臆病者の話
あのころ。どんな未来を想像していただろう。
昔の頃の記憶は色あせて、記憶は塗り替えられ、細胞は日々作り替えられ、進化退化する。
昔の自分は、もはや見る影もなくなっていく。
幼い頃、どんな夢があっただろう。
その夢は、叶えることが出来ていただろうか。
数年後、そこに俺等は存在するだろうか。ほんの欠片でも。
「将来の夢?」
「そう。パパはどうして今の職業を選んだのかなと思って」
「何でそんなの聞くんだ」
「将来の参考に」
ホットコーヒーを飲んでいる最中に、突然の質問。娘が俺に見せつけるように、顔を目がけて突き出してきたのは高校の進学希望用紙。ああ、そうか。もうそんな歳になったのか。
彼女が見せてきた紙を受け取って、まじまじと紙を眺める。
「だから、何かアドバイスないかなあ?」なんて、少しだけ目を輝かせながら問うてくる。アドバイス、と言っているが、所詮俺のネタを探したいのだろう。父親に問う時は、大体弱味を握ろうとして来る時だ。娘を育てて十数年。俺はようやく察することが出来てきた。
「別に、なろうと思ってなったわけじゃない」
「そうなの?」
「そりゃそうだ。年功や立場で多少値が上がるとは言え、給料がしょっぱい職業を目標にしていたわけじゃない」
「でも、なっているじゃない?」
「俺は単純に、ばあちゃん達……まあ俺の母さんと父さんの薦めだよ。当時の俺の頭では、その道しか選べなかった」
他者から見れば、多少は器用だと言われていた子供時代だった。確かに、暗記とかは得意だったし、運動もまあまあ得意だった。人付き合いも程々に出来ていたし、小学生時代からの友人だってずっと縁を切らずに、かつ新しい友人を作りながら、学生時代は過ごした。
だから、高校になって勉強が面倒くさくなった。わざわざ勉強する必要なんてあるのだろうか。そう思った俺は、受験勉強なんてしないでも楽勝に入れる高校に入学した。
高校を卒業したら就職をする生徒が多い、そんな高校出身である俺に、親は言ったのだ。「進学しなさい」と。馬鹿か、と逆らった覚えもある。勉強が好きだったら、俺は母校に通っていない。もっと上の高校に進み、勉学に励んでいたはずだ。なのに選ばなかった。何故か、勉強が嫌いだからである。
因みに、馬鹿か、と言った瞬間に母親にジャイアントスイングを食らったのは苺音には秘密だ。父親の威厳というものが消えてしまう。
「だから高校から推薦で入学して、そこからだよ。生まれて初めて必死に勉強したの。正直に言うとばあちゃんたちを恨んだね。こんなところに送り込みやがってって」
「じゃあ、自分で道を選んだわけじゃないんだ」
「まあ、それで今もこうしてやり続けているから、様様なんだけどな。進路とか、ちゃんと参考にするなら兄さ……」
そこまで言って、再度飲もうとしたホットコーヒーを運ぶ手が止まった。
小さく唇が揺れた。揺れた唇から微かに吐息が零れて、コーヒーに波紋を作る。
そう言えば、あの人はコーヒーが飲めない質だったな。飲むとお腹を壊すから、外では絶対に飲まないと、寒いと絶対にココアか温かいほうじ茶だった。良く笑っていたけれど、あの人は身体も丈夫ではなかった。俺より、うんと無茶が出来ない質だった。弱かった。弱い人だった。
「パパ?」
名を呼ばれて、ハッと意識を戻した。
目の前ではもうコーヒーは凪いていて、俺の揺れて脆い姿が映し出されていた。
ああ、まただ。俺は、またこうしてあの人を思い出して、思考を放棄する。
「悪い。進路に関しては、俺よりも兄さんの方が参考になる」
人は死んだら、人の記憶の中でしか生きていられなくなる。その人の事を忘れたら、それこそ本当に死んでしまったことになる。そんなのはあんまりだ。そう思っている自分が心の隅にでも居るのか、時折こうしてひょっこりと顔を出す。
「おじさん? やっぱり頭良かったんだ」
「頭が良くなるように、努力をした人だよ」
俺とは別の高校に進学して、日々勉強に明け暮れていた人だ。
高校入学の前から大学進学を考えて、すぐ下に俺が居るからと、高校も大学もどちらも公立を選ぶほどのお人好し。親孝行者。
「あ、そうだ。お前の部屋に、成績表残っているかもしれない」
「え!? 本当に!?」
元々は兄さんの部屋だった場所は、気が付けば苺音の部屋に変わっていた。
兄さんが居なくなってから暫くして、家の中は大きく変貌した。まず、俺にとってのじいちゃんばあちゃんの部屋は、今では母さん父さんの部屋に。父さんと母さんたちの部屋だった場所は、俺と苺音の部屋にまず変わった。
その後、そろそろ親子共同も何だろうと苺音の部屋を用意するときに聞いたのだ。
パパとおじさんの部屋。どっち使う?
彼女の返事は即答だった。「おじさん」迷うことなく、真っ直ぐな目で言ってくるものだから、目頭が熱くなったのを覚えている。俺を毛嫌いしての事じゃないくらい分かっていた。彼女の初恋の相手が兄さんだったから、最初から分かってはいた。だが、即答されるとどうも悲しくなってしまう。これが親心というやつだ。
だから、今では兄さんの部屋は苺音の住処だ。まあ、元々家を出ていたから、丁度良かったというのもあるが。それに、互いに本が好き同士だ。兄の残した沢山の本を、娘は日々読み漁っている。
「ああ。ばあちゃんは結構物をとっとく性格だから。兄さんの成績表とかもあるんじゃないか?」
「じゃあパパのも?」
「パパのは見せませんー」
「今度見るから良い」
「おい、本当に見るなよ?」
座布団の上から立ち上がって、苺音を連れて彼女の部屋へ向かう。
入って良いのかと問えば、丁度掃除してもらったばかりだから大丈夫、と自信満々の顔で頷かれた。母さんが掃除したんだな。自分で掃除をするように、そろそろ母さんからも言って貰おうか。
娘の言葉に甘えて、彼女の部屋に突撃する。
扉を開けば、苺音が普段使っている日用品が混ざった、少しだけ甘いにおいが広がった。兄さんの部屋とは、全く違っていた。あの人の部屋のにおいは、何故だか記憶に残っている。ああ、そうだ。自分で調べたんじゃないか。においは人間の記憶に残りやすいのだと。
あの人の部屋は、本のにおいがした。それと、よく窓を開けていたから、外のにおいもしていた。
部屋に入ると、兄さんは大体俺に背を向けて本を読んでいるか勉強していた。俺が入ったと分かると、回転椅子で回りながら振り向いて、どうした? と笑みを浮かべながら問うてくる。
男兄弟らしくない、とよく色々な人から言われていた。友人にも男兄弟の奴はいたが、そいつは日々、ゲームや些細な事ですぐ喧嘩ばかりしていて、よく叱られると言っていた。
だけど、俺達は、あまり喧嘩をしなかった。理由はハッキリとわかる。兄さんが、いつも諦めていたからだ。そりゃあ、互いに幼い頃は、おもちゃの取り合いやくだらないことで喧嘩はしたけれど、いつからだったか、兄さんは俺が意見を述べても、あまり反論しないようになったんだっけ。
「あ! クローゼット勝手に開けた!」
「ここしかないと思ったんだよ。悪かったって」
部屋にある壁に埋め込み式のクローゼット。そこを勝手に開ければ、娘にぽこぽこと叩かれた。確かにこれは俺が悪かった。女子のクローゼットは勝手に開けるべきではない。分かっている。
苺音は頬を膨らませて怒ってはいるが、中は大して散らかってはいない。
三段層になっているクローゼットの一番下と二段目は洋服など、そう言った日用品などの類が収納されている。
そして一番上の段には、苺音の使っていたランドセルや幼稚園の鞄や帽子、彼女が書いた絵などが収納されている。
ここに、兄さんの思い出も収納されている可能性が高い。
二段目に足を乗せて、三段目を見渡す。すると、案の定、一つの段ボールを見つけた。
『知唐のもの』と書かれた段ボールだ。少し奥に行ってしまっているので、ズリズリと音を立てながら引き寄せて、片手で抱えて、そのままゆっくりと二段目に一旦置いておく。今更ながら、脚立でも持ってくればよかった。
そのまま俺が飛び降りてから、段ボールを床の上に置くことに成功した。
「あったな」
「何が入っているんだろう」
テープで蓋は閉じられていない。そのまま両開きの段ボールを開けば、案の定、兄さんの学生時代にまつわるものなどが色々と入っていた。
幼稚園の行事写真がたくさん入っている封筒と、同じような封筒の小学生バージョンの写真。それと小中高の卒業アルバム。それと卒業賞証。
そして今回の目的である、成績表だ。
「わー! おじさんの成績表!」
少しだけ顔を輝かせて成績表を手に取る。本当に、我が娘が兄に恋しているのが些か居た堪れない。まあ、幼い頃の憧れのような物だから、良いんだけどさ。偶に居るだろ、お母さんが初恋の男子とか。居ると信じている。
苺音はわくわくしながら、まずは中学2年生の成績表を見る事にしたようだ。
「すごい! 4と5ばかり!」
「え、うそ。3とか無かった?」
「え? 無いけど」
嘘だろ。そう思って慌ててのぞき込んでみれば、言う通りに3という数字は一つも無かった。生まれて初めて知った。
兄さんが中学2年ということは、当時の俺は中学1年。確か、丁度小さな反抗期のような時期だった。だから、兄さんの成績と比べられて腹が立ったから「そんなこと言って、本当は3とか2とかあるんだろう」とか思い込んでいた。結果的に、そんなことは、全く無かった。
「テストの成績も良いし、授業態度も良いんだね。あ、積極性は引かれちゃってる所もある」
「そういう人だからな」
優等生、というものを擬人化したような人だったから。
毎日予習復習をして、宿題は欠かしたことが無いし、テスト勉強もまじめに取り組んでいた。けれど、それは、兄が所詮『不器用』と呼ばれる人だったからだ。
兄は兎に角努力をする人だった。努力をしないと、身につかないからと本人は言っていた。そして、自信もあまり持てない人だった。結果が出て、正解が分かって、漸く安心できる人だった。だから、いつも積極性を引かれていた。所詮『器用』と呼ばれる俺は、兄の言っていることが分からない時があったけれど。
成績表の他にも、色々なものが出てきた。卒業文集や、想像していた通りの母子手帳。
卒業文集をパラパラと捲れば、小学生時代の物のはずなのに、歳のわりには大人びた字体で、小学時代を振り返ってや将来の夢などが書かれている。
同じく中学時代の卒業文集。そして半分が暮らす写真、半分が寄せ書き状態になっている高校の文集も出てきた。
「おじさんどれ?」
「これだな」
「イケメンじゃない?」
「そっか、やっぱりお前の顔はこれが好みなんだなあ……」
父さんとしては、少し微妙な気持ちではある。兄に負けるか、そうか。
クラス写真の、後ろの方で数人の男子と一緒に並んで笑顔でピースをしている。少しだけ口角を上げて、薄く笑みを浮かべる、馴染みのある笑みの浮かび方だった。
「図書館司書になる。って書いてある」
「そうそう。あの人は司書を目指していたんだよね」
「本好きだもんね」
「うん、小さい頃から本が好きで。それこそ苺音と同じだよ。ずっと本を読んでいた」
「……おじさんは、クラスでは上手くいってたの?」
「……どうだったかな」
今は遠い記憶。小学生時代の兄はどうだっただろうか。
『兄ちゃん』
『……しょうがないな』
俺は中々兄離れが出来なくて、いつだって兄さんに向けて手を差し伸ばしていた。彼は、その手を受け入れて握りしめる。俺より少しだけ大きい手は、やっぱり俺と同じ様にどこかふくらとしていて、ぎゅうと力を込めれば、相手は嬉しそうな笑みを浮かべた。
そもそも、年子、というのがいけなかったのだ。よくある双子での互いへの依存。それ程ではないにしろ、年子となれば大体いつだって一緒の場所に居る。幼稚園も、学校も。小さい頃から常に一緒に居て、何かある度に兄の後ろについていって、遊ぶときも何をする時も一緒だった。母さんにも、兄ちゃんだから面倒を見てねとも言われていたのもあったのか、忠実で良い子な兄はその約束を守り、学年や年齢で区別される時以外は、大体常に一緒に居た。
だけど、俺はそんな兄の事を全然知らなかった。だって、俺の前ではいつも兄は笑顔だったのだ。学校ですれ違っても、笑顔で俺の名を呼び、小さい頃は俺の頭を撫でていた。忘れ物をしても、兄が快く貸してくれた。
俺が友達の事を話していても、兄は文句の一つも言わずに、話を聞いていた。俺は、兄の話など全然聞かなかったというのに。
俺は、兄さんの事を何も知らなかった。
兄の影響で、兄の同級生の先輩とも接する機会が増えて、年上の友人も増えた。
それは決して不満ではない。不備も無い。同級生の友人の他にも、他学年の友人が居る、交友範囲が広いのは良いことであると思うし、心強かった。俺には頼れる先輩がいるんだぞ、と胸を張れるような気分がしていた。
そんな俺を、兄さんはどう見ていたかは知らない。
「兄さんのクラスに遊びに行った時は、基本的に本を読んでいたか、誰かと話をしていたか。そんな感じだったな」
「じゃあ、おじさんは大丈夫だったんだ」
「分かんない。俺、小さい頃の兄さんの事何も知らなかったよ」
小さく自虐的な笑みを浮かべれば、苺音がじっと俺の方を見ているのが分かった。
「苺音は兄さんを思い浮かべる時、どんな顔を思い浮かべる?」
「うーん、笑顔?」
「そうなんだよ。あの人、いつも笑顔で誤魔化してたんだ。だから、あの人の本心は、いつもよく分からなかった」
ぬらりくらりと、己の核心に迫るような事を避けるように。
笑顔で居続けるという手段を、幼いころから会得していた。
「でも、兄さんは夢があった。その為に努力した。偉い人だよ」
俺の努力なんて、全く比じゃない。今までの大変だ~! という悲鳴が阿保らしい。
自分、器用なんで。とか思って、ちょっと心の中でドヤっていた過去の自分が恨めしい。過去の自分の首絞めたい。締め上げたい。どこがだよ! ってそのまま池に向かって放り投げたい。大きな素晴らしい水柱が上がることだろう。
兄さんは司書になる、という目標を学生時代から持って努力をした。それでも、兄さんは途中で夢を諦めた。そして、地方公務員という道に進んだのである。
田舎で言えば、普通にエリートコースだ。それを、彼は察してしまったわけだ。
「本当に、不器用で馬鹿な人だよなあ」
それぞれの強い意志がある。強い感性がある。強い主張がある。曲げられない物がある。それらを全て完璧に理解すること、それら全てを受け入れることは、到底じゃないが無理だ。だって俺達はただの人間なんだから。一般人なんだから。神様じゃない。神様でも、一人一人受け入れて受け止めてくれていないだろう。神ですら無理なんだから、俺達みたいな一般人には難易度が高い。
それなのに、兄は頑張ろうとしたのだ。無理だと、匙を投げてしまえば良かったのに。逃げればよかったのに。逃げられない、臆病な人だった。
そりゃあ、頑張っていたさ。俺には奥底理解できないような文学書を、たくさん積んで読んでいた。国語が分からない、と教えを請えば、彼は分かりやすく説明してくれた。先生としての才も、実はあったんじゃないだろうか。
だが、彼は自らの夢を諦めて、周りの期待という道を選んだ。
「司書は狭き門だから」なんて笑って誤魔化していたけれど、知っていたよ。ちゃんと資格も取っていたじゃないか。何度も図書館に通っていたの、実は知っていたんだ。
家族の安心する道を選んでも実は後悔が残っていた時も、職場でとんでもないモンスターが現れた時も、俺と元奥さんが一緒に婚姻届けを出しに行って担当してくれた時も、苺音が生まれてすごく感動して泣いていた時も、その時の手続きを教えてくれた時も、離婚の手続きや必要な項目を教えてくれた時も、俺が実家に戻る時に戸籍を担当してくれた時も、兄さんは優しい笑顔で対処してくれた。
役所で兄さんと遭遇すれば、必ず笑顔で接していた。一度、泣きじゃくっている人を宥めている姿を見たこともあった。あの人はいつだってそうだった。泣いている人や、悲しんでいる人の気持ちを救いあげて、助けてあげるのが上手い人なんだ。
どんな言葉なら受け入れてくれるの。どんな言葉なら聞いてくれるの。どうお願いすればいいの。どう断ればいいの。どんな言葉選びが適切なの。
俺はいつだって混乱したり、どうすれば良いのか分からなくてパニック起こしそうになったりしたというのに。
けれど、本当にパニックを起こすわけにはいかない。必死にその場の対処をして、どの言葉が正解なのか脳をフル回転させて、どんな態度なら大丈夫なのか考えて、必死に頑張って。ゲームの選択肢は、滅多に間違えないのに。現実は、対人関係はこんなにも難しい。
「パパ、見てこれ」
苺音が何かを見つけたらしい。にこにこと笑みを浮かべながら、何かを俺に差し出してきた。それを受け取ってみると、どうやら俺と兄さんのセットでいる写真のアルバムだったらしい。
「一緒に見よ」
娘に言われてしまえば、拒否などできるまい。
ぺらり、とページをめくっていく。
幼いころから写真はスタートした。少しだけ日に焼けているし、右下に日付が印刷されている辺り時代を感じる。俺が生まれたばかりで、その隣で兄さんが一緒に寝ている写真。兄さんの足の上に乗っている俺の写真。一緒にどこか旅行に行っているのか、俺は母さんに、兄さんはばあちゃんに背負われている写真。兄さんが俺に絵本を読み聞かせしようとしているのか、一緒に絵本を覗き見ている写真。こいのぼりの下で二人並んで抱っこされている写真。
幼稚園の制服を着ている兄さんにしがみついている俺の写真。俺の入園式で二人手を繋いで並んでいる写真。お遊戯会で着ていた衣装のまま一緒に映っている写真。
寝ている俺をおんぶしている兄の写真。泣きじゃくっている俺の手を引いている優しい顔の兄の写真。二人で虫かごを見せている写真。二人で植木鉢を眺めている写真。
兄はいつも俺の面倒を見ていた。お兄ちゃんだから、面倒を見ないといけないと周りからいつも言われていた。自然と、兄はしっかりしないといけないと、思っていたのだろう。だって、弟はすぐに泣くんだから。
俺が外で転んで泣きじゃくっていれば、しょうがないなと背負って家まで帰った。重くてヤダとべそをかいていた原因の朝顔の植木鉢を、持って家まで帰った。手の届かない位置に居たカブトムシを捕まえたのも、兄さんの役目だった。
高い位置にある物を取るのも、重い物を持つのも、全部、兄がやっていた。弟の分も、兄の分も。
あれもこれも、兄がやっていた。
だからできる。大丈夫。俺は自分で出来る。出来るはずだ。出来なきゃいけないのだ。しょうがないな、と笑いながらやってあげないといけないのだ。だって、俺には、頼れる兄や姉が居ないのだから。
兄は自然と、そう考えていたのかもしれない。あの人の事だから。その証拠に、ここに入っている写真、全部が笑顔だった。俺が泣いていても、笑顔で慰めている。
それは小学、中学、高校へ移っても変わらなかった。
兄の顔はいつだって笑顔だ。だけれど、俺は少し機嫌が悪そうだったり、少し泣きはらした顔があったり、すました顔があったり。
結婚をして家を出て、苺音と共に偶に顔を見せに居た時も、いつだって優しい笑みを見せていた。
兄にとって俺は、どれだけ重荷だったんだろう。
兄が引越しをする前に問うた言葉。「兄さんは俺の事が嫌いなのか」その言葉を、兄は否定をしていたけれど、俺だったらきっと耐えられない。きっとそうだ。
再会できた時の兄だって、いつも笑顔だった。優しかった。昔のままだった。あの人は、いつだってそうだ。何よりも自分より他人なのだ。
初めて死んだ兄と出会う、という摩訶不思議な経験をしたその日。俺は夢を見た。
それは俺達が幼い頃。一緒に遊んでいたあの時。
全ての時間が大切で大好きだった。
「俺を殺したくせに?」
彼がこんなことを言うはずがない。分かっていた、分かっていたはずだった。こんなのは、彼の本心なんかじゃなかっただろう。俺が実際に殺したわけでもないし、手を掛けたわけでもない。
それでも、光の無い、深い黒い瞳が、俺を許すまいと射貫く。ごめんなさい、ごめんなさいと何度謝っても、その痛みに慣れることは無く、ささくれの様に引っかかっては裂けて血が出て、じくじくと心を痛みつける。
彼に縋りつくように何度も、何度も、何度も謝った。
これは、彼の意思ではない。俺の心や脳が作り出した幻想で、彼への罪滅ぼしの為に、こうして自分で自分の首を絞める夢を見るのだ。
兄は、俺は悪くないと言うだろう。絶対に言う。そしてその言葉に嘘偽りはないと、分かっているはずだった。けれど、心の中ではずっと、彼が許すはずがないと、勝手に決めつけていたのだ。
だからこそ、俺はこうして夢の中で何度も、俺の作り出した『俺を許そうとしない兄さん』に謝り続けた。
そんな彼への唯一の罪滅ぼしに思いついたのが、苺音と共に毎日会いに通う事だった。
「苺音ごめんな」
「え?」
「兄さんと、仲が悪くて」
ずっと残していた後悔。あの時、兄を追い詰めなければ、もう少し早く兄の家に着いたら、もしかしたら兄は死なないで済んだんじゃないか。
そして今も、進路の相談は俺じゃなくて兄さんとしていたんじゃないだろうか。
大好きな兄と、今日も一緒に笑顔で居られたんじゃないだろうか。
「パパは、仲悪いと思ってたの?」
「……まあ、そうだな。嫌われている、と思っていたな」
「……パパって、ばかだねえ」
「え?」
娘に暴言を言われて、思わず間の抜けた声が零れたし、間の抜けた顔をしてしまった。
「あのね、おじさんが言ってたんだけど。『おじさんは、パパが好き?』って聞いたら、『勿論だよ』って、真っ直ぐな声で、にっこーって本当に満面の笑みで言ってたんだよ」
彼女は兄の真似をするように、口角をあげるように指で口端を持ち上げて、にこーっと声を零しながら満面の笑みを作り上げた。
彼女の言葉と、彼女の表情と、全てに思わず目を開いてしまった。
「それにこうも言ってた。『俺がこうして生きているのも、あの子のおかげだ。あの子は自覚無いだろうけど。兄という生き物は、弟という存在が居ないとなれないんだよ。だから、俺は杏哉が居てくれてよかった』って」
知らずのうちに、頬に雫が零れているのに気づいた。
苺音はにこにこと笑いながら、俺の頭を優しく撫でる。良い子、良い子、と声を零しながら。
ひと昔の、学校に通えない時期の彼女を思い出し、彼女の優しい変化にさらに静かにぽろりと涙が零れてしまう。
いつの間に、彼女はこんなに強くなったのだろう。もしかしたら、あの時の出来事が、彼女を変えたのか。兄さんが変えてくれたのか。
この子は、父親である俺とは違って、悲しみとずっと頑張って戦ってきたのだ。
兄さん。兄さんを想う人は、アンタの真面目さも優しさも全部、ちゃんと覚えて、自分のモノのように大切にしているよ。
「うん、決めた!」
「ん?」
「私、図書館司書になる!」
苺音はぐっと拳を握りながら、頬を緩めながら笑みを見せる。彼女の決意を聞いて、一瞬驚いたけれど、すぐに笑みが浮かんできて、納得も出来た。
どこか分かっていたのかもしれない。この子は、きっと兄と同じような夢を持ち、他人の気持ちが分かる優しい子になり、大きくなるのだと。
「そっか。それじゃあ、勉強沢山しないとな」
「うん、頑張るよ」
「無理だけはしない様に」
ぽん、と頭に手を乗せて、くしゃくしゃと撫でる。
大丈夫。この子は勉強を楽しめる子だから。本を大切に出来る子だから。人と接する勇気も、持てるようになってきたから。
「苺音。一緒に強くなろう」
「強く?」
「そう。優しい人になるのも大事だ。だけど、お前の大切な人や優しくしたい人。その人達と同じくらい優しくできるように」
「優しくなるには、強さも必要なの?」
「ああ、とっても必要だ」
誰かと戦う為じゃなくて、生き抜くために。何度でも立ち上がれるように。
優しくても、己が弱ければ、潰れてしまう。そうならないように。自分の命を大切に、出来るように。
「約束だ」
*
線香の香りが、八畳の仏間にただよった。
両手を鼻の先に合わせたまま、閉じていた瞼を開く。
俺の立てた線香から煙はうねりながら立ち上って、陽の光の中に溶けるように彷徨った。
「苺音が、兄さんの夢を追うみたいだよ」
目の前に居るように、思わず語り掛けた。
決意したあの子は、それ以降勉学に力を入れるようになった。勿論、無茶はしないという約束の元。それでも、読み終えた本が面白かったと、あらすじと共に感想を述べる姿は、どこか昔の兄さんと重なって見えた。
「……あのな、正直な話、弱音なんだけどな。あの出来事の後でも、まだ、不安になることはあるんだ」
目線を逸らしながら、自分の髪の毛をいじる。
死んでしまった兄さんと過ごした数週間の出来事。今でもはっきりと全部覚えている。
あの時の兄さんは記憶が無かった。けれど、正直な話、俺は丁度良いと思ってしまったんだ。もう一度、昔のように仲良くなれるかもしれないって、勝手に気持ちを押し付けていたかもしれない。それは、うん、反省してる。
「アンタが苺音に話をしてくれた時、凄い嬉しかったし助かったんだ。アンタだからこそ、あの子の心に響いた。そんな気がするんだ」
きっと、俺じゃあだめだった。
少しだけ似ていたあの二人だからこそ。似ていた性格の先輩として、アドバイスをしてくれた。一人の人間として、言葉を、道を与えてやってくれた。それが、本当に嬉しかったんだ。
望んでいた光景の様だった。これからもそうなってほしかった。正直、今でもそう思ってる。
「あ~、こう、教育……とか育てるのって、洗脳ってよく言うじゃん?」
この言葉を聞いた時、言い得て妙だと思った。
子供の一番身近な大人は自分の両親で、その両親の言葉や動作などを見て、学んで成長していく。
苺音のトラウマとなった、元奥さんの言葉だって、その一つだろう。「普通じゃない」「扱いにくい」「生きにくい子」その言葉を俺にぶつけられた時、どうしてそんな事を言うのだろうと思った。けれど、否定をすることも出来なかった。苺音は賢い子で、同じ様に本を読むのが好きな叔父が好きで、感受性が豊かだから辛いことも多いだろうと。
だけど、そんな俺達の話を娘は聞いていたのだ。そして、深く傷ついてしまったのだ。それを知った時の俺の絶望感たるや。
「洗脳って言ったら、言い方あれだから本当は嫌なんだけど……。でも、俺達の発した一言が、あの子のこれからにどう影響するんだろうって……」
そう思ったら、時々凄い怖くなる時があるんだ。
苦笑いを浮かべながら呟く俺に、兄が小さく溜息がこぼしたような気がした。実際に居るわけがないから、あくまで気分なんだけど。
そんな今更の事を心配しているの? そう言われているような気がした。
けれど、仕方ないだろう。実際に、俺達の言葉で、俺達の出来事で、苺音は色々なものが影響された。だから、本当は言いたいんだ。助けてくれよ兄さん、って。
「……子供の頃、“大人”はもっとちゃんとした“大人”だと思ってた」
アラフォーという身だから、老人などに比べればまだまだ若僧で、社会でもまだまだ見下される日々だ。だけれど、やっぱり俺からすれば、俺はもう立派な大人、という枠の一つで。
けど、実際はこうして歳を重ねても迷ってばかりで。本当に自信をもって子供に対峙したことなんて、一度もなかった気がする。
本当にこれで良いのか正しいのかって、一人でびくびくして。言葉を断定するのが怖くてしょうがなくて。
大人になったら……自立して自分の家庭を持ってしまえば、もうそこから自分の言葉に責任を持たなくてはいけない。それが、今でも怖いのだ。
「でも何でだろう。不思議なんだけどな、ここがスッキリしてる」
胸元に手を添えて、小さく笑みを浮かべた。
あの日以降、何だか、不安というかそんな気持ちをどこかにやってしまったのか……何故だろう、気分が良いのだ。
不思議な世界で出会った、兄のようにやさしくて、温かくて、丁寧に人と接するアンタ。そして自身を見るその目は、兄と同じと言っても過言ではなかった。彼の傍は、懐かしさと共に安心感があった。
心のモヤモヤとか、そんなものが、兄さんが死んでからどこかにずっと潜んでいた気分がしていた。だけど、あの日を超えて、この間苺音と向き合ってからだろうか。モヤモヤが薄れていったような気がするのだ。
多分、俺は、相変わらず迷うだろうし情けないことも言うだろう。内に抱えた不安や迷いも諦めも、そっくり全部が無くなることはないだろう。
「だけど、俺は大丈夫。それはきっと、兄さんも同じなのかな? って。ただ、二度と会えないという恐怖に怯えて震える日々はもう過ぎ去った。俺は俺なりに、あの子はあの子なりに……。生きていく意味を見つけたからね」
ただ時間が過ぎていく。
兄の名前が記されている位牌を眺めた。外で車が走り去っていく音がする。線香のにおいに包まれる。冷房の風がひんやりと肌を撫でる。乾燥の所為か唇が切れて、鉄の味が口の中に染み込んできた。
全ての感覚が誤作動も無しに俺に伝わってきた。
「……それでもな、ここまで、大切にしたいと思えたのは兄さんのおかげだ」
一つの本を愛しく思いながら撫でる。兄から娘に行き渡った、大切な本。
悔いの無いように物事を選ぶのは難しい。ずうっと悔いのある物ばかり選んできた。無いようにと思ったものが、後々に悔いを産む。そうして今まで過ごしてきた。だから、今回選んだことも、後々の後悔に回るのではないか。そう思ったのだ。
産まれた時に比べて、沢山の事を学んできた。大切な誰かとの永遠の別れも経験したし、悔しい挫折だって経験したし、悲しくて涙で枕を濡らしてもきたし、一人で辛さを我慢だってしてきたし、沢山の大切な出会いだって経験したし、恋だってしてみたし、結婚だってしてみたし、更に言えば離婚だってした。けれど、とっても大切で仕方がない宝物も出来て。きっと、産まれた時と比べたら、随分と人間らしくなった。
あの人はね、と皆が、誰かが、言う。
だから、だから何だって言うんだろう。他人から見えた我々への評価に、我々は生かされていたのだ。結局こういうモノだ。
「これからも、あの子を守っていきたい。だから、兄さんも一緒に見ててくれ」
置いてある兄の写真は、こちらの方へ顔を向けて、優しくて穏やかで柔らかい、蕩ける様な笑顔を見せてくれた。
兄に見守ってもらえたら、きっと、上手くいく。そう、感じた。
アンタの弟として生まれて、本当に良かった。
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