小僧たちの声か、自らの内なる声か。最早判別がつかなくなっていた。
わたしは……俺は……誰だ ?
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いつかの夢で見た、暗い海の底。
俺はその光景を、映画でも見るかのような感覚で見続けていた。
人間に化けた俺にそっくりな人間の子どもが気持ち悪いくらい丁寧な言葉で喋り、自分のことを『私』なんて呼び、人間の女に捨てられる。子どもはその女を母と呼んでいた。
山中で寺の人間と出会い、寺に入り、子どもたちと共に暮らす。
見ず知らずの人間の少女から恋文を貰い、無視していたらその少女が自殺し、遺書に火がついて子どもに燃え移った。
そして子どもは姿を変え……鬼に成り果て暴れた。鬼に変わった人間の子どもは、昔の俺とよく似た姿をしていた。
子どもが次に目を覚ましたら外にいて、手枷と足枷を付けられていた。水たまりに映る姿や寺の人間からの手紙で、自分が寺を焼き子どもたちを殺め、喰らったことを思い出した。
俺が覚えていた最も古い記憶が、塗り替えられていく。否、日記の破られたページが貼り合わせられるように、失われていた記憶が書き足されていく。
かつての俺は人間で、寺院で人間の子どもたちや法師と共に暮らしていた。鬼に覚醒した時に寺を焼き子どもたちを殺した。そして、法師が暴れていた俺を気絶させ、枷をつけて俺を霊山に置き去りにした。
何故、今の今までそんな大事なことを忘れていた ?俺は生まれつきの妖怪ではなく、人間だった……今、俺が心から嫌っている人間だったという事実を、何故俺は忘れていた ?そして何故、今になって夢の中で思い出した ?
ふと気が付くと、身体に纏わりついていた鎖のうちの一本が解け、光の粒に変わっていた。光は一瞬目を細めてしまうほどに輝き、海全体を明るく包んでいく。次に目を開いた瞬間には、光の粒は消え失せていた。しかし、放たれた光の影響か、海の中が幾分か明るくなったように感じる。
まだその全容が分かるほどではなかったが、鎖で縛られた俺を見つめる人影があることには気づいた。人影は人間に化けている時の俺と同程度の背丈で、俺を見上げたまま動かない。男か女か、子どもか大人かの判別は付かない。首から上にかけて、未だ残っている暗闇が隠しているためだ。
四辻荘に来た夜に見た夢で、最後に語りかけていた声の正体はこいつか…… ?
人影は、ゆっくりと口を開く。
――ここは貴方の記憶の海。貴方の生まれと、救い手と、罪。それらをもって貴方を封じるための場所。
貴方は新たな生活を通して、自らの生まれに疑問を持った。
未だ全てを返す時には程遠いけれど、貴方が悩み続けるのは私の本意ではありません。
どうかその悩みを払い、悔いなき第二の生を――
俺の記憶の海…… ?生まれと救い手と罪をもって、俺を封じるための場所 ?
人影の言葉の意味は全く分からなかったが、ただ一つ分かったことがある。
俺は、今思い出した俺自身の生まれ以外にも、何か大事なことを忘れている。それら全てを思い出した時、この身体を海の底に縛り付ける鎖が全て解けるのだろう。
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「──っ !!!はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
俺は起き上がり、息を整えた。整えながら辺りを見渡す。四辻荘の一〇二号室、俺と八束の部屋だ。
身につけているのは寝巻きに使っている薄手の浴衣。冷や汗でうっすらと濡れている。
隣を見る。もう一つ敷かれた布団の中で、八束がすやすやと寝息を立てていた。俺が真横で飛び起きたにも関わらず、一向に起きる気配はない。
今の夢は何だったんだ……妙に現実味のある、それでいて奇妙な内容だった。
眠る前までは霞がかかったように思い出せなかった、俺の出自に関する記憶。それらを思い出し、俺を暗い海の底に縛っていた鎖のうち一本が解け、海の中に幾らかの光が戻った。
俺以外の妖怪や人間も、同じような夢を見たことがあるのだろうか。
分からない……考えれば考えるほど、視界が澱み、思考の迷路に囚われる。
俺は布団から出て、洗面所に向かった。鏡に自らの姿を映す。
黒い髪は短く切り揃えている。誰かに案内された鬼の里で、長くて邪魔だろうと切られて以降その長さを保っている。目元に入った紅は擦っても消えない。黒子か染みの類なんだろう。口を開けば、鋭い牙が生えている。人を喰らう程度なら簡単にできるだろう。そして、頭には二本の白い角が生えている。
これが、今の俺だ。人間とは似ても似つかない悪鬼羅刹の化け物だ。今の俺は、大江伊吹という名の酒呑童子。その事実は変わらない。
今思うと、妖術を殆ど使えなかった俺が鬼火を使役できる理由にも納得がいく。鬼として覚醒した夜、近くの墓地から呼び出した鬼火たち。妖力の糧として喰らった寺の子どもたちの魂。それらが融合し、今も俺の中に残り続けているのだ。
「俺は……酒呑童子、大江 伊吹……」
俺は自分に言い聞かせるように、鏡の前で自分の名を繰り返した。
どれくらいそうしていただろう。思考がだんだん冷静に戻ってきた。
今、自分の正体について考えていても情報が少なすぎて分かることは無いだろう。それよりも考えるべきは、今の住処の先行きだ。
管理人はここを取り壊すと決めた父親を説得すると言っていたが、あの電話口の様子からして良い結果は得られないだろう。だからと言ってここを出る気は毛頭ない。
とりあえず再び寝床に戻り、他の住人たちが目を覚ました時に改めて対策を考えなければ。俺は洗面所を出て、自分の寝床に戻った。部屋の置き時計の針は、午前二時を指していた。
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