第11話 新百合ヶ丘先輩

 喫茶「伯爵」を辞した僕たちは大学近くのノート屋に向かった。

 今僕たちがいるのは喫茶「伯爵」のある池袋駅北口で、ここからノート屋までは徒歩で10分ほどかかる。


「コーヒー、ごちそうさま」

「いいってことよ。まあ、こんなことに巻き込んでしまったしな」

 永野氏はさもありなんとばかりに言う。さっぱりしたその物言いにやはり決定的な非童貞感を覚えつつ僕たちは歩き始める。


 5月になりだいぶ日が長くなってきたが、6時を過ぎた池袋にはすでに夕闇が迫っていた。

 池袋北には夜が似合う。店舗の猥雑な照明が道行く人をビルの中に手招きする。客引きやスカウトのいかつい男たちは警察だけに注意を払って我が物顔で路上にたむろする。

 ノート屋の営業時間にはまだ余裕があるものの、街に急かされるような焦燥感を覚えつつ進める歩みは自然と速くなっていた。


 マルイ前の交差点に差し掛かったところだった。ずっと考えていたことが口をいて出たように永野氏が言った。

「こんな時だからこそいてみようか。君は、どうだったんだ?」

「……どうって、何が?」

「その、失った時の話だよ」

 来るとは予想していたが、やはり改めて問われると身構えてしまうのだった。


新百合ヶ丘しんゆりがおか先輩と――したんだろう?」

 永野氏は非童貞特有の浅慮せんりょさで切り込んできた。



 



 ここで新百合ヶ丘先輩について説明しておく。


 彼女は僕の1つ先輩で、同じ大学の文学部の学生であった。そして、彼女の属性において最も重要なのが文芸部に所属していたということであり、つまりは我々のサークルの先輩であった。


 4月、入学式を終えた新入生を手ぐすね引いて待ち構えているのがいわゆる『新歓しんかん』――サークルの新入生勧誘である。我が大学は池袋にメインのキャンパスがあるのだがかなり手狭であり、学園祭や新歓ともなると文字どおりキャンパスからあふれんばかりの学生でごった返すことになる。

 幾多いくたのサークルにビラを押し付けられ捕まえられつつ時速100mくらいでのろのろとキャンパスを移動していた僕を「本はお好きですか?」と呼び止めたのが先輩だった。

 流石に勧誘攻勢に辟易へきえきとしていた僕だったが、ホイホイと先輩に付いて行った先が現在所属している文芸部であった。それまでの熾烈しれつな勧誘に疲れ切っていたというのもあるし、押し付けがましさのない先輩の声に安心感を覚えたのもあった。



 僕の通っている大学は僕が言うのも何だが世間的にはオシャレな学生が集う大学であると見なされている。もちろん万を超える人間の集まる大学という場にあって、オシャレという傾向こそあっても、画一的にオシャレというラベルでそこに通う学生たちをくくることはできない。

 玉石混交オシャレもいればダサいのもいる、キャンパス上空を優雅に舞う蝶もいれば石の裏にへばり付くダンゴムシもいるのが自然の摂理というものである。

 無論、僕や永野氏が後者であることは言をたない。


 もともとダンゴムシたちは人目に触れないよう生活しているのに対して、オシャレ学生たちは肩で風切ってキャンパスを闊歩かっぽする。だから必定ひつじょう「本学はオシャレな大学である」という風に見なされることになるのだ。

 特に女生徒に関しては学年が上がるごと洒脱しゃだつになっていくともっぱらの評判であった。

 入学式こそ同学年の女子学生たちはスーツルックだったものの、キャンパスに足を踏み入れると女学生たちの華やかさに僕は気圧けおされてしまった。


 その中にあってせぎすの先輩は、何と言うか――語弊ごへいを恐れずに言うのであれば安心できる格好をしていた。

 黒のTシャツの上にアースカラーのブルゾンを羽織はおり、下はタイト目なパンツルック、その下にチラリと覗く足首は厚手のロングソックスでビビットな差し色を入れハズシにしつつ、靴はスニーカー。

 ひとつひとつこう書いてしまえばただ地味でダサそうなのだがそう思わせない――僕はファッションに疎いためおそらくになるが、それぞれの服のサイズ感と色味が決して適当ではなく相互に調和しているからこそダサく感じさせない――そんな服装だった。


 後に、女子高出身だと判明する先輩は「女子高の女子ってのは二極化するの。自分の好きな服で着飾ってギャルギャルしていく子、そもそも服にあんまり興味がなくて当たり障りのないものを選んだら芋子いもこになっちゃった結果ボーイッシュだねなんて望まない称号を得る子。私は、まあ後者だね」と言っていたがこれは謙遜けんそんだろう。

 スラッと背の高い先輩にはこざっぱりとした服がとてもよく似合っていると思う。


 芳香ほうこうを振り撒くように布地をヒラヒラさせている周囲の女学生と比べると、布地を倹約するかの如きプロテスタンティズムに溢れる服装だった。さすがそっち系のキリスト教宗派が建学したうちの大学の学生である、などと僕は思った。

 


「はあー、あなたでようやく2人目なんだよー」

 『文芸部』と書かれた看板を手に先輩は僕を先導してくれた。暗めの茶髪を後ろでまとめ、メタルフレームの眼鏡の奥にはキリッとした二重があるにも関わらず全体の印象としてはどこか眠そう――いや、世を儚むような眼をしていた。


「文芸部ブースにご新規1名様ごあんなーい」

 連れられて行った文芸部の新歓ブースにはむさくるしいおっさんが座っており、先輩のさらに先輩だろうと挨拶をしたところこれが1人目の新入生――永野氏だったのだが、この話は先輩とは関係が無いので割愛かつあいする。



 今になって思う。あの時僕を呼び止めたのが先輩でなかったら、僕は文芸部に入っていただろうか。


 それから1年半以上が過ぎ、代替わりし新・部長となった先輩が3年生の学園祭を最後に引退した後(就職活動があるため3年生の学園祭で引退するのがうちの大学の文化サークルの不文律だった)、追い出しコンパで胸にぽっかり穴が空いていることに気づいた僕は、ようやく先輩が好きなのだと自覚するに至った。

 次第に好きになっていたのか、そもそも最初から好きになってしまったから新歓で文芸部のブースにホイホイ付いて行ってその場で入部届を出したのか。どちらにせよ、何か感じるところがあったからこそ、それまで文芸のブの字も知らなかった僕が文芸部に入った訳である。

 最初から――僕は負けていたのだ。

 あの時の僕だったらラッセンの絵でも買っていたかもしれない。


 胸に空いた穴を埋めるべく僕は文芸部の部長に立候補した。代々部長など消去法でしか決まったことがなかった文芸部であったため即時当選だった。

 もちろんこれは創作活動に燃えていた訳でなく、前・部長たる先輩にアレコレ教えてもらうという口実を付けて連絡したり食事に行ったりできるだろうという下心から来るものであった。

 過去の僕からすれば大変な積極性であったが、それまでの大学生活において怠惰たいだ酒精アルコールに脳を焼かれ正常な判断ができなくなっていたからかもしれない。


 もしくは、これこそが中高時代をふいにした僕の――少し遅い青春だったのかもしれない。


 その結果だが――これを書くのはよすとしよう。成就した恋ほど語るに値しないものはない。

 ただ、そう――1ヶ月前の4月、ついに僕は先輩とお付き合いするに至ったのだった。





 

「まあ、そう……そう……ね」

 僕はモゴモゴと歯切れ悪く永野氏の問いをはぐらかした。到底答えることはできなかった。

 永野氏は「ほーん……」と横目で僕を捉えつつニヤリとした。

「うらやま死刑ってやつだ!」

 永野氏はおどけて言った後、口を結んで表情を硬くした。

「俺にも、そういう人がいたらなあ……」


「そういう人がいたらなあ……」の後に続くのは、きっと「こんなことにはならなかったのに」である。


「っと……着いたぜ。間に合ったな」

 そんなやり取りをしていたら、気づいたらもう目的地の前だった。

夕闇に聳える雑居ビル、その3階の窓から漏れる蛍光灯の明かりがノート屋営業中のサインだった。


 正直なところ、いいタイミングで到着してくれたと僕は胸をなでおろした。

 たしかに先日「先輩と宿泊し脱童貞した」と永野氏に話したのは僕だったが、そのことについてはもう少し時間をもらいたかったのだった――。

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