龍門寺麟

 麟は、目の前に帰ってきた紡を見る。

 ……先程までとは、明らかに様子が変わった。

 考えるまでもなく、あの少女の声援が心構えを改める切っ掛けとなったのだろう。


 その迷いのない視線を受けながら、麟は3年前……初めてここで紡と対峙した日のことを思い出す。


 その日の試合で麟は、これ程に真っ直ぐな打ち込みを出来る人間が居るのだと知った。

 しのぎを削った少年の眼は、まるで彼の世界には、試合相手である自分と彼の二人しか存在していないと云っているようであった。


 麟は、龍門寺の一人息子。

 偉大な父と、その父の背を追いかける門下生たち。

 父は龍門寺の男である以上、強くあるのは当然であると言い、麟がどれ程稽古に打ち込んだところで決して褒めようとはしなかった。


 そのような有り様であっても、他の門下生からは麟が父親から特別に贔屓をされているように思えたらしい。

 ……麟は、龍門寺蔵王と血の繋がった子供だから。

 実力があろうがなかろうが、いずれは神代道場の看板を継ぐことになるのだろう。

 親の威光に甘えて、情けない奴め。


 陰でそのような言葉を吐かれているのを知りながら麟は……いつかは父に、若しくは他の誰かに認めて欲しくて、竹刀を取る他なかった。


 その少年……朝夕紡は、麟の背に誰の姿も見てはいなかった。

 ただ麟を、強き者と認めて剣を向けていたのである。

 緊張に震える瞳とその切先が……麟にとっては、矮小な自分を一人の剣士たらしめるものであったのだ。


 それからの麟は、ただ紡との再戦の日のために剣術を磨くようになった。

 門下生共の評価などどうでも良い。

 道場の跡継ぎなど、知るものか。

 ただ決して紡に自分を超えさせぬよう、彼の打ち込みを思い出しながら日々の鍛錬を続けていた。

 誰もが目を逸らした自分を好敵手ライバルとして見てくれる彼に、最高の剣技を捧げるために。


 紡との四度目の試合当日。

 彼が廊下で、華奢な少女と話しているのを見た。

 その時の紡の顔は、麟の中の彼とは全く違う表情をしていた。

 ころころと表情を変える紡は、自分と剣を交える試合の中、尾根山道場の門下生と会話する時、そのどれよりも自然体であるように見えたのだ。


 ……女などにうつつを抜かして、もしや紡は技を鈍らせているのではないか。

 そう思うと堪らなく悔しくなって、麟は思わずその背に声をかけた。


 振り返り、龍門寺、と麟の名を苦々しげに呼ぶ紡。

 ……彼にとって、自分は最早邪魔者なのだろうか。

 好敵手だと思っていたのは、自分だけなのか。

 大事な試合で3度も打ち負かされた相手など、嫌って当然なのかもしれないが。


 緩みそうになる涙腺を取り繕いながら、紡と言葉を交わす。

 それから麟は紡の果たし状にも思えるその台詞を受け取って、胸がすうっと寂しくなるのを感じた。


『俺だって、惚れた女子に良いところを見せたいという気くらいある』


 それは麟にとって、自分は眼中に無いと言われているも同然の言葉。

 今日の彼が剣を捧げるのはきっと自分ではなく、あの少女一人なのだ。

 ……冷たい道場で孤独に剣を振るう日々に戻るのは、嫌だった。


 麟はそう思い、心に決める。

 今日の試合で……再び紡を倒す。

 それから、彼に告げよう。

 試合の間だけでなく日頃から共に高め合う、『友』になって欲しいと。


「反則一回」


 審判は赤の旗で紡を差し、そう告げた。

 竹刀を落とす、もしくは場外に出てしまった場合、試合では反則となる。

 それが二度起きた場合、相手の一本として数えられるのだ。

 また、双方の取った本数が同数の状態で時間切れとなった場合、審判による判定で勝負が決まる。

 その場合、反則を行った選手に軍杯が上がることはない。


 だから今、麟と紡の双方が一本ずつ取っており、尚且つ紡が反則となっている以上……判定にさえ持ち込めば麟の勝利は確定していた。

 しかし今の紡を見る限り、そう易々と麟に勝ちを譲る気は無さそうだ。

 ……案外、うつつを抜かしていたのは自分の方なのかもしれない。

 麟はそんなふうに、声を出さずに独りごちる。


 紡は、竹刀を中段に構えてじっと麟を見つめている。

 やはり、変わらぬ真っ直ぐな視線。

 しかしこれまでと違うのは、その紡の世界には自分以外にあの少女の姿があることだ。


 紡の構えは、鈍るどころか更に研ぎ澄まされているようにすら思える。

 麟はそんな彼の姿を見て、口角を上げた。


 成る程、確かに紡はあの少女に変えられてしまったらしい。

 しかしそれは、彼に剣術を磨く意味を変えられた自分だって同じ事。

 ならば残り僅かな時間の中で、互いの剣を賭けて戦おう。


 ……勝負は次の一手で決まる。

 紡と麟のどちらの中にも、その確信があった。


 紡はきっと、一本目と同じ踏み込みを仕掛けて来るだろう。

 麟は、それにどれだけ早く応えることが出来るかだ。


 切先を下げ、構えを下段に。

 麟が狙うのは、紡の左脚。

 ……蒼天流の象徴である、脚への打突でる!


 時が止まったかのような静寂。

 道場内の誰もが、試合の行方を固唾を呑んで見守っていた。


 審判の旗を持つ両腕が真っ直ぐに持ち上がる。


「……始めっ!」


 合図と共に振り下ろされたその瞬間、二人は同時に床を蹴った。

 二連の、激しく板間を踏み鳴らす音。

 続いて、二本の竹刀が防具を叩く音!


 瞬いた者は、誰一人として居なかった。

 それでも……多くの者はその勝敗を見極められはしなかっただろう。

 ……結末は、審判の眼に委ねられた。

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