紅葉にのせた恋歌(メッセージ)

櫻井 理人

紅葉にのせた恋歌

 国語の授業で和歌が出てきた。古今和歌集に収録されているいくつかの和歌を、教科担任が黒板に淡々と書いていく。しーんと静まり返った教室の中で、黒板に書き込むチョークの音だけが響いていた。見慣れない昔の言葉は、中学三年の私たちにとって、いわば外国語のようなものだ。ひととおりの説明を受けたのち、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。


「本日の授業で扱った古今和歌集の和歌の中から自分が好きな和歌をひとつ選んで、その理由をノートにまとめて来ること。それを土日の宿題とします」


 教師からの指示に教室内は騒然とする。


「いきなり好きな和歌って言われたって……」


 皆が焦りの声をあげる――私もそのうちのひとりだった。


「好きな和歌って言われてもなぁ……」


 帰り道、一人で途方に暮れていると、


「若葉、今日出された古文の課題、何にするか決めたか?」


 不意に後方からかかる声に、私は立ち止まり、首を横に振った。


「全然。じゅんは決めたの?」


 閏とは幼稚園の時からの幼馴染。家が隣どうしなのもあって、一緒に登下校することが多い。特に、中学校生活最後の中体連が終わって以降、閏がサッカー部を引退してからは、ほぼ毎日のことになりつつあった。


「秋ぬと何とか、ってやつ」

「それって、藤原ふじわらの敏行としゆきが詠んだ『秋ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる』のこと?」

「は? もう覚えたのかよ」

「だって、暇だから教科書に載っていた和歌、休み時間に読んでいたんだもの。アンタの読み方だと、秋が来ないことになるって、先生が言っていたけどね。それにしても、随分シンプルなのを選んだのね」


 閏は頭の上で腕を組み、口をとがらせた。


「……とりあえず秋っぽいだろ? 今の季節にはぴったりかなってよ」


 坂を下る勢いも相まって、肩から斜めに下げた閏のスポーツバッグが、ガタガタと音を立てていた。


「……そんなことだろうと思った。アンタらしいと言えば、アンタらしいけどね」


 閏は頭の上で組んでいた腕を下ろし、抗議の声を上げる。


「何だよ、それ。どれにするか決めただけ、お前よりマシだろ?」


 そう言うと、家の前に立つ木を指した。


「見ろ、風で紅葉もみじが揺れているだろう? 今の季節にぴったりじゃねーか。秋といえば、紅葉だもんな」

「目にははっきり見えない、って言っているけどね……まあ良いわ、時間はまだたっぷりあるから。この土日でしっかり考えてやるわよ」

「それはそうと、明日寝坊すんなよ。後輩の試合、十時に始まるんだからな」

「分かってるわよ! じゃあ、明日」


 私は帰宅するなり、自分の部屋のベッドに横になった。


「なんでいつも、ああなっちゃうんだろう」


 独り言とともに、大きな溜息が出てくる。


「喧嘩ってわけじゃないけど、何だか素直じゃないっていうか……アイツ、私立の高校行くって言っていたし。卒業まであと半年ぐらいしかないじゃない」


 枕に向かって散々こぼす。もう一度大きな溜息をついた。


「でも、何て言えばいいんだろう。まさか『好き』だなんて言えないし。今の関係が壊れたら……それに何より、気まずい。隣に住んでいるんだから、いつ会わないとも限らないし」


 もどかしい。何も言えない、正直に言えない自分が、これまで以上にもどかしく思えた。

 その日の夜、机に向かい、課題を取り組むことにした。少しは気が晴れるかもしれない。考えたって仕方がない。ノートに書き取った授業の内容を見返し、教科書に書かれた和歌を声に出して読むことにした。


 思ひつつればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを


小野おのの小町こまちか。絶世の美女で、恋愛の歌を多く詠んだ人……だったっけ。そんな人が思っている相手って、どんな人だったんだろう……」


 そう考えているうちに、眠りへと誘われていった。






「……め様、姫様」


 落ち着きのある、優しそうな男の人の声。

 その場で起き上がろうとすると、


「重い……」


 全身が厚い何かで覆われ、重石を身に纏っているような感覚。やっとのことで腕を上げ、袖に目をやると、見えたのは鮮やかな色とりどりの着物のようなもので、幾重にも重なっていた。


「着物……あれ? 私……確か、机で和歌の課題をやっていて、いつの間にか眠っていたの? というか、ここはどこ?」


 辺りを見回せば、目の前に広がるのは床いっぱいに隙間なく敷き詰められた畳。いぐさ独特の匂いが鼻の中を刺激する。廊下を吹き抜ける冷たい風が、部屋にかかるすだれをカタカタと揺らしていた。


「姫様は面白いことをおっしゃいますな。きっと疲れているに違いない」

「誰? どこにいるの?」


 再び聞こえる男の人の声。声の主を確かめようと、動けないながらももう一度辺りを見回したけれども、やっぱり姿が見えない。


「姫様、ここにおります。簾の向こうに――」


 簾越しに映る影。それがこの人なのか。ようやく声の主の居場所が分かったところで、簾の隙間に手を入れ、少しだけ持ち上げてみる。すると、私の行動が滑稽に思えたのだろうか。笑い声が漏れ聞こえてきた。思わず簾から手を離した。むっとしながらも、その声に耳を澄ませてみる。少し大人びているようにも感じるが、聞き覚えのある――というより、毎日のように聞いている声のような気がする。

 風で簾が大きく揺れた。隙間からあらわになる人の顔に目をやると、普段から見慣れている顔だった。


「……閏?」


 烏帽子えぼしを頭に乗せ、束帯そくたいに身を包んだ閏は微笑んでいた。


「烏帽子に束帯……私が着ているのは、もしかして十二単じゅうにひとえ? ってことは……ここは平安時代⁉」

「風が、秋の訪れを知らせているようだ」

「風……風の音。『秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる』そうか……こうやって昔の人は季節の訪れや風情を楽しんでいたんだ」

「敏行殿の和歌ですね。さすが姫様」


 簾越しではあるけれど、にこやかに返す閏の声を聞いていると、思わず嬉しくなる。自然と表情が綻んでいるのを自分でも感じた。

 簾の間から差し込む夕日とともに、紅葉の葉がひらりと舞う。私はゆっくりと立ち上がり、十二単の裾を床に引きずりながら、簾の向こうへと動こうとした。


「普段からこうやって話が出来れば良いのに」と、頭の中で考えてから溜息をつく。

「姫様、どうかなさいましたか?」

「何でだろう。アンタは普段私が知っている閏より大人びているというか……でも、なぜか今なら言える気がするのよね。本当は私、アンタと一緒に高校に行きたいし。これからも、ずっと……」


 と、言いかけたところで、辺りに強い風が吹き荒れた。大量の紅葉の葉がばさばさと音を立て、部屋の中へと入って来る。自らの顔面に向かってくる葉の数々と風の勢いに、たまらず私は顔をそらし、袖で顔をかばった。

 しばらくして、辺りを舞っていた紅葉が畳の上に落ち終わり、正面へ目を向けると、先程まで簾越しにいたはずの閏の姿が、数十メートル先に見えた。

 だが、それも束の間、さらにその姿が小さくなっていく。


「閏! どこにいくの?」


 必死に叫んだ。走ろうにも、十二単の重さで思うように動くことが出来ない。立っているのがやっとだった。


「それが姫様の……いや、若葉の本音なのか。そうならそうと、はっきり言えば良いのに」


 その声は、どこか寂しげだった。けれども、今の私にはその言葉の意味を考えているほどの余裕がない。目の前から遠ざかっていく、その事実だけがひどく恐ろしくて、悲しくて……。


「待って! 行かないで!」






 自らの叫び声で目を覚ました。体を起こし、目をこする。


「重くない……」


 いつもの服、本棚にベッド……いつもと変わらない景色が広がる。


「夢か……」


 安堵の溜息を漏らすが、それと同時に「はっきり言えば良いのに」という閏の言葉が思い出される。


「……にしても、変な夢だったな。けれど、何だかもったいない気がする」

 くしゅん!

「寒っ……」


 十センチほどではあるが、窓が開けっぱなしになっていた。外もすっかり明るい。窓際に置かれた机の上には一枚の紅葉の葉が落ちている。窓から入ったのだろうか。


「夢に出てきた……紅葉の葉」


 紅葉の葉を手に取り、記憶を辿る。次第に薄れていく夢の記憶。けれども、夢の中で閏と話したという事実だけは鮮明に残っている。


「あっ、決めた」


 筆箱からボールペンを取り出し、葉に書き込もうとする。葉の凹凸おうとつが邪魔で思うように書くことが出来ない。普段よりも雑な字で、ボールペンのインクが滲んでいく。それでも何とか書き終え、葉を手に取った。


「おい、今何時だと思ってんだ? 試合に遅れるぞ!」


 外から聞こえる、聞き覚えのある声。窓から顔を出すと、閏が仁王立ちをしていた。

 枕元に置いた目覚まし時計の時刻は九時四十七分。現実に引き戻され、たちまち冷や汗が流れる。


「ごめん、すぐ行くから!」


 慌てて階下に向かい、身支度を整える。朝食も取らずに、ものの数分で家を飛び出した。


「ったく、そんなことだろうと思ったぜ。早く行くぞ」


 閏が小走りを始めたので、夢中で後を追う。


「ごめん、宿題やってて寝落ちしちゃった。何の和歌にするか、ようやく決めたんだ」

「は? こんな時に和歌の話かよ」


 閏は脇目もふらずに小走りを続ける。あきれ返った声を聞いて少しめげそうになるが、話を続けてみる。


「今朝見た夢が嬉しかったから。目があいて、少しもったいない気がしてさ……アンタも出てきたんだよ」


 閏は立ち止まり、黙って私の顔を見つめてきた。こちらも思わず立ち止まる。


「へぇ、奇遇だな。実は俺も、お前が出てきたんだよ。夢に」

「えっ? どんな夢?」


 閏はいたずらっぽい表情を浮かべた。


「ナイショ」

「え? ケチ!」


 頬を膨らませる私の顔を見て、閏はくすくすと笑った。そんなにおかしいのだろうか。夢の中でも笑われたせいで、妙に気恥ずかしくなる。


「変な夢だったけど。でも、悪くないよな――ああいうのも」

「閏、あの……私本当は、これからも……」

「その答えなんだけど、ごめん、高校は無理。サッカー続けたいし」

「何よ、それ。まだ何も言っていないのに……」


 その時、冷たい風が吹きすさんだ。紅葉の葉がひらりと地面に落ちる。


「何だ、紅葉なんて持っていたのか?」


 閏が葉を拾い上げたところで、ようやく思い出した。


「あっ、それ……返して!」


 家を出る前にボールペンで書きつけた葉だった。閏は目を凝らし、いびつでにじんだ文字をゆっくりと読み上げた。


「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを――か。そっか、だったんだ」

「えっ?」


 私は目を見開いた。「俺と同じ」その言葉の意味を理解するのにそう時間はかからなかった。


「でもやっぱ、目あいて良かったわ。いくらでも会えるよ。これからもずっと。俺たち、隣同士だし」


 そう言ってから、閏は腕時計に目をやった。


「やっべ、もう時間だ。走れ!」

「ちょっと、待ちなさいよ! 閏!」


 木々に茂る紅葉の葉が音を立てながら揺れ、ひらりと空を舞った。

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