4・2 想定外の遭遇

 区立公園のジョギングコース。祝日の早朝。好天とあって、それなりに走っている人がいる。

 その中のひとりになったものの、体が重い。寝不足でのジョギングはよくなかったかもしれない。高校生の頃ならこれくらい問題なかったのに。やはり三十路は若くない。

 走るスピードを落とし、折よく見つけたベンチに向かう。


 座って一息をつく。


 昨日はよく眠れなかった。藤野に高橋。ふたりとも急にどうしてしまったのだ。


 藤野とはレストランを出て、その場で別れた。そそくさと地下鉄の入り口に逃げる私を藤野は笑顔で見送ってくれて、余計にどうすればいいのか分からなくなってしまった。

 自分の食事代を出そうとしたときも藤野は、

「俺を、ふられたからって相手に食事代を出させるような、みじめな男にさせないでくれ」

 と笑顔で言って。

 どうするのが正解だったのか、今も分からない。


 高橋には帰宅してから、『高橋は可愛い後輩です。付き合えません。ごめんなさい』とメッセージを送ったけど、『諦めません』との返事が返ってきてしまった。


 明日から、どうしたらいいのだろう。普通に? 何事もなかったかのように? そう振る舞えばいい?


 急にこんなの、私の手には余り過ぎる。


 まとまらない思考に、ジョギングする人たちをぼんやり見ていると、やけに本格的な男が走ってきた。スピードが他とは断然に違う。太陽光を反射するサングラスをつけフォームはキレイだし、きっとサブ3を狙えるような上級者なのだろう。


 私の目の前をあっという間に駆け抜けて行く。


 ――陸上を本気でやっていたという木崎も、あのくらい速いのだろうか。


 足元の真新しいシューズを見る。私もがんばろう。次回から。今日はダメそう。家でじっとしていると答えが分からない問題に身動きがとれなくなりそうだったから外に出てきたのだけど、失敗だった。



 先ほど通りすぎたはずのサブ3男の足音が、何故か戻ってきた。スピードが落ち、私の前で止まる。

 顔を上げるとサングラス越しに多分、目があった。

「やっぱ、宮本か」

 との声。

「え、その声は木崎?」

「お前、何してんの? 藤野は?」

「藤野……って。え、木崎、知ってるの、昨日……」


 その先はなんとなく言葉に出したくなくて、口をつぐむ。

 微妙な間。


「……フッたのか」

「うん」


 木崎が大きく息を吐いた。ぐしゃぐしゃと髪をかき回す。

 藤野の友人だ。昨日のこともあらかじめ知っていたようだし、残念に思っているのだろう。


「ごめん」

「……俺に謝る必要はねえだろ」


 木崎はそう言って、隣に座った。


「何でこんなとこにいるんだよ」

「ジョギングしてた」

「見れば分かる。家は近いのか?」

「三田」

「この前JRだったじゃん」

「新宿に寄り道した。木崎こそ」

「俺は社の近く」


 ということは。この公園はどちらの自宅からも同じくらいの距離なのかも。とんだ誤算だ。まさか木崎とこんな日に偶然出会うなんて。

 木崎はサングラスを外し、パーカーのポケットに入れた。仕事の時とは違う、セットをしていない髪が額にかかっている。


「……宮本。ちょっと帽子を取れ」

「何で」

「顔色、悪くねえか?」

「そう? 光の加減でしょ」

 寝不足で走って気分が悪くなったなんて木崎が知ったら、鼻で笑われるだろう。口が裂けても言わないのだ。


「スポドリ買ってくる」と木崎が立ち上がる。

「私も」

「座ってろよ」

「自分で選びたいし」

「アホ喪女が」

「何で今、その悪口になるのよ」


 言い合いをしながら自販機に向かう。二の腕に付けていたスマホを外し画面をオンにする。すると――


 華々しい音楽が流れ、乙女ゲーム『トゥエルブスターを撃ち落とせ!』のイケメンだらけのスタート画面が現れた。

 あまりの驚きに思わずスマホを落とす。


 何で? 家を出る前にランニングアプリを立ち上げたはず! ゲームは触っていないはず!

 スマホを急いで拾い上げてオフにする。

 そっと木崎を盗み見る。が、ばっちり目が合った。乙女ゲームだと気づかれただろうか。


「――なんだ、男に興味がないわけじゃねえんだ」木崎はそう言って自販機を見る。「お前、スポドリな。やっぱ顔色が悪い。どうせ藤野のことで悩んで寝てねえんだろ」


 あれ。乙女ゲームのことはスルーなの?

 というか何で私の行動が分かるの?

 寝不足で具合が悪くなったことを嘲らないの?


 予想外の反応に戸惑っている間に、木崎はスマートウォッチで飲み物を買い、ほら、と私に差し出した。

「……ありがと」

 もう一本同じものを買うと、お互いに黙ってベンチに戻った。


「何で悩んでるって分かったの?」

「顔が死んでる」

「どんな顔よ」

「ゾンビ」

「ひどい」


 そう答えてからため息がこぼれた。木崎の反応は意外すぎるし、私は気付かれるほど顔に出てしまっているのか。

 フタを開けてスポドリを飲む。体に染み渡る。

 そういえば止まったエレベーターの中で木崎に『男を紹介してやろうか――藤野を』と言われたのだった。もしかしてあれは真面目な話だったのだろうか。


 思いきって木崎に相談する?

 でも木崎だ。弱みを見せたくない。向こうだって私に頼られたくないだろう。それとも友人のために話を聞いてくれるだろうか。


「何でフッたんだ?」

 掛けられた言葉に木崎を見る。いつの間にかサングラスをかけている。髪型のこともあって木崎に見えない。

「宮本、藤野を気に入っているじゃん」

 向こうから相談の機会をくれたことにほっとする。


「藤野とは友達でいたい」

 木崎はベンチの背もたれから身を起こした。

「お前、藤野にそう言ったのか」

「うん」

「バカじゃねえの。そう言うかもとは思ったけど、本当に言うとはな。中学生かよ」

「何でよ!」

「藤野が宮本を好きになった時点で、あいつにとって友達関係は終わったんだよ。そう思っていたのは宮本だけ。だから『友達でいたい』なんて、自分にとって都合のいい存在でいてくれって言ってるのと一緒」

「そんなこと……」


『ない』と言い切れるだろうか。不安になって視線を落とす。


「俺たち三十だぞ。『好きな女のそばにいられればそれで幸せ』なんてピュアな年頃じゃねえんだよ。なのに友達でいろって? 好きなのに? お前、藤野に苦行をさせたいのか? 違うだろ?」

 畳み掛けられた言葉に言い返せない。きっとそれは正しい。


「そのくらいで藤野は引かねえけど。相手を思いやってない言葉を言った自覚は持てよ」

「……それが一番無難だと思ったの。『付き合えません』って言い切るより、傷つけないかなって。藤野は友達だし」

「バカか。傷つけないフリ方なんてねえんだから、考えるだけムダ。ほんと、恋愛音痴すぎ。中学生か。いや、小学生だな」


 反論できない。できるほど恋愛の経験がないのは確かだから。付き合ったことがあるのは修斗だけ。告白をされるのは昨日が初めて。


「この際だから言っておくが」と木崎が続ける。「宮本、今までもそこそこ酷いからな」

「何が?」と木崎の顔を見る。

「藤野の涙ぐましいアピールを総スルー」

「アピール? いつ?」

「ずっとだよ! 激ニブ喪女が!」


 え? 思い返してみても、そんな心当たりはない。でもそれこそが『総スルー』ということなのだろう。


「……ごめん」

「だから俺に謝っても意味はねえよ」

  木崎はまたため息をつく。

 見ていられなくて再度目を落とす。


「木崎は前から知ってたの、その、藤野のこと」

「まあな」

「昨日の目的も」

「ああ。――結果の連絡をくれることになってたんだが、まだ来てない。相当、落ち込んでんのかも」

「ご……」

『ごめん』と言いそうになり、言葉を飲み込む。

「別れ際は普段通りだった」

「藤野が醜態を晒すと思うか? せっかく宮本に爽やかな良い男だと思われてるのに?」

「……そうか」

「何で藤野がダメなんだよ。宮本の理想に近いだろ」


 理想ね。あれはゲームの中の話だ。リアルな恋愛は――


「めんどくさい」

「は?」

「恋愛はめんどくさい。しんどい。がんばって、時間とられて、ふりまわされて――」あげくに捨てられて。「そんなことより仕事をしてるほうが楽しい」

「……お前、枯れすぎじゃね?」

「悪いか」

「あのクソ元カレのせいか?」


 そうだ、とは絶対に言いたくないし、そもそも認めたくもない。


「違う」

「まだあいつが好きなのか?」

「違うって」

「だって宮本、泣きそうな顔をしてたじゃねえか」


 苛立ちを含んだ声に木崎を見る。

 あの時そんな顔をしてただろうか。確かにツラいとは思ったけど。しかもそれを木崎に見られていたなんて。


「本当に違う。泣きそうな顔をしていたとしたらそれは、あいつがあまりに碌でもない男に成り下がったのが悲しかったら」

「ホントかよ」

「ほんとだよ。昔のことをだもん。というか木崎は私を嫌いでしょ。藤野の彼女になっていいの?」

「よくねえ」

 間髪いれずの気持ちがいいほどの即答。ちょっとほっとする。


「でしょ? 木崎が友達思いなのは分かったけど、私は藤野を勧められても困る。木崎もイヤなら利害は一致してるよね。ということで今後私はどう対応すればいいか、教えてくれると助かる。――藤野は『いったん』引き下がってくれただけなの」

「確認するが」と木崎。「藤野をフッたのは恋愛が面倒だからなだけか?」

「そう」

「他に好きなヤツがいるとか、付き合う予定がある訳じゃないんだな?」

「もちろん――」


 頭の中を高橋がよぎる。彼からのメッセージには藤野に相談するなと書いてあった。ならば他の人ならオッケーという解釈でいいのだろうか。

 この際、木崎に高橋のことも相談してもいいだろうか。でもこちらは利害の一致はない。だけど木崎は腹立つことに交際経験は豊富。


「宮本?」

「あのさ、実はもうひとつ相談したいことがあるんだけど。ちゃんと対価は払う」

「何?」

「昨日、藤野とご飯に行く前に高橋からメッセージが来て、」

「あいつも告ったのか!」

「何で分かったの!?」

「だから宮本が鈍すぎるんだよ!」


 木崎はまたまた盛大なため息をついた。


「宮本にあれだけベタベタしてたら、誰でも察する。第二は宮本以外、みんな気付いているんじゃねえの」

 その言葉にはっとする。

「前から佐原係長が私の彼氏に高橋を推してたんだけど、それって……」

「高橋に協力してるんだな。何でそれでお前は気付かねえんだよ」

「昨日は藤野も勧められた……」

「宮本より状況を把握できてる」


 そんな。だから帰りがけにあんな話をしてきたの? 『平気平気』なんて言ってたのも、問題ない発言だと分かっていたから?


 ――心臓がドクンと脈打つ。

 あの時、『大穴』の話もあった。


 木崎をちらりと見る。


 いや、あれは絶対に関係ない。話の流れで付け足しただけのことだ。だって木崎だ。


「で? 高橋にはどう返事をしたんだよ」

 その質問で我に返る。

「『付き合えない』って。でも『諦めない』って返ってきちゃって」

「宮本、押しまくれば絆されそうだからな」

「そんなことない」

「だといいけどな」

「それで明日からどうすればいいか、困っていて」

「高橋に付き合う気が微塵もないとはっきり伝えろ。引き下がってもムダだって。冷淡なくらいでちょうどいい」

 ふむふむ。

「普段の態度は変えるな。周りの目がある。宮本、そういうのを気にするだろ? だが気を持たせることはしない」

「具体的には?」

「距離感を考えろ。ふたりきりで飯に行かない。奢らせない。奢らない。関係に一線を引け。面倒はみない。頼られたら、さりげなくヤツの上司に投げろ」

「分かった」

「宮本にはできねえだろうけど」

「何でよ!」

「できなかったから高橋が懐に入り込んでるんだろ」


 どうしよう、またも否定できない。挙げられた具体例が不可能なわけではないけど、確実に態度が怪しくなるだろう。周りに何かあったと悟られてしまう。それはイヤだ。


「藤野のほうは、俺には何も言えねえよ」と木崎は顔を背けた。

「そうだね。ごめん」

 私を嫌いでも、藤野のマイナスになることはしたくないのだろう。


 沈黙が訪れる。

 木崎は葛藤があるのかもしれない。友人の恋は応援したいけど、よりによって宮本か、というような。


 手の中のペットボトルのフタを開け、スポドリを飲む。バッティングセンターのときのお茶もそうだけど、木崎は代金を後で払えなんてことは言わなかった。私にお金を使うのはイヤなんじゃなかったのかな。


「相談に乗ってくれた借りは、いずれ返す。もう帰るね」

 そう言って立ち上がると、木崎も腰を上げた。

「送る」

「そんなのいいよ」

「具合が悪くなって座ってたんだろ。帰り道で何かあったらマズイじゃん」

「大丈夫」

「だが」

「木崎に家を特定されたくない」

「――そうか」


 木崎がため息をつく。ひどい言い方だっただろうか。だけど近頃木崎過多だ。


「藤野がね」

 木崎が私を見る。

「木崎のことを『気遣いの鬼』って言ってた」

「俺は配慮が行き届いているんだぞ?」

「そうみたいだね」

 知り合ってかなりの年月が立つのに、最近になって知った。

「心配してくれてありがと」

「――宮本が素直なんて。明日は槍が降るんじゃねえの」

「槍じゃ出社できないよ」

 ハハッと笑う。だけど木崎は無言だ。いつもは打てば響くような返しをするのに。


「宮本――」と木崎。

「なに?」

 また、だんまりだ。サングラスで表情が読めない。

「どうしたの?」

「――いや。帰ったら藤野に連絡をいれてみる。俺が相談に乗ったことは内緒な。きっと面白く思わねえだろうから」

「分かった。じゃあ」

「ん。明日な」


 木崎と別れ、足を進める。

 こんなところで、まさかの遭遇だったけど、おかげで気持ちが落ち着いた。木崎に借りを作るなんて普段じゃ絶対にイヤだけど、今日ばかりは助かった。


 まだ半分残っているスポドリを見る。

『気遣いの鬼』か。友人のためなら嫌いな人間の相談に乗ることもできるなんて、意外にもほどがある。


 だからって修斗のことを訊いてくるのには辟易したけど。

 あの時、まさか泣きそうな顔をしていたとは。しかもそれを木崎に見られるなんて一生の不覚だ。




 ふと、突拍子もないことを思いついた。

 バッティングセンターを誘ってきたのは、もしかして、私が落ち込んでいると思ったから?

 気遣いの鬼は見過ごせなかったの?




 いや、まさか。そんなことはないだろう。考えすぎだ。

 木崎とは八年も犬猿の仲なのだから。そこまで私に気を遣うなんてことは、ないだろう。




 だけど『送る』だって。

 私の心配をしてくれた。あの木崎が。

 エレベーターのときも、やっぱり私の不安を察して喋り続けていたのだろうか。


 なんだか、むず痒すぎる――。

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