第3話 青い月の瞳。

 夜の森にひとは立ち入らない。


 だから僕は、ここに来た。この【妖樹の森】に。いま、あの街の中で、ひとの営みの中で独りなのは耐えられそうもないから。



 【闇】属性の魔物は、基本的に夜になると活性化して強くなる。加えてわずかな月明かりだけが頼りの夜の闇。


 さらに森の中ともなると、木々が鬱蒼と茂っていてまるで見通しがきかない。この悪条件で魔物と戦った場合、どんな屈強な冒険者でも、昼戦う場合の何倍もの苦戦を強いられるだろう。


 ――けど、僕には関係ない。


「レイス流暗殺術、【隠形】」


 薄く薄く、体全体を包みこむように生まれ持った【闇】属性の魔力を広げる。


 裏世界では有名な暗殺者一族の僕の実家。そのあとを継ぐべく幼いころ、それこそ物心つく前から過酷な訓練で鍛えられた僕の【隠形】は、この【妖樹の森】に巣食う魔物程度にたやすく見破れるものじゃない。


 広げた魔力の性質を調節し、周囲へと同化させる。

 あたりまえにそこに在るかのように、空気のように錯覚させる。



 静かに風がそよいでいた。


 魔狼の群れの前を横切る。


 徘徊する巨大な灰色熊と目と鼻の先ですれ違う。


 木々の隙間を縫い、月明かりのもと目的地を目指す。

 

 まるで無人の野を行くがごとく。暗殺者として夜目の効く僕にとって、障害などないも同然だった。




「ふっ! とっ! はっ!」


 【隠形】を解除すると同時、僕は目の前の巨木をすばやく頂上まで駆け上がった。

 さすがにこうも激しく動くと、いくら再度僕が【隠形】を使ったとしてももうごまかしはきかないだろう。


 でも、こうしてもう、目的地には無事ついた。


 

 この【妖樹の森】の真ん中あたりにある、ぽつんと開けた広場。その中心に湧き立つ泉のすぐそばの一番高く大きな木。ここが目的地、つまり僕の今夜の寝床だ。


 太い枝の一本に静かに身を預ける。


 仰ぎ見る月は大きく、青く――とてもとても綺麗だった。


 優しく包みこむようなやわらかな月明かりに照らされながら、ゆっくりと目を閉じる。


 こうやって外で寝るのは、一年ぶりぐらいだっけ……?


 以前、暗殺者一族の実家にいたころは、たまにこうやって眠っていた。


 嫌なことやつらいことがあったとき。ひとりになりたいとき。実家の近くのだれもいない静かな森の中、ただやわらかく照らしてくれる青く大きな月だけを見上げながら、こうして静かに目を閉じて――



 パシャッ……。


「ん……?」



 ――かすかな水音と気配に、目を覚ました。


 暗殺者として鍛えられた僕の眠りは非常に浅い。どんな緊急事態でもすぐに対処できるように。


「感覚強化」


 体中に行き渡っている魔力を一時的に三点に集中。


 目と耳と鼻を使ってすばやく状況を把握する。

 

 あたりはまだ薄暗く、夜は明けきっていなかった。


 いまいる木の下から聞こえてくるのは、ぴちゃぴちゃという水を舐める複数の音。


 感じとれるのは獣の臭い。


 見下ろせば、そこには魔狼の群れが泉にむらがり、その喉の渇きを癒しているところだった。



 ひとを見ればすぐさま襲いかかってくる凶悪な魔物にもかかわらず、こうして安全なところから見ていると、まるで普通の動物と変わらないように見えてくるから不思議なものだ。



『ウォウッ!』


 そんなふうにのん気に眺めていると、一声鳴くとともに魔狼たちがいっせいに水を飲むのをやめ、後ろへと向けて振り返った。


 すでに魔狼たちよりも先にその気配を察知していた僕も、なにが来たのか確かめようとゆっくりとそこへ視線を向ける。



 魔狼たちの前に現れたのは、ぼろきれのような擦り切れたマントを羽織った僕よりも幼く見える少女。


 その特徴は、薄汚れた褐色の肌に、手入れのされていなさそうな跳ね放題の長い銀色の髪。


 ただ、そのまっすぐに見すえられた青い瞳は吸いこまれるように深く綺麗で、まるで昨夜見たあの月を思わせるようだった。


 すっ、と少女の右手が前にまっすぐに伸び、魔力を含んだ風がぶわりと巻き起こる。たなびく少女のマントの下があらわになった。


 ほとんど裸の褐色の肌。大事なところだけを隠すように申しわけ程度に巻きつけられた布。そして、その華奢な体の全身に刻まれた赤い紋様。


「あの娘、僕と同じ【闇】属性……? それもあの特徴って、まさか、呪紋使いカースメーカ―……?」


 知らず僕の口から声がこぼれる。



『『『ウォォォンッ!』』』


 それとほぼ同時。獰猛な本性を現し、魔狼たちがいっせいに少女へと向かって駆けだした。

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