2 ウエハースのジオラマ

 脱サラなんて聞こえはいいけれど、本当は職場に堪えかねて逃げ出した。

 労働時間は長いばかりで給料袋は薄いまま。職場の人間環境は劣悪で、厄介事を押し付ける上司、深夜残業前提のクライアントの連絡。使い潰しの同僚たちは互いのミスと連絡不足で足を引っ張り合い、積み重なる膨大なエラー。大学までひたすら怪獣だけを見てきた男が、潤滑な人間関係など望めるべくもない。誰かを気遣うこともできなければ、ホウレンソウすら怠る始末。怪獣以外のことは後回し、後回しの性格で、率先して仕事を増やす側だったこともある。

 三十そこそこで、三百万程度の貯金しかない。これでも生活費を切り詰めて貯めたのだ。退職した時も半ば強制的な圧力によるもので、実質的な首切りを自主退職と言い換えただけだ。雀の涙ほどの退職金もない。それが逆に、ぼくの踏ん切りをつかせることになった。

 計画性もなにもない。前々から空想だけはしていて、発作的な衝動による行動。

 そうだ、スタジオを作ろうじゃないか。

 円谷とはいかずとも、個人で特撮ができるスタジオを作ろう。ぼくはやはり、怪獣にしか生きられない。

 父親からは親不孝だと罵られたから縁を切った。大学で知り合った特撮好きのただひとりの友人は呆れかえっていた。白い目で見られることには慣れている。馬鹿にされることにも。

 思い立ったら行動は早い。安くて広い土地を探して地方へ移住。あばら家同然の廃工場を二束三文で買い取り、屋根と壁の穴を覆うだけのトタンを張り付けて、雨風だけは何とかしのぐ。利用できそうな廃材はセットにリサイクルするとして、邪魔な鉄骨を片付ける。貯金はあっという間になくなり、足りない分は借金で補う。後先など考えられなかった。

 金はなくとも甘い見通しだけはしっかりとあって、自主制作の怪獣特撮を動画配信サイトにアップすれば、特撮好きは応援してくれるはずだ。もしかすれば手助けしてくれる仲間、撮影の仕事が舞い込むかもしれない。知名度が上がれば、クラウドファウンディングで本格セットを組める。借金もチャラで、再び特撮ブームに火をつけられる。ぼくの好きな怪獣がぼくの手で産まれる。そんな妄想ばかり膨らませた。

 昼間は廃材を再利用してセットを組み、夜はコンビニでアルバイト。工具を揃えたついでに、廃材をホームセンターから譲り受け、誰の助けも借りずにミニチュアの街路を造る。

 高校、大学では独学で模型作りを勉強していたかいあって、処女作となるビルの出来は悪くないものだった。高校時代に書き溜めたビルのスケッチも大いに役立ってくれた。壊れた時の室内の露出、建材の断面、部分ごとの壊れやすさを想定するために材質から骨組みから構造を調べてメモを取っていた。建築方面に進学しなかったのは、建物それ自体にはまるで興味がなかったことが原因。解体業者――建築爆破には多少惹かれるものはあったが、人の手で壊されたものでは駄目だった。

 ぼくは、ぼくの手で、ぼくの世界に怪獣を蘇らせたい。ぼくにはそれしか残されていない。

 初めに作ったのは50分の1スケールの、15階立てマンション。火薬など派手なものは用意できなかったために、爆竹と自作の発火装置を仕込んで、破壊した瞬間に弾けるようにぼくの側で息を合わせるアナログな手段を用いることに。撮影機材などもケータイを設置して、ひとつしかない小型カメラを額にセット。貧弱な二台体制で挑むしかないが仕方ない。ディスカウントストアで手に入れた、安っぽい怪獣のラバースーツを着込んで、左手には発火装置のスイッチをもつ。

 呼吸を整えてスイッチ、起動と点火の間を考えて一拍置き、思い切り足を振り下ろした。ビルの一階部分で爆竹が爆ぜ、煙が登ってくる。しかし、ぼくはビルに片足を突っ込んだまま痛みに歯を食いしばっていた。ビルの破片がラバーを引き裂いて、ふくらはぎの皮を割いている。

 特撮で見るような爽快さとはかけ離れて、ビルはぼくの足を呑んで立ち尽くしていた。スタジオに寒々しく発破が鳴り響く。

 失敗の原因は明白だ。ビルが固すぎるのだ。ぼくは現実の建材や構造を重視して造ってしまったために、簡単には破壊できなかった。バラバラに崩れることはおろか、部分倒壊することもない。鉄筋代わりの針金が飛び出て、ぼくを痛めつけるだけだった。

 セットで怪獣が暴れ回る衝撃に堪えつつ、ぶつかった時には細かく破砕する。ミニチュアだと素材が軽いせいか、細かく分かれにくい。現実の構造から離れて思いっきり脆くする必要があるらしい。ばきりと真っ二つに折れたりするビルには、相応の仕込みが必要なのだということも知らなかった。こういった失敗は一度や二度ではなかった。

 結論として、切れ込みの入ったウエハースが最もジオラマ建材には相応しいのではないかと考えるまでになった。事実、ぶつかったときの粉塵の出方と破砕のしやすさは随一だ。チョコの層が入っていると、程よい高度になり、折れた時の爽快さを出す弾けを生み出してくれる。塗装次第で化ける素材に違いない。

 試行錯誤の末、たった六畳の街をつくるのに一年かかった。

 幾ら切りつめても借金はかさみ、借金を返すための借金は雪だるま式に増えていく。結局、肝心の怪獣のアクタースーツも、予算不足で腰元までしか作れなかった。下半身だけの怪獣。映像を撮ろうにも、全体を映すことはできない。とてもではないが、CGを使うような映像技術は持っていない。

 苦肉の策として、怪獣の主観映像として街を破壊することにした。主観ならば一々構図を調整する必要もないし、映像の乱れも臨場感となってくれるだろう。

 初の映像作品は、主役である怪獣の名前もなく、ただぼくが怪獣となって一年がかりのセットを破壊し尽くすだけの映像となった。効果音も工事現場で録音したものと、無料の効果音を組み合わせたチープなもので、実際のビル崩壊とは程遠い。

 不満な点をあげつらえばきりがない。しかし、この作品は我が子のように愛おしいものとなった。それと同時に、特撮の裏側を経験したことでどうしようもない乖離を思い知らされた。子供心に夢見た圧倒的な怪獣の蹂躙、人間社会を破壊し尽くす暴力など、どこにもないのだと痛感せざるを得なかった。

 所詮は人間のつくった創りもの。

 三五を過ぎて、初めてアニメの世界がないのだと知る愚かな。そんな哀れな背中が、広々としたスタジオにぽつんとあった。

 動画配信サイトで公開した映像は一か月たっても再生数は50を下回る有様。箸にも棒にもといったところ。ぼくの手元に残されたものといえば多額の借金と、買い上げた時と大差ない廃墟同然のスタジオだけ。もう二作目をつくる資金も気力もない。

 怪獣は現れた時と同じように、忽然とぼくの元を去って行った。

 怪獣はいなくなった。

 怪獣はどこにもいないのだ。

 ぼくの怪獣は絶滅した。ぼくが滅ぼしてしまった。

 怪獣を殺すのは宇宙のかなたからやってきた光の巨人でも、金星を滅ぼした宇宙怪獣でもない。人間なのだ。

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