第4話 寂しがりやな許嫁の要求

 後日、制服のシャツは海野さんの家で洗濯とアイロンがけをしてもらい今はシャツを受け取りに海野さんの家に出向いている。

 敷地内に入ると快く海野さんが出迎えてくれて洗面所へと案内してもらった。

「本当にすみませんでした」

 俺に向かって深々と一礼をする海野さんに俺はすぐに言葉を拾った。

「いえいえ、そんな」

「今はシワが伸びきるまでハンガーにかけていますのでもう少し待ってください」

「あ、はい」

 とは言っても別に汚したとかそううわけじゃないしちょっと大袈裟と思いながらもシャツのシワが伸びるまでリビングでゆっくりしていた。

 海野さんは両手にお盆を持ちテーブルにそっと置き、そこからお茶の淹れた湯呑みを俺の前に置いた。

「どうぞ・・・・・・」

「い、いただきます」

 一口だけお茶を喉に流し込むと心が温まったような感じに包まれて暖かくなった。

 夏なのに熱いとは感じず、お茶の温度がちょうど良い温度に微調節されている。

「やっぱり落ち着きます。海野さんの淹れたお茶は」

「そ、そうですか。別に何か特別な事はしてないですけど・・・・・・」

「それにしてもやっぱりこの家すごいですね。すごい広くて庭には池とか芝生があってすごい羨ましいです」

「そこまで大した事ありませんよ。広すぎると迷ってしまいますし、庭なんて小さい頃はよく遊んでましたが今となってはあまり使ってないですし」

「それはそうと、なんで俺のシャツの匂いを嗅いでたりしてたのですか?」

「あ、そ、それは、ですね。ちょっとしたでき心で・・・・・・」

「なんか、変な事聞いちゃいましたね」

「い、いえ。悪いのは私なのでお気になさらず」

 話始めてから忘れていたけど一応海野さんって俺の許嫁なんだよな。そう考えると少し心がドキッとした。

「そろそろですね」

 そう言うと、海野さんは立ち上がりハンガーにかかった制服のシャツを持ってきて床に座り手際よくたたみ始めた。

「どうぞ」

「あ、ありがとうございます。そ、それじゃあ俺はこれで」

 座っている座布団から立ち上がり玄関に向かおうとした時、何やら服の袖を引っ張られた感触がしたのだ。

「ま、まだ、行かないでください・・・・・・」

「は、はい?」

「今日両親が帰ってこないので、もう少しだけいてくれたら嬉しいのですが・・・・・・」

 まさかまさかのカミングアウトだった。今日のいつかは帰ってくるかと思ったがまさか今日一日帰ってこないとは。

「とは言っても、逆に迷惑じゃないですか」

「そんな事ありません! こんな広い家に一人いる方が寂しいです」

「そ、それなら。ちょっと待っててください」

 そうなると、とりあえず母親には連絡はしておかないとな。

 母親に電話をかけて、その事を話したら即オッケーだった。むしろ、もっと彼女のそばにいてやれって言われた。

「お母さんはなんとおっしゃってましたか?」

「別に大丈夫ですって言ってました」

「そうですか。よかったです」

 

 昼食を済ませてリビングのソファで少し横になっていると、海野さんが隣に座ってきた。

「食べて横になると牛になりますよ」

「あはは、そうですね」

 特にやる事もなく、このまま眠ってしまいたいくらいと思った時、海野さんがこんな事を言い始めた。

「それと、その・・・・・・一つお願いはあるのですが」

「なんですか?」

「私たち、許嫁の関係になってもう一ヶ月になりますよね。だから、その・・・・・・そろそろいいと思うのですけど・・・・・・」

 海野さんの言ってる事が完全にいやらしい方向にしか聞こえないのだが。これ以上深く掘り下げはしないけど。かなりいい感じの雰囲気に押されながらもこんな展開がやってきたら期待せずにはいられないのが男という生き物である。

 ごくり、と唾を飲み込む。

「わ、私を名前で呼んでくれませんか!」

「は、はい?」

「ずっと感じてたんです。許嫁の関係になってからというもの、海野さん海野さんって・・・・・・私には真鈴という名前があるのですよ!」

「そ、それは・・・・・・」

「それなら、名前で呼んでください・・・・・・」

 涙目でこちらを見つめくる海野さんに俺は少し同情をしてしまった。

 確かに今まで苗字で呼んでいて少し距離を置いたのは紛れもない事実だ。

 ただ、その、名前を呼ぶのが恥ずかしかったというのもあるがそれゆえ、怖かったのだ。

 こんな俺が海野さんの名前を呼んでも良いのかと後ろめたさに襲われてなかなか名前を呼ぶ事ができなかった。

 でも今ならちゃんと彼女の名前を呼ぶ事ができる。そう自分に言い聞かせ、

「じゃあ、ま、真鈴・・・・・・」

 そう言うと、真鈴は満面の笑みを浮かべて嬉しそうにしている。

 名前を呼ぶのは少しもどかしくて焦ったくて少し違和感があった。

「も、もう一回」

「ま、真鈴」

「もう一回」

「真鈴」

 よほど名前で呼ばれるのが良かったのか、何度も何度も真鈴って言わされた。

 もっと早く呼んであるべきだったと今さらながら後悔している。

 それはそうと、俺にも一つ真鈴にお願いがある。

「あ、あの・・・・・・」

「どうしましたか?」

「こ、これからは敬語やめて普通に話してもいいですか?」

 敬語をやめて普通に話す。それが俺のお願いだった。

 初めて出会ったあの日から今に至るまで話す時は常に敬語だった。その事を母親に相談してみるとそろそろ敬語やめたらと言われたのもある。

「はい! もちろんです!」

「そ、それじゃあこれからよろしく・・・・・・」

 やっぱりため口で話すのも慣れていないせいか少し違和感が残った。

「そ、それじゃあ私も名前で呼んで良いですか?」

「う、うん、別に大丈夫だけど」

 彼女も俺の下の名前よ呼ぶ事に慣れていないのだろう。

 真鈴は、所在なく目を泳がせて、きゅっと握った手を胸の前に持っていき、少し赤らめた頬で、俺を上目遣いで見つめる。

 もどかしく少し震えた声が、俺の耳を響かせる。

「い、いお・・・・・・りくん」

 まさに会心の一撃だった。

 名前を呼ばれるだけでこんなに鼓動が高鳴ってしまう。初めての感覚だった。

「まあ、俺もそうだけど多分これは慣れだな・・・・・・」

「そ、そうですね・・・・・・」

 お互い慣れるまで少し時間がかかりそうだ。

 


 

 



 

 

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