2-3 白昼夢

     ◆


 翌日、ナロフが一人で生活する家へ行くと、外で彼は待ち構えていた。

 彼が突き出してきたのは、鞘に収まった剣である。

「これは?」

「自分のものにしろ。ついてこい」

 そんな短い、そっけない言葉を残して、ナロフが歩き出す。集落を抜け、裏手の山へ入っていく。

 ナロフの背中に何度も声をかけようとしたけど、無理だった。

 裏の山は、聖地とされている。もちろん、私たちの部族は国を失い、縁もゆかりもない土地に封じられているから、本当の聖地は別にあるのだろう。この地に移り、山を神聖なものと定めただけである。

 それでも、山に分け入ることは禁止され、猟をするものも入りはしない。

 今、そこへナロフはまったく躊躇いなく分け入って行く。

 彼が皺だらけの手で繁る枝葉を押しのけ、折っていくので私は比較的、楽に進めた。

 どうやら目指す場所があるらしいけど、私に見当がつくわけがない。山に入るのは初めてだし、何があるのかも知らない。

 周囲に生える木の群れは、手入れもされていない。そう、冬に必要な薪ですら、この山からは切り出さない。

 急に不気味に思えてきた。

 私は今、人が入っちゃいけないところに踏み込んでいるのではないか。

 でもナロフは平然と歩を進める。

 どれくらい進んだか、額ににじむ汗が雫になって眉へ落ちるのをぬぐいながら前を見ると、巨木が見えた。

 一目見ただけで、そこが目的地だとわかる。実際、ナロフはその前で足を止めた。

 彼の横に進み出て、頭上を見上げる。幹は高く高く伸び、繁茂する枝葉に遮られて頭に空は見えない。この大木が大地の栄養を奪うからだろうか、木が生えていない空間がぐるりと大木を取り囲んでいる。

「剣を抜け」

 ナロフの言葉に彼の方へ向き直ると、ナロフはいつも通りの無表情だった。

「剣を抜いて、どうするのですか?」

「抜けばわかる」

 取りつく島もない。

 私は左手で鞘を強く握り、右手は柄を掴んだ。

 一度、意識して呼吸して剣を抜いた。

 綺麗な銀色の輝き。見事に研ぎ上げられている。

 しばらく私は剣身を見ていた。

 光が反射して、目に飛び込む。

 闇。

 闇が私の周囲にある。

 声を発したはずが、その声は全く響かず、私の耳にすら届かなかった。

 周囲を見る。

 私だけが闇の中に浮かび上がっている。

 夢? 私は夢を見ている?

 ナロフを呼ぶけれど、返事はないし、姿も見えない。

 右へ向き、左へ向き、しかし何もない空間がどこまでも続く。

 頭上も無限、足元はまるで私が宙に浮いているようだ。

 手には剣があるけれど、どこか頼りなく感じた。

 夢の中にいるはずなのに、全身がすでにじっとりと汗に濡れていた。手足が震えるのを抑える必要があった。

 声を発する。拡散してしまう。

 さらに大きな声を出してもやはり、どこかへ消えてしまう。

 急に何かが軋むような音がした。

 何だ?

 影が差す。

 真っ暗で何もない空間に、なぜ影があるのか。

 顔を上げた時、すぐ頭上に巨大なムカデがいた。

 巨大というのは、腕くらい、などという生易しいものではない。大の大人の背丈で二十人分はあるだろう。私自身よりはるかに巨大だ。

 無数の足が蠢く様は、それだけで卒倒しそうだった。

 鎌首をもたげたムカデの頭が、私の顔を覗き込んでくる。

 口から濁った液が滴る。

 絶叫した。

 剣をがむしゃらに振り回した。

 ムカデは剣を無視して私の頭に噛みつき、粉砕し……。

 気づくと私は地面に寝かされていた。

 背筋を寒気が走り抜け、跳ね起き、剣を探す。剣は鞘に戻されて、私のすぐそばに置かれていた。手にとって、周囲をもう一度、確認する。

 小さな岩に腰掛けて、ナロフがこちらを見ていた。

 ここは現実。

 私は闇の中に一人きりではない。周囲は森閑とした樹林がどこまでも続き、遠くで鳥が鳴き、獣が吠えていた。

 風が吹く。その細やかな風が汗みずくの私の全身を冷やし、全身を震えが走った。

 緩慢な動作で岩からナロフが立ち上がり、「帰るぞ」と言った。その眼差しには凍てついたものがあり、どこか冷酷にさえ見えた。

「さっきのは……」

 やっと声が出た。今度はちゃんと空気を伝わり、空間に響いた。

 それでここが現実だと、再認識できた。それくらい現実的な夢だったのだ。

 ナロフは何も言わずに私の横を抜け、大木から離れていく。集落へ戻ろうとする老人の背中から、改めて大木に視線を戻した。

 さっきは気づかなかったが、大木の根元に何かがある。最初は縦に長い石、楕円形の石が立てられているのかと思った。

 しかし、違う。ただの石ではなく、石像なのだ。

 何かの神なのか、それにまつわるものか、しかし確かに彫刻がされている。

 うすら寒いものを感じながら、私はナロフに確認しようとして、彼の姿が木々の向こうに消えていこうとするのにハッとした。さっきの今で、こんなところに置き去りにされたくはない。

 大木に背を向けて、私は駆け出した。下草をかき分け、木の根に足を取られそうになり、泥で靴が滑り、それでも走った。ナロフになかなか追いつけなくて、もしかして自分はまた夢を、別の悪夢を見ているのかと思った。

 しかしちゃんとナロフに追いついた。木と木の隙間に集落が見えてくる。

 飛び出すように木の生み出す影の領域から出る。太陽の光の下で、私は今度こそ蘇ったような気がした。ナロフは足を止めることもなく、歩いていく。方向は私と彼が稽古をする方向だけど、しかし今、いったい何時だろう。

 私たちはどれくらい、あの森の中にいたのか。

 棒を取っての稽古は今までの半分ほどだった。そのはずなのに、私はナロフに圧倒された。どうしても体が思う通りに反応しないのだ。何度も打ち倒され、やっぱり最後には倒れこんだ。

「剣は預けておく」

 最後にそう言ってナロフはいつも通りに去っていった。

 しばらく私は夏の空を見上げていて、足音が聞こえて、サリーンが来たのだと跳ね起きた。

 そこにいるのはサリーンだったけど、彼女が一歩、ぎょっとしたように飛び退る。

「わっ! あんた、セラ、どうしちゃったの?」

「え? 何が?」

 その顔よ、とサリーンが恐々、こちらへ歩み寄ってくる。

「まるで死体みたいな顔している。血の気がないっていうか……」

 何気なく手で自分の顔に触れてみるけど、それでわかるわけもない。すぐそばにある剣を手に取り、鞘から抜いて刃を鏡にして顔を確認した。

 確かに私は、土気色の顔をしていた。





(続く)

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