俺達は同居中です。
「だいたい思春期の子供の部屋にノックもせずに入るってどういうことだよ……」
「……? 何が駄目なんだ?」
「はー…… 駄目だこいつ……」
今何故か呆れ返った様子でため息をついている男の名前は早川緑という。
早川は俺の数少ない同期のうちの一人だ。
見た目がチャラチャラしていて髪の毛を金色に染めているため、一見軽薄そうな男に見えるが、その中身は面倒見のいいお兄さんである。人は見た目だけでは決めつけてはいけない。
そのためなのだろう、早川は後輩からの信頼が厚く、よく相談を受けている。かくいう俺も、困ったときには早川の力を借りている。
「大体、何で積極的になってんだよ。昨日に少しずついこうっていう話、したばっかりだよな?」
早川の鋭い視線がグサッと心に刺さる。今朝、使わずに残っていたホットケーキミックスを見たことで、何故か今日はいけるっ!と思い、暴走してしまったが、確かにそんな話をしていた。
何となくだが、この後、どんな言い訳をしようと早川の逆鱗にしか触れない気がする。しかし俺の卑劣な心が叱られたくないと叫び出した。
俺は自分の矮小な心に従い、頭の中で精一杯言い訳を組み立てる。
「……理由があるんだよ」
「一応聞いてやる」
「……今、彩紀は春休みなんだよ」
「……おう」
「春休みってことはいつもより機嫌がいいだろう?」
「確かにそうだな」
「……だからいけると思ったんだ」
「……この馬鹿野郎っ! せめてもう少しましな言い訳を考えろ!」
案の定、俺のロジックもくそもない言い訳は早川の逆鱗に触れた。そもそも早川は言い訳が大嫌いなのだ。それを知っていて言い訳をした俺は阿呆なのかもしれない。
「……ああもうっ! 考えてたプランが台無しだっ!」
「すまない……」
先ほどは冷たいなんて思ってしまったが、早川は本当に良い奴だ。こんな俺のために一生懸命作成を練ってくれていたのだという。
……本当に、俺には勿体ないくらいの奴だ。
「いいか! よく覚えとけ!」
迫力のある声に思わずビクッとなる。周りの同僚も同じだったようで、驚いたように早川の顔を見つめる。
「絶対に感情的に行動しないこと! 何か行動を起こすときには必ず連絡すること! いいなっ!」
早川は俺に一言一句刻み込むように大声を出した。
「はい、すみません……」
俺の口は迫力に圧倒されて、思わず敬語で謝罪の言葉を声にしていた。
大きな声を出してすっきりしたからなのか、謝罪の言葉を聞いたからなのか、早川は落ち着きを取り戻した。早川の顔を見つめていた同僚達も落ち着いた早川を見て、それぞれの作業に戻っていく。
「……本当に気を付けてくれよ? これ以上彩紀ちゃんに嫌われたくないだろ?」
「ああ、気を付けるよ。 本当にすまなかった」
「ったく、頼むぞ!」
どうやら許されたようだ。ホッと胸を撫で下ろす。
「取り敢えず、明日には新しい作戦を考えてくるから要らないことはするなよ? いいな?」
「ああ、了解した」
本当に分かったのかよ、と言いながら早川はパソコンに視線を戻す。
こうして作戦会議、もとい反省会は終わりを迎えた。
本当に早川には世話になってばかりだ。今度ワインでも買って、早川に渡そう。あいつはワイン好きだからきっと喜ぶだろう。
仕事を定時で終わらせた俺は家に帰ってきていた。
家の扉を開けたときに、ただいまと言ったが、当然、返事はなかった。
分かっていたものの、返事が無いというのは悲しいものである。
仕事の疲れからか、俺は吸い込まれるように、リビングのソファーに座り込む。
何気なく横の方を向く。当たり前だが誰もいない。
『ねえ、私はどうすれば良かったのかな───』
「っ!」
記憶がフラッシュバックする。……俺は思っている以上に疲れているらしい。今日は早く横になろう。睡眠を多くとれば、疲労も回復するだろう。
ネガティブ思考になっていた自分を奮い立たせるために頬を叩く。頬の痛みが俺のことを鬱屈な気分から現実へと引き戻す。
「早く晩御飯作らないとな」
彩紀のためにも晩御飯を用意しなければならない。俺は重い腰を持ち上げ、料理をするためにキッチンへと移動した。
今日の献立を決めようと冷蔵庫を開き、食材の在庫を確認する。卵、ネギ、鶏肉、ほうれん草、バター…… 思ったよりも食材が多いな。選択肢が多くて逆に献立に困ってしまう。
そんなとき、トントンと階段を下りる音が聞こえてくる。彩紀が降りてきたのだろう。
しばらくしてリビングの扉が開いた。彩希だ。
長くしなやかな黒髪には、ところどころ寝癖が付いている。今は春休みだから家でゆっくりしていたのだろう。
それにしても彩紀は本当に可愛い。まるで天使のようだ。
もう一度ただいまと言っておく。
「ただいま」
「ん」
相変わらず、冷たい返事だ。何だか心にくるものがある。
彩紀はソファーに身を預け、テレビの電源を付ける。
俺は壁に掛けてある時計を一瞥する。7時、なるほど。
多分、彩紀は、今大人気のアイドルが主役のバラエティ番組を見るつもりなのだろう。俺はアイドルに疎いので、一人を除いて、名前は分からないが、何度もテレビや携帯のニュースアプリでその姿を見たことがある。
いかんいかん、こんなことを考えている暇は無いのだ。必死に頭をひねって献立を考える。しかし、いくら考えても献立が決まらない。
晩御飯の内容を決めるのに悪戦苦闘していると、リビングの方から澄んだ声が聞こえてきた。
「今日の晩御飯って何なの?」
彩紀から会話が振られるなんて久しぶりだ。少しびっくりした。冷静を装いながら返事をする。
「い、いやまだ何も決まってないんだ」
「ふーん」
ここまで答えてハッと気付く。そうだ、彩紀に今夜のご飯は何がいいか聞けばいい。そうすれば献立は決まって、さらには彩紀と話をするきっかけになる。まさに一石二鳥である。
「ちなみに彩紀は何か食べたいものとかあるか?」
「別に」
返ってきた言葉は圧倒的拒絶であった。話しかけるなと言われている気すらしてくる。
俺は肩を落とす。少し前まではこんなことなかったのになあ。まるであの頃まで時間が巻き戻ってしまったようだ。
冷蔵庫の中身を見ながら、過去のことを思い返す。あの時は本当に大変だった。何を話しても彩紀は返事すらしてくれなくてコミュニケーションすら困難だった。
俺も全然料理が上手くなくて、作れる料理も少なかったものだから同じものばかり作っていた。始めは目玉焼きくらいしか出来なくて、しかもところどころ焦げてるものだから彩紀は椅子にすら座ってくれなかった。
あの頃の自分はまさか作る料理は何にしようかと困るほど上手くなっているとは思ってもいないだろう。
苦い記憶ばかりのはずなのに不思議と悪い気分ではない。
昔を懐かしんでいると、再びリビングから声が聞こえてきた。
「……玉子丼、玉子丼がいい」
「え? 玉子丼?」
俺は思わずテレビの方に振り返る。彩紀は変わらずテレビを見ていた。
玉子丼、それは昔、よく作った料理だ。目玉焼きさえまともに作れなかった俺が四苦八苦して、ようやく彩紀が口にしてくれた印象深い料理でもある。それでも本人は不味いと言っていたが。
ただ、よくつくっていたのは親子丼が作れるようになるまでで、親子丼を作れるようになってからはめっきり作らなくなってしまったのだ。
彩紀はあれほど玉子丼のことを不味いと言っていたというのにどういう風の吹きまわしだろうか。
「何? 悪い?」
彩紀がこちらに振り返り、俺のことをジロリと睨む。どうやら本当に玉子丼をご所望もようだ。
「……分かった、今日の晩御飯は玉子丼にしようか」
俺がそう言うと、彩紀は俺の返事に満足したのか、こちらに背を向け、テレビ鑑賞に戻った。
俺は冷蔵庫から卵とカットネギ、めんつゆを取り出し、それらを台所に置いた。
玉子丼を作るのは本当に簡単だ。なぜ以前まではできなかったのかと不思議に思うくらいには容易にできる。
フライパンにめんつゆを入れ水で薄めた後、火をかけながら砂糖や塩で味を整える。温まってきたら、溶き卵とネギを入れて、卵が半熟になるまで混ぜる。そして出来上がったものを炊いておいたご飯の上に乗せるだけ。誰でもできる。
簡単なメニューに罪悪感を感じながら、出来上がった玉子丼を食卓へと運ぶ。本当にこんなものでいいのだろうか?
「彩紀ー! ご飯できたぞー」
「んー」
出来上がったことを彩紀に伝えると、テレビを消してこちらにやって来た。
「あ、しまった!」
椅子に座ろうとしたとき、自分のミスに気がつく。副菜を作ることを忘れていたのだ。さすがに玉子丼だけ、というのは良くない。
「彩紀、先に食べといてくれ!」
「待って」
急いで副菜を作ろうと席を立とうとしたところを彩紀が呼び止める。
俺はなぜ呼び止められたのか不思議に思いながら彩紀の方を向く。
「別に玉子丼だけでいいよ」
どうやら彩紀は気をつかってくれているようだ。しかしそれでも彩紀に栄養バランスの偏った食事をさせるわけにはいかないのだ。
「さすがに玉子丼だけっていうのは味気ないだろう。俺のことは気にせず先に食べ始めてくれ」
「……別に気をつかってるわけじゃないし」
「そっ、そうか……」
彩紀曰く、気を使ってくれている訳でもないらしい。今日は心へのダメージが多い。心がヒリヒリと痛む。
「いいから座って! お腹空いた!」
俺は彩紀に言われるがまま、椅子に座る。目の前には水の入ったコップと玉子丼だけ。……本当にいいのだろうか。
「ほら! 早く!」
「あ、ああ……」
俺と彩紀は椅子に座り、手を合わせる。
「「いただきます」」
「「ごちそうさまでした」」
玉子丼はあっという間に胃のなかへと消えていった。やはりこれだけでは物足りないのではないだろうか。
「……なあ、本当に良かったのか? こんな簡単な料理だけで」
彩紀はムッとした顔になる。少ししつこすぎたかもしれない。
「さっきからいいって言ってるでしょ! しつこい!」
「す、すまん」
彩紀は眉をひそめながら、俺と自分の食器を重ねて、シンクへと運んでいく。言葉には出さないが、おそらく食器を洗ってくれるのだろう。
彩紀は何だかんだ言いつつも家事の手伝いをしてくれている。反抗期に入ってもこれだけは変わらない。本当に優しい子だ。食器を運ぶ様子を見て、思わず頬が緩んでしまう。
「……何? ニヤニヤ笑って。キモいんだけど」
彩紀に冷たい視線と共に鋭い言葉が飛んでくる。俺は慌てて視線を反らす。彩紀が終わるまで大人しくしていよう。
食器と水の音がリビングに響き渡る。
俺はその音を聞きながら、今日の分の日記を書いていた。
この日記を書くという習慣は25年近く続いている自分のルーティンだった。ここまで続いていると、日記を書かないと1日が終われないという気分さえしてくる。
俺は黙々と紙の上に文字を綴っていく。別に特別なことはしていない。今日起こったことを文章に書き写す。今日であればホットケーキのことや、玉子丼のことを書く、ただそれだけの話だ。
それにしても今日は食べ物の話題ばかりだ。日記を書いていると今日起こったことが明確になる。思わず口角が上がってしまった。
不意に水と食器の音が止まる。食器洗いが終わったのだろうか。
「ねえ」
「……何だい?」
まさか、ニヤニヤしているところを彩紀に見られたのだろうか。俺は誤魔化すように必死に表情を元に戻し、日記を書いている風を装いながら、できるだけ冷静に返事をする。
「少し聞きたいことがあるの」
どうやらニヤニヤしているのを見られていた訳では無いらしい。内心ホッとした。
2人だけの空間に沈黙が流れる。シンクの方をチラリと見る。彩紀は食器洗いの手を止めて、口を一の文字にしていた。もしかすると言いづらいことなのかもしれない。
俺は日記に視線を戻し、無言で日記を書きながら、彩紀が口を開くのを待った。
2、3分、あるいはもっとかもしれない。それくらいの時間がたったくらいに彩紀が意を決したように声を出した。
「私を引き取ったこと後悔してる?」
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