マルセルの章 ㊶ 君に伝えたかった言葉 <完>
「イングリット嬢…」
その手紙に心を大きく揺さぶられた。俺だって本当はイングリット嬢と過ごす時間を無意識のうちに楽しんでいたんだ。だからあの店にも誘った。彼女の喜ぶ顔が見たかったから…。
「馬鹿だな…俺も…彼女も…」
イングリット嬢からの手紙を引き出しにしまうと荷造りの準備を始めた―。
****
翌朝、いつも通りに出勤しブライアンの後任として赴任してきた上司に医学部に入学が決まったので退職の意を説明した。上司はとても驚いていたが、立派な医者になってくれとエールを送った。そして引継ぎの為に5日間出勤し、退職する事が決定した。
「はい、では君にこの仕事の引継ぎを頼むよ」
隣の席に座る同僚の女性に引継ぎ分の書類を手渡した。
「ええ、分ったわ。でもそれにしても驚いたわ。まさか貴方が医学部に入学するとはね…。でもお父様が有能なお医者さまだからあり得ない話じゃないものね」
「まぁ…医者を目指すには少し年齢が高いかもしれないけどな」
「何言ってるの、まだまだ十分若いじゃないのよ。でも…そう言えば彼女はどうするの?離れ離れになってしまうじゃないの」
「ああ…その事なんだけどね。実は告白する前に振られたのさ」
「え?付き合ってたんじゃなかったの?」
「当たらずとも…遠からず…ってとこかな。さて、仕事の続きを始めるか」
そして俺は書類に目を落とした。
「え?ええ…」
同僚女性は首を傾げながらも仕事を再開した―。
そして俺は5日間で仕事の全てを引き継ぎ…最後に職場の皆から花束を受け取って退職したのだった。
ガラガラと走る辻馬車の中、花束に挟まれたメッセージカードに気付いた。取り出して目を通してみた。ガーベラとスイートピーの花束に託されたメッセージカードにはこう書かれていた。
『新転地に行っても応援している』
「そう言えば…俺が持って行った花束にはどんなメッセージが書かれていたのだろう…?」
馬車の中でポツリと呟いた―。
****
「ただいま帰りました」
花束を持って帰宅してきた俺を見て母がクスリと笑った。
「な、何ですか?」
「いいえ。やっぱりマルセルには…花束は似合わないなと思ってね」
「そうでしょうか…。でも美しい花束だと思いますよ」
テーブルの上にバサリと花束を置くと母が尋ねて来た。
「それで?出発はいつだったかしら?」
「明後日の朝10時初の汽車に乗ります」
「駅まで見送った方がいいかしら?」
「まさか、子供じゃあるまいし大丈夫ですよ」
「そう、分ったわ。それじゃ…2人で久しぶりにお酒でも飲む?」
母の言葉に首を振った。
「いいえ、これから手紙を書かなくてはいけないので遠慮しておきます」
「そう、分ったわ」
「それでは失礼します」
頭を下げると、母の部屋を退出した―。
そして、その夜俺はイングリット嬢に手紙を書いた。何をどう書けば良いのか分からず、結局短めの文章になってしまった。
「俺は文才が無いな…」
溜息をつきながら手紙を二つ折りにし、封筒に入れると封をして…再度ため息をついた―。
****
2日後―
ついに出発の日がやって来た。あらかた必要な荷物は寮に送っていたので手荷物はトランクケース1つのみだった。
エントランスまでは母が見送りに出ていた。
「それでは行ってきますね」
「ええ。寂しくなるわね」
母がしんみりした様子で言う。
「大丈夫です。来月また戻って来るのですから」
笑顔で俺は答える。
「そう言えば、来月アゼリアのお墓が出来るから皆で集まるのだったわね?」
「ええ、そうです。それでは母さん、お身体を大切にして下さい」
「マルセル、貴方もね」
そして親子の抱擁を交わすと俺は馬車に乗り込んだ。
『リンデン』の駅を目指す為に…。
****
9時45分―
『キーナ』の経由地である駅に向かう列車が停車しているホームに俺は立っていた。
「そろそろ乗り込んでおくか…」
懐中時計で時間を確認し、自分の乗る車両目指して歩いていると後方で女性の声が聞こえてきた。その声はどんどん近付いて来る。
「何だ?何の騒ぎだ」
ホームに立っている人達も驚いた様子で振り返っている。
「…ルセル様ーっ」
え?何処かで聞覚えのある声だった。俺は立ち止まって目を見開いた。
何とイングリット嬢がキョロキョロ辺りを見渡しながら人混みの中を走って来る姿が目に飛び込んできたからだ。彼女は手にトランクケースを握りしめている。
「イングリット嬢っ!」
名前を叫ぶと、彼女は俺の姿に気付いた。
「マルセル様っ!」
イングリット嬢がトランクケースを持ちながら駆け寄って来るので俺も彼女の元へ駆け寄った。
やがて俺達はホームで顔を合わせた。
「マ…マルセル…様…」
イングリット嬢はハアハア息を切らせながら、俺を見ている。彼女の髪はいつもとは違い、乱れ切っていた。
「イングリット嬢…」
すると彼女は目に涙を浮かべ、俺に抱きついてきた。
「マルセル様っ!わ、私迷惑だったのは…し、知っています…で、でも…あ、あんな手紙…は、ずるいです…」
俺の胸で泣きじゃくるイングリット嬢の髪を撫でながら言った。
「ごめん…。見送りに来てくれればと思って、出発日と時間に駅のホームを書いたんだけど…」
「だ、だけど…あんな『待ってる』なんて書かれたら…き、期待しちゃうじゃないですか…」
イングリット嬢はすすり泣きながら言う。
「俺も期待していたよ」
「え?」
イングリット嬢は涙に濡れた目で俺を見上げる。
「ひょっとしたら…来てくれるんじゃないかと思ってね」
「マ、マルセル様…」
俺はイングリット嬢を強く抱きしめると言った。
「まだ君に伝えていなかった言葉があるんだ。聞いてくれるかな?」
腕の中でコクコクと頷くイングリット嬢に言った。
「俺は…君が好きだ。伝えるのが遅くなってごめん…まだ、間に合うかな?」
するとイングリット嬢は俺を見上げると言った。
「間に合うに…き、決まっているで…っ!」
そこから先の言葉は塞がれる。
俺が彼女にキスしたからだ。
ボーッ…
そしてホームに汽車の発車が近づいた汽笛が鳴り響く。少しの間、抱き合ってキスしていたが、やがてどちらからともなく唇を離すと俺は言った。
「行こうか?『キーナ』へ」
「…勿論…貴方とならどこへでも…っ!」
「よしっ!行こう!」
俺はイングリット嬢の手を握りしめると2人で汽車に乗り込んだ。
イングリット嬢が両親の許可を得て、ここにやって来たのかなんてもうどうでも良かった。
何故なら俺はもう彼女の手を離すつもりは毛頭無いのだから。
天国のアゼリア。見ていてくれているかい?
俺もようやく運命の相手を見つけたようだ―。
<完>
※次回はヤンの話になります
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