4・1 ディナーの想定外
火曜の十九時前。普段なら休日はまだまだ先。だけど今週は違う。明日は祝日。休日出勤の予定もない。
帰り支度を済ませ、まだ残業をしている同僚に
「お先です」
と声をかける。と、背後から
「タイミング、ぴったり」
と声がした。振り返ると同じく帰り支度を済ませた藤野がいた。
「え!」と高橋が離れたところから叫ぶ。「今日の先約って藤野主任ですか」
「そう」
藤野がにこりと爽やかな笑みを浮かべる。
藤野と高橋がケンカをしているという話は結局、どちらもきちんと説明してくれなかった。だけどいがみ合っているのは事実のようだ。
「もしかしてデートですか?」
と若い女性社員が訊く。
「違うよ。藤野が男ひとりじゃ入りにくいお店に食べに行きたいらしくて、その付き添い」
「それ、デートですよね」
彼女の目がキラキラしている。
「違うって。そんな誤解が社内に広がったら、藤野が可哀想だよ」
高橋が何故か机に突っ伏す。
「高橋?」
「すみません、さしこみが」
「サシコミ?」
「何でもないです。気をつけて。お疲れ様でした」
「行こう、宮本」と藤野。
「うん、じゃあ、よく分からないけど。お疲れ様」
挨拶を交わしエレベーターホールに向かおうとして、なんとなく見られている気がした。第一の方向から。そちらに顔を向けると、こちらを真顔で見ている木崎と目が合った。だけどすぐに視線は逸らされた。
藤野と高橋がケンカをしていると、心配していたのだろう。
「そういえばさ」と藤野が歩きながら言う。「年パスはどうしたんだ?」
「結局、私が使うことになった」
木崎と私がエレベーターに閉じ込められた翌日のこと。水族館の例の部長が、わざわざ謝罪にやって来た。在廊当番だった女子学生を通じて、その件を知ったらしい。
部長は余計なことを勧めて申し訳なかったと、菓子折りとふたつの年間パスポートをくれた。
年パスはギフトセットで、窓口で名前や顔写真の申請手続きをしたら使えるようになるという。ありがたいけど、私よりもお子さんのいる佐原係長のほうが使いそうだと思い、譲るつもりだった。だけど。やはり本人が使うべきだということになったのだ。
「絶賛お一人様の私がもらっても、宝の持ち腐れってやつだと思うんだよね」
エレベーターを待ちながら、藤野にこぼす。
「水族館には興味ない?」
「好きだよ。でもわざわざ、ひとりでは行かない。友達はみんな夫なり彼氏なりがいて、遊んでくれないしね」
「なら、俺と行こうよ。ペンギンを見たい」
「ペンギンね。すごかったよ。泳ぐのが速いの。速いっていうか弾丸だね。細かい泡の航跡ができて、めちゃくちゃカッコいいの」
「いいね、見たい」
「羽の下に空気がたまってて、それが水圧で泡になって出てるって木崎が言ってた」
「……へえ。満喫したんだ」
「あ。ムカつくこと、思い出した。その時に『こんなことも知らないのか』って鼻で笑われたんだった」
ぷっと背後から聞こえた。佐原係長だった。
「あれ、保育園は大丈夫なんですか?」と藤野が訊く。
「うん。今日は相方の当番だから」
「佐原係長のお宅って育児とか、いい感じに分担してますよね」
私がそう言うと、佐原係長は
「宮本も絶対にそういう男を見つけるんだよ」と肩に手を乗せてきた。「宮本は手のかかるダメ男に捕まりそうで、私は心配だよ」
「またその話。大丈夫ですって」
彼女は藤野を見た。
「彼氏ができたら私が見極めてあげる約束なの」
「いいですね」と藤野。「確かに宮本に任せるのは、ちょっと」
「藤野までそんなことを言うの!」
「私の素晴らしい鑑定眼によると」と佐原係長。「藤野は多分、合格」
「多分なんですか」苦笑する藤野。
「君のこと、そこまで詳しくないからね」
エレベーターが来たので三人で乗り込む。
「でも、まあ、いいんじゃないかな、宮本」
「何がですか?」
「藤野。彼氏にね。私のイチオシは高橋だけど」
「ふたりに失礼ですよ」
藤野にごめんと謝る。
「平気平気」とまるで気にしていない佐原係長。「ちなみに木崎も多分、合格。大穴は彼」
「やめてください! 冗談でも鳥肌が立つ!」
「そう? コンビ、いい感じじゃない」
「仕事なら努力はしますよ」
「木崎も仕事とプライベートは分けるタイプですからね」と藤野が言う。
「そっか。一緒にペンギン見て、楽しそだけど」
「ディスられたんですよ」
「でもさ、木崎って宮本と言い合いをしてるとき、すごく楽しそうなんだよね。藤野もそう思わない?」
「まあ」と藤野。
「人を貶して楽しむって、性格が悪いにもほどがありますよね」
「うん、まあ」と藤野。「でもあいつ、なんでペンギンに詳しいんだ? 宮本を見下したって言っても、ペンギンの泡なんて常識じゃないよな」
「そう、それ!」
そこなのだ、木崎に腹が立つところは。
「結局、モテ自慢だったの。デートでよく来るから、飼育員さんの解説を覚えたって!」
「……へえ」と藤野。
「毎回、相手が違いそう」と佐原先輩。「やっぱり木崎は不合格にしよう」
「当然です」
地階について、エレベーターを降りる。
「藤野と宮本、今日はイタリアンに行くんでしょ?」
「フレンチですよ」と藤野が答えた。
佐原係長が私を見る。イタリアンだと思って、彼女にもそう話していた。ま、どっちも同じようなものだし。
「いいね。楽しんできて。じゃ、お疲れ」
彼女はそう言って、駅に向かって去って行った。
「お店、どこだっけ?」と藤野に尋ねる。
「和光の近く」
「それなら歩いて行けるね」
と、鞄の中でスマホが振動した。社用スマホだ。
「……緊急じゃなきゃいいけど」
取り出したそれには、高橋からのメッセージがあるとの通知が出ていた。
藤野はこれから行くお店を予約してくれている。ドタキャンはしたくない。恐る恐るアプリを開く。
画面に表示された文字列を読み――
「宮本? どうした? トラブルか?」
藤野の声に我に返る。
「戻るか?」
「あ……えと。……大丈夫。ちょっとだけ待って」
藤野から離れ 歩道の端による。
心臓がバクバクしていて苦しい。
そろりと、もう一度スマホの画面を見る。
『宮本先輩が好きです。付き合って下さい。』
『こんなメッセージじゃなく、面と向かって伝えたかったんですけど。あなたが他の男とふたりきりで食事に行くのかと思うと不安で。』
『急なことできっと驚いているでしょうが、俺は何年も前からあなたを好きです。』
『良い返事を待ってます。』
何度読んでも告白に読める。メッセージの発信者も間違いなく高橋。
スマホが振動と共に新しいメッセージを表示する。
『このことを藤野主任に相談しないで下さい。』
何で、とか、どうして、という言葉しか浮かばない。高橋は可愛い後輩。
「宮本、大丈夫か?」
藤野の声。目を上げると藤野が離れたところから、こちらを心配そうに伺っている。
「……大丈夫。ちょっと返事に迷う案件で……。うん、後にしよう」
「待つよ?」
「返答に時間がかかると返せば問題ないから」
何か一言を返して、と。
――どうしよう。その一言が分からない。
そうか、正直でいいか。『ごめん。混乱している。』そう送信してスマホをバッグにしまった。
◇◇
藤野に連れられて行ったフレンチレストランは本格的なお店でカップルばかりだった。男性ひとりでは確かに入りにくいだろう。
どうして藤野がここに来たかったのかは教えてくれなかったけど、料理もワインも最高に美味しかった。高橋のことが頭から離れなくて堪能しきれなかったけれど……。
コース最後のメニュー、コーヒーと小さなマドレーヌがサーブされた。
菓子を口に入れるとバターの濃厚な味が広がる。これも美味しい。
「宮本」
「ん?」
藤野はコーヒーにもマドレーヌにも手をつけていない。やけに真剣な眼差しだ――。
「好きだ。付き合ってほしい」
――藤野、高橋のメッセージを読み上げている?
いや、まさか。
「宮本、聞こえてるか?」
「あ、うん」
藤野から目を離し、ナプキンで手を拭う。心臓がバクバクして痛い。これ、今日二度目だよね。おかしくないかな。一日に何度も起きるだなんて。
ドッキリ?
いや、誰が私に仕掛けるというのだ。
「宮本。どうかな?」
藤野の声がする。
『どう?』とは。
藤野を見ると、やはり真剣な顔をしている。私の答えを待っているのだ。
「……藤野は友達だと思っている」
「ああ。そう返事されると思っていた」
藤野は柔らかい笑みを浮かべた。
「ゆっくり進もう。気持ちは後からで構わないから、まずは付き合わないか。明日、一緒に水族館に行こう」
ゆっくり?
後から?
藤野の言葉を噛みしめる。だけど全然、心に入っていかない。
「ごめん。友達関係を壊したくない」
「そうか。仕方ない。いったん引くよ」
藤野は私から目をそらし、カップを手にした。
彼の視線から逃れられたことにほっと息をつき、だけど心の中では、どうしようと繰り返し叫ぶことしかできなかった。
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