第九部 女傭兵の影
9-1 一時の平穏は去り
◆
ウライヴ侯爵領を脱出して、イユーヴ伯爵領へ逃れて、一年が過ぎようとしている。
奇妙な少女が指揮する騎馬隊の残していって謝礼の銭は、まだ半分ほどが残っていた。半分を使うだけで安定した生活を送れるようになった、ということだ。
私たち避難民は、十字教の支援を受け、働ける者は働き、老人も可能な限り内職を引き受けていた。どちらも大した銭にはならないけれど、日々の食事に困らず、それなりの服装をすることはできる。
寝たきりの老人たちは、みんなで看護していた。それでも数は減っていき、今は一人しか残っていない。
大きな不幸もなければ、幸福はささやかなものしかない、という一年だった。
でもふとした時に、ささやかでも幸せを感じ取れるのは恵まれているのだろう、そう思うことも多い。
ウライヴ侯爵とイユーヴ伯爵の関係が悪化しているのが、気がかりではあった。この街、ルーシアは領地と領地の境界線の目と鼻の先にある。
街の様子を見てもわからないけれど、私の心の中では、この街も戦場になるのではないか、という危惧があった。これが杞憂で済めばいいのだけど、未来は誰にも見通せない。
私は普段、ルーシアにある食堂の一つで働いていた。給仕が大半だけど、場合によっては調理もする。一年の間に、私の料理の腕は格段に上がった。でもそれを振るう機会は、働いている時以外ではあまりない。
その日も、私は普段通りに働き、昼過ぎに休憩になった。余った食材で料理を出してくれるのはありがたい。昼食代を浮かせられる。
それを食べていると、午後から仕事に入るシャリナという少女がやってきた。私と同年輩だけど、彼女は避難民ではなく、元からのルーシアの住民だ。
私を見ると、彼女が笑顔を見せて「お疲れ様」と声をかけてくる。私は食事の手を止めて挨拶した。
「お疲れ様です。午後は、よろしくお願いします」
「もうだいぶ暖かくなったね。上着もいらないくらい」
「花も咲き始めていますしね」
そんなやり取りの後、気軽な雑談に終始していると、いきなりこの休憩室の扉が開いた。あまりにも激しい開き方だったので、私とシャリナがぎょっとしてそちらを見ると、真っ青な顔の店長がいた。
ブルブルと震えているように見えた。そしてそれは、錯覚ではない。
「どうしたんですか、店長」シャリナが冗談を向ける。「まさかこの店に行列ができたのですか?」
店長が俯いて何かを言ったが、よく聞こえなかった。
「え? なんですか?」
どうも普通の様子ではない、と私もシャリナも理解せずにはいられなかった。
「店長?」
シャリナが先ほどより真剣な口調で問い直したのに、店長が顔を上げる。土気色をしている肌、唇は紫だった。
「ウライヴ侯爵領軍が境界線を突破してこちらに来ている!」
……なんだって?
決壊したように店長がまくし立て始める。
「イウーヴ伯爵の命で、この街は捨てることになった! みんな、持てるものを持って逃げている状態だ! お前たちも逃げろ! 急げ!」
行こう。変に静かな声で言ったシャリナが立ち上がった時、私はまだ呆然としていた。
街を捨てる?
この町の住民全員が、避難民になるのか。
腕を掴まれて、シャリナに引きずられて表へ出ると、通りを人が駆け回り、大騒ぎになっていた。
「ナーオ! しっかりしなさい! あなたがあなたの仲間を守るのよ!」
力強いシャリナの言葉が耳に入った時、そのことをやっと思い出した。
そうだ、ここへ辿り着いた仲間を助けないと。
気を取り直し、私はシャリナに礼を言って駆け出した。別れ際に「また会おう」と約束する余裕すらなかった。
通りは混雑して、すでに無数の荷車が行き交うどころか、渋滞し、身動きが取れなくなっている。その間を動く人も大荷物を抱えているものが大半だ。
十字教が私たちに貸してくれた土地はルーシアの街のはずれにあり、長屋が二つ並んでいる。
そこに帰り着くと、私と一緒にここに辿り着いたものが荷造りの最中だった。彼らが私に気づき、ちょっと表情を明るくさせる。
「ナーオ! 敵が来るって話があって!」
二十代の女性の言葉に、私は頷き返す。
「もうみんな、逃げようとしている! ここはウライヴ侯爵の軍に制圧されると思う。そうじゃなければ、ここをわざとウライヴ侯爵に抑えさせる作戦じゃないかな」
女性がちょっと苦笑いする。
「あなた、よく落ち着いていられるわね。でも、安心した。どちらによ、また逃げるしかないわね」
それから私も荷造りに協力して、かろうじてあった荷車に載せられるだけの荷物を載せた。
ここにいるのは今のところ、二十四名だった。全員ではないけれど、どうしようもない。
動けない一人きりの老人は荷車に載せた。他の荷物もあるので、載せるのに気を使った。
男の姿はない。女だけで逃げるしかないらしい。
私は荷車の後ろにつき、それを押した。前では二人が曳いている。両側にも女たちがつく。
大通りへ出るだけでも一苦労だったが、そこから先はさらに困難だった。道は渋滞したままで、わずかも進めない。動かない荷車の間を人が走り抜けていく光景が展開されるのは、どう見ても足で歩いたほうが早いと示していた。
老人を見捨てることはできない。しかしどうしても、荷車がなければ逃げられるのに、という思いはある。
どこからか声が伝播してきた。
それは、ウライヴ侯爵の旗だ、とか、ウライヴ侯爵の軍が来たぞ、とか、そんな内容だった。
どこから襲ってくるにしても、今の私たちは身動きが取れない。
老人を一人、見捨てるくらいなら、一緒に死んだほうがマシだ。
これは痩せ我慢ではなく、矜持だ。
どこかで悲鳴が聞こえた瞬間、唐突に列が動き出した。
正確には列が、ではない。
荷車をなんとかしようとしていたものたちが、一斉に横へ逃げ始めた。荷車は置き去りにされている。あっという間に私たちの前には、動かすものがいなくなり、私たちだけではどうすることもできない無数の荷車と大量の荷が残された。
老人を連れて行くには、荷車はもう邪魔なだけだった。
「私が背負う! みんなは最低限の荷物を持って!」
私はそう言いながら、荷車の上に這い上がり、老人に声をかけて、なんとか背中に背負った。
他の仲間の手助けを受けて、私は荷車の上から地面に降り、歩き始めた。
もうちょっと体力があればと思っても、もう遅い。
すでに悲鳴と怒号は聞き間違えではなく、はっきりと聞こえてきていた。
老人を背負ったまま、惨劇の気配から離れようとする。とにかく今は、逃げることだ。
風を切る音がすぐそばでして、後ろから飛んできた矢が私の横の地面に斜めに突き刺さった。
私は走った。もうがむしゃらに走るしかなかった。
どれくらいを駆けたのか、私は地面に倒れこみ、背中で老人が小さく呻いた。
「ごめん、大丈夫?」
うめき声しかしない。
「ナーオ、もうダメだよ」
すぐ横にへたり込んでいる仲間の少女がそう言って、やっと私は老人の様子がおかしいことに気づいた。
ゆっくりと背中から降ろすと、だらりと老人の脱力した体が地面に転がった。
背中には何本もの矢が見えた。
ああ、なんてこと……。
涙が溢れたけど、泣いている場合ではない。
そばにいる仲間はほんの六人になっていた。
場所は路地で、通りの方では悲鳴が幾重にも重なって惨劇の開始を告げていた。
逃げなくては。
でもどこへ?
空気には焦げ臭い匂いが漂い始めてた。
この街はもう、終わりなのか
(続く)
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