9-3 混沌の渦の中で
◆
卓の上の酒瓶を手に取り、男が寝台に腰を下ろした。
「名前は?」
問いかけられて、答えるのに舌がもつれた。
「ナーオ、です」
男は瓶を傾け、細く息を吐く。酒精が漂う。
「街の様子とお前の様子を見ると、両親とは生き別れだな」
「元からいません」
反射的に答えていた。
生き別れも何も、あんたたちが街を襲撃し、平和な日々を破壊したんだ。
勝手なことを言うものじゃないか。
私の言葉に男はそれほど表情を変えなかった。驚くようでもなく、好奇心を刺激されたようでもなく、ただ目が少しだけ細められた。
「その話しぶりだと、流行り病で死んだとか、飢餓で死んだというわけでもないようだな」
全く興味がないという口調だった。儀礼的に確認してやっている、というような。
「私の両親は、盗賊に殺されました」
「盗賊? ルーシアの街には盗賊が出るとも思えないが」
「元は、ウライヴ侯爵領で生活していました」
今度こそ、男の心が動いたようだった。
「元は難民ということか。よほどイユーヴ伯爵領はいい場所らしい」
「盗賊は出ませんから」
嫌味そのものだったが、言葉をどうしても止められなかった。
その嫌味が効いたかどうか、男は皮肉げな笑みを見せた。
「盗賊は出なくとも、俺たちのような盗賊は出るわけだ」
「盗賊なんて……」
言葉が途切れたのは、男の眼光に強い殺気が閃き、射すくめられたからだった。
私はカエルで、大きい蛇に正面から睨まれているようだった。
「盗賊なんて、なんだ? 人間のクズか? 人非人か?」
辛辣な言葉は、まるで刃のように私の心を引き裂いていく。
盗賊たちは確かにクズだ。人でなしだ。
でもこの世の中で、法は意味を失い、暴力だけが力を持ち、平穏を求めるだけで何もしないのは、果たして存在を許されるのか。
奪われるものは確かに不憫だ。
奪うものは確かに傲慢だ。
どちらがより大きなものを差し出して、勝負しているのか。
誰かに守ってもらうばかりで、いざという時には逃げ惑うだけの人間が、何を言えるだろう。
剣を手に取ることも、自分自身を盾にもできない人間が、何を言える?
あの路地で、私はこの手に短剣を握っていた。
しかし捨ててしまった。
あの瞬間に、私はきっと、大事なものを手放したんだ。
男が何か言おうとした時、唐突に幕舎に入ってきたものがいる。私が振り返ると、そこにいるのは例の統一された装備の兵士で、顔は汗まみれだった。
「敵襲です!」
「どこからだ。斥候は何をしている」
男が寝台から立ち上がり、今まで私は気付かなかったが、寝台のすぐそばに寝かされていた剣を手に取った。男は具足も何もつけてないが、剣を取っただけで、何故か勇者のように見えた。
兵士が慌てた声で続ける。
「所属不明です。騎馬隊で、数は多くありませんが一直線に向かってきます」
「誰からの報告だ」
「物見櫓が土煙を」
言葉はそれで聞こえなくなった。
外で激しい馬蹄の響きが重なり合い、それと同時に悲鳴と喚声が爆発したからだ。
男が兵士と共に外へ出たので、私も外へ出た。
黒い影が走り回っている。赤い光の尾を引きながら。
馬上の男たちが弓を放っているが、ただの弓ではなく火矢だった。
それらが幕舎に突き立ち、たちまち火は大きくなる。
刃物同時にがぶつかり合う音と、肉が引き裂かれる湿った音、骨が砕かれるこもった音、具足が粉砕される濁った音、様々な音が一つらなりの音楽となっていた。
炎が私を取り囲んでいる。
視界の端で、ウライヴ侯爵家の旗が燃えていた。
私の前に立つ男が急に剣を抜いて矢を打ち払った。
こちらへ駆け込んでくる騎兵がいる。
黒い具足。小柄な体。手にはやや不釣り合いな長さの剣を持っている。
その騎兵と男が交錯する。
どうっと倒れたのは男の方だった。しかしすぐに起き上がる。着物の胸がみるみる赤く染まっていく。
男が声をあげ、部下を呼んでいる。すぐに五人ほどの男が集まってきた。
「兵を引くしかあるまいよ。兵糧も焼かれているはずだ」
いくらかのやり取りの後、男たちは散っていった。
すでに馬蹄の響きは聞こえない。
私が愕然としているのは、さっきの騎兵が誰か、知っているからだ。
あれは、フーティ騎馬隊の、セラだった。
間違いない。
では彼女は、イユーヴ伯爵領に与してこの陣地を奇襲したのか。
まだ炎は周囲で渦巻いている。
全てが燃えていく。
そう。全て。
女たちのことを思い出した。そばにいる男のことを忘れて、私は駆け出していた。
炎と炎の間を駆け抜けていき、私たちが最初に放り込まれた幕舎の前に立った。
炎の塊が目の前にあった。
幕舎は、燃えていた。中に入ることができる火勢ではない。
叫んで女たちの名を呼んだ。
返事はない。悲鳴も聞こえない。
私が見ている前で、幕舎がぐらりと揺れる。反射的に一歩下がった時、大きく幕舎が傾いた。
誰かが腕を引いて、私を後ろへ引っ張った。
鼻先を炎が掠めていく。
幕舎は完全に倒壊し、激しく火の粉の群れが舞い上がった。
私はそれを見ているしかできない。
みんな、死んでしまったのか。
足から力が抜けるが、腕を掴まれているので、それにぶら下がるような形になった。
のろのろと私を掴んでいる相手を見ると、例の男だった。
「諦めろ」
短い言葉だけが向けられた。
男も私も全身が煤で汚れていて、ついでに男の胸から腰、足までは血で色が変わっている。
私はもう叫ぶこともできず、泣くこともせず、ただ男を見ていた。
行くぞ、というようにしかし無言のうちで腕を引っ張られ、私はやっと自力で立った。
その日のうちに陣地は引き払われ、周囲を警戒しながら後方へウライヴ侯爵領軍は後退した。
私はといえば例の男のそばにずっといた。
男の胸の傷は浅くはないようだが、本人は平然としている。医術の心得のあるものが傷口を縫合し、軟膏を塗りこみ、布できつく縛り付けていたが、布にはまだ血が滲んだ。
男の立場を私が知ったのは全隊が後退し、野営となった後だった。
「俺はダナンというものだ。グングニル傭兵社のものだ」
腑に落ちるが、今更だった。
彼の周りにいる男たちは兵士に近いが、どこかで兵士とは一線を画していたのだ。
洗練されていた。そして全員が真剣で、積極的だった。
傭兵のそれは兵士の真剣さや積極性とは違うのだ。
男は酒瓶を片手に、「ナーオ、お前はこれからどうする?」と問いかけてきた。
私に選べるものは何もなかった。
住む場所もなく、仲間もおらず一人だった。銭を持っているわけでも、技能を持っているわけでもない。
項垂れなかったのは、最後の最後に、気力が残っていたからだろう。
まっすぐに私はダナンを見た。
ダナンも私を見た。
言葉もなく、関係は定まった。
(続く)
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