カガンマ

田中ざくれろ

第1話 カガンマ

 丘のてっぺんに建つ家は、この近所でよく話される都市伝説の舞台になっている。

 そこを探検したいと信一が言ったのは、その都市伝説に出てくる家の住人が漫画家だという話を聞いたからだ。

 最近、この町に引っ越してきた信一は漫画が大好きだった。特にホラー系が大好きで少年漫画も少女漫画も青年漫画も実録物も、手に入る限りの物は全部読んでいた。

 同じクラスになった真帆ちゃんも同じ趣味から友達になった。

 この少女は『みえるひと』だという。

 ホラー漫画を読んでは「この幽霊の描写はあり得ない」とか「この漫画の作者もきっとみえるひとだ」とか「みえないひとはこんな見え方するって思ってるんだ」とかよく言っていた。

 一〇歳にしては二人とも子供は読まないような大人びた漫画も読んでいたが、真帆は怖がるよりも研究で読んでいるといった感じが強かった。

 その信一と真帆が最近に知った都市伝説はこんな内容だ。

 丘の上の古い一軒家は『あかがねだいち』という昭和時代のホラー漫画家が建てた家。

 当時、売れっ子だっただいちは不気味なクリーチャーとリアリティのある設定の漫画を得意にしていた。

 そのだいちの担当をしていたある出版社の編集者は、その家で原稿の出来上がりを待っている時、つい興味でだいちが立ち入り禁止にしている地下室を覗いてしまった。

 するとその部屋には空想の産物であるはずのクリーチャーの剝製など標本や、古今東西の最近使われた痕跡がある様様な拷問器具が所せましと置かれていたのである。

 編集者は原稿を取らずにすぐにその家から会社に逃げ帰った。といっても原稿を取らないわけにはいかないから後輩の編集者に代わりに取りに行かせた。

 すると、その後輩の編集者はそれっきり行方不明になってしまった。

 担当編集者はその事を編集長に伝えたが、それは上司も知っていたらしく、そこから出版会社の社長と警察らしき場所に電話すると「君はこれ以上、何もしなくていいから」とだけ言って、担当編集者をそのまま家に帰らせてしまった。

 次の日、編集者はあかがねだいちの担当から降ろされたが後を継ぐ者はなく、この出版社の雑誌から、いや漫画界そのものからあかがねだいちの名は消えてしまった。

 全国の本屋からあかがねだいちの漫画は全て回収された。

 それからはどんなニュースを集めてもあかがねだいちの行方は解らなくなり、風の噂では彼の家にのりこんだ警察は何も発見出来ずに引き上げるしかなかったという。

 そして主のいなくなったあかがねだいちの家は無人になった。だが、今まで何人も度胸試しに踏み込んだ人間がいたが彼らは全て行方不明になってしまったのである。

「ネットでググってもあかがねだいちの作品なんか読んだ人もいない、ってのにね」

 真帆はスマホで検索した結果を信一にも見せた。

 それは信一も既に調べてある。尤もスマホには子供用のフィルタリングが親にかけられているのでそのせいがあるかもしれない。

 とりあえず、あかがねだいちの名前は、この都市伝説の中にしか出てこない。

 この漫画家の作品に関する事は全くなくて、確かに痕跡も発見出来ない。

 幾らなんでも昭和時代に売れっ子だった漫画家の名がこの近所限定の、しかも最近の都市伝説の中にしかない、というのは信じられない事だった。

「探検ね……、嘘を嘘だって調べるってのは面白そうね」

 真帆ちゃんはやっぱり研究目的でのってきた、と信一は察した。

 そして二人は荒れ放題の森になっているあかがねだいちの家がある丘のふもとに立っていた。

「真帆ちゃん、見える?」

「それがねえ、何の気配もないのよ……」

 立ち入り禁止の看板がかかった鉄門の金網の塀を乗り越えた真帆は、ベリーショートの頭をあちこちへと巡らせた。

 真帆の猫の様な瞳は「みえる」はずだった。

「ここまで何の気配もないのはありえないくらい、シーンとしてるのよ」

 金網を乗り越えるのに手を貸してもらった信一はいつもの様に「その木の陰に霊がいる!」と驚かされるんじゃないかと思ったが、今の真帆は凄く真面目な態度をとっていた。

「痛ッ!」

 塀を乗り越える時、信一は掌を錆びていた金網に擦ってしまった。

 幸い、利き手ではないが、血がにじむほどの傷だった。

 それを確認した真帆は「探検するんなら絆創膏を持ってくるべきだったわ」と傷をハンカチで縛った。

 信一は掌の痛みを、自分が夢を見ていない証しとして自覚した。

 二人はLED懐中電灯を点けて、鬱蒼とした石の階段を歩き始めた。

 ちょうど今は黄昏時。昼と夜が曖昧に混じる時間で、暗い森の中では夜同然だった。

 やがて丘の頂にある一軒家についた。

 古い洋館にも似た高級そうな家だが、永い年月で恐怖感を増した様に不気味だった。

 LEDで照らしても影が深かった。

 印象として、黒い家だ。

 玄関のドアが誘う様に開いていたが、その付近は永年(ながねん)の風雨にさらされていたせいでひどく汚れている。誰も訪れていない、というのが本当だと解る。

「入る?」

 信一が訊くよりも先に真帆の足が動いていた。

 暗さはまるで森の延長線であるかを示している如くだ。

 信一は懐中電灯を持つ利き手と逆の手でスマホを動画撮影モードにして前に向けた。ハンカチを巻いた手にスマホを持つ。

 縦長の画面で真帆の背が家の中を進むのが撮影されている。

 腐っているらしい床が、水分を含んだ絨毯の下でギイと鳴る。

 真帆は何も感じていないらしく平静だが、信一はこの廃れきった不気味な雰囲気にを探検しようと言った事を後悔していた。

「とりあえず地下室を見て、……何もない事が確認出来たらいいよね」

 信一はまっすぐ奥へと続く廊下に並んだドアの一つが開くのではないかと怯えたが、真帆はそれに答えてくれなかった。

 考えてみれば両側に並ぶドアを開ける気持ちになってなかった事が既に異常だったのかもしれない。

 奥へ行くのが地下室への道だろうと、特に根拠もなく信一は思う。

 闇を削るLED懐中電灯の強い光が、廊下の突き当りは左右の三叉路になっているのを教えてくれる。既に後方の玄関は遠かった。

「!」

 真帆の全身が緊張した。

 信一は確かに何処から響いた声を聴いていた。

 ……この家から出して下さいよー、という若い大人のかすれた叫び声。

 都市伝説からすると後輩の編集者という事か。しかし、勿論、今も生きているなどとは思えない。

 実はこの都市伝説には続きがあった。

 この家の中に入ってあかがねだいちに出会っても呪文を唱えれば退散する、という、とってつけたみたいな話だ。

 あかがねだいち。

 だいちの『だ』は堕天使の『だ』。

 だいちの『い』は忌まわしいの『い』。

 だいちの『ち』は血まみれの『ち』。

『カシマレイコ』の都市伝説のパクリみたいだが、呪文は確かこの通りだ。

「来るわ」

 真帆がはっきりと呟いた。

 心臓が高鳴る。

 壁を照らす強力な白い光。三叉路の左の道からやってくる影は、みえるひとではない信一にもはっきり見えた。

 それは足の長い蜘蛛の印象で、実際に通路に張り渡した黒い蜘蛛の巣に乗っていた。

 恐怖の中、LEDの眩しい照明がくっきりと黒い影を壁に焼きつける。

 人間だった。

 少なくともかろうじての外見は。

 それの這いつくばる四肢はとても長くて蜘蛛を連想させ、全身が赤と白のボーダー模様で覆われていた。

 やせ細った青白い中年男の顔がこちらを振り向いた。白眼の部分と唇の色がインクの黒になっている。

 そのあかがねだいちと信一と真帆の眼が合った。

 恐怖。

「カガンマ!」

 高い声でそのクリーチャーが叫んだ。

 無音歩行。突き当りの廊下をこちらへ歩いてきた。

 あかがねだいちの身体は宙に浮いている。両手の指先が全て付けペンのペン先になっていて、そこからインクがか細く噴き出て、まるで蜘蛛が糸を張る様に黒い一本の線を引くのだ。

 その黒い糸を張り巡らしながら、その上に乗り、あかがねだいちはこちらへ向かってきた。

 信一は悲鳴を挙げた。

 よくスマホを手離さなかったと思う。

 不可解で不気味なクリーチャーが向かってくるのと対峙しながら、懐中電灯を構える真帆は逃げる姿勢を見せなかった。

「あかがねだいち!」

 だいちの『だ』は堕天使の『だ』……」

 真帆は呪文を叫び始めた。

 しかし、次の瞬間、あかがねだいちの右手の指先から五本の黒いインクが、蜘蛛の糸の様に伸び、真帆の身体に絡みついた。

 あっという間に無限に出るかの様なインクの糸に何重にも絡めとられた真帆は、全身を拘束され、あかがねだいちの手元へと軽軽と引き寄せられた。

 動画撮影の縦長の画面でクリーチャーはにやりと笑った。

 その途端、廊下の側壁に並んだ全てのドアが一斉に開いた。

 それぞれの部屋から一体ずつ出てきたのは、不気味で異彩を放つおぞましい怪物達だった。

 立体的でありながら全てモノクロームで、あかがねだいちがこれまで描いてきた漫画のキャラクターである事はすぐに想像出来た。あかがねだいちの凄まじい画力とオリジナリティがこれで解った。

 膨れ上がり、大鎌を構え、或いは触手だらけの短い手足を持つ恐ろしいクリーチャーは、信一の背後をふさぎ、生臭さと共に立ちはだかった。

 信一は廊下にへたりこんでいた。股間に熱さを感じる。恐怖のあまり失禁していた。

 あかがねだいちががんじがらめになった真帆を後方に置いて近づいてきた。

「あかがねだいち!」

 勇気を振り絞って、信一は泣きながら叫んだ。

「だいちの『だ』は堕天使の『だ』。

 だいちの『い』は忌まわしいの『い』。

 だいちの『ち』は……ちは、ちは……」

 ! 何という事だ、思い出せない。

 恐怖のあまりかこの土壇場に置いて、呪文の最後をど忘れしてしまった。

 あかがねだいちが不気味に笑いながら、近づいてくる。

 信一の退路を阻むクリーチャーの群と共に。

 もう、息がかかるような距離だ。

 撮影画面の中で長細い右足が動き、信一の手からスマホを弾き飛ばした。すると巻いていたハンカチもふっとぶ。

 信一は掌の生生しい傷をあかがねだいちの眼につきつける形になった。

「ち、血ーっ?」

 あかがねだいちの顔が信一の掌の赤い血を見てとっさに退いた。

 信一はそれを見て思い出した。

「だいちの『ち』は血まみれの『ち』!」

 そう叫んだと同時に、あかがねだいちの蜘蛛の様な身体が「ギャァーッ!」と大きな声で叫んで後方に飛び退った。

 信一を取り囲んでいたクリーチャーがまるで修正液をかけられた様に一斉に消滅した。

 その隙に信一の身体の恐怖の束縛が薄れた。

 起き上がって、振り返り、LEDの強力な白光を振り回しながら玄関へと走った。

 開け放たれた玄関をくぐって家を脱出し、外の暗い階段を泣きながら駆け下りた。階段は来た時よりも随分と短いように思われた。

 もう陽は落ちて、外はとっぷりと暗かった。

 丘の下の門に来た時、信一は大変な事を思い出した。

 真帆ちゃんを置いてきてしまった!

 気づいて振り返って階段を見た時、信一はおかしな事に気がついた。

 階段がゴミだらけで随分と汚れている。しかもペイントスプレーで描いた落書きだらけだ。

 ついさっきまで階段はこんな風ではなかった。暗いながらも整然としていた。

 懐中電灯で丘の前の門を照らす。

 来た時とは全く違っていた。

 鉄門は封鎖されておらず、立ち入り禁止の看板は叩き折られ、ゴミだらけだった。

 あちこちにグラフィティや不良が描いた落書きだらけで、ここがそういう人間達の溜まり場になっているのは明らかだった。

 丘の上へと懐中電灯を向けた。

 そこにある一軒家はさっきまでいたのと違う物の様に思えた。雰囲気が違う。全く怖さがない。丘も随分と低く思えた。

 まるでわけが解らなかった。

 虫の声の中、失禁した下着の冷たさを感じながら、涙にまみれた信一は呆然と立ち尽くす。

 今、あの家に戻ってもあかがねだいちにも真帆にももう会えないだろう。

 ただ、その虚無感だけが胸を埋め尽くしていた。


 小田真帆の行方不明はその夜から事件として騒がれ、翌日にあかがねだいちの家の捜索が行われたが警察は何も得る事はなかった。

 信一はさんざん、大人達から事情の聴取を受けたが、正直に語った話を誰にも信じてもらえなかった。

 真帆は帰ってこなかった。

 少女の家族からさんざん恨まれたが、信一にはどうしようもなかった。

 あかがねだいちを撮影した信一のスマホもあの家からは見つからなかった。

 解りきった事だが、あの家はあかがねだいちという漫画家が住んでいた家ではなかった。

 あの丘は都市伝説だけが独り歩きし、地元の不良達が度胸試しと称してたまり場にしているだけの荒れ果てた廃墟だった。

 何が何だか解らなかったが、自分は都市伝説という『異界』に踏み込んだのだという感想で納得するしかなかった。異界というのも真帆がよく使っていた言葉だ。

 もしかしたら異界はみえるひとを待っていたのかもしれない。

 やがて事件は嘘だったみたいに皆に忘れ去られていった。

 真帆のいない日常にも慣れたが、ただ恐怖の記憶だけは信一の心に深く残っていた。

 あれは異界の中だけで完結した出来事だったのか。

 そうは思えなかった。

 何ヶ月か経って、信一が愛読している少女系ホラー漫画誌に次のような予告が載っていたからだ。


『なつかしのあかがねだいち先生、恐怖の新連載!

 スプラッタコメディ『身代わりいけにえマホちゃん☆』次号より連載開始!』

(中世の拷問道具アイアンメイデンに入れられた、ベリーショートの少女のポップなイラストがそえられている)


 その予告は信一を戦慄させた。

 異界の丘の上で、少女を餌に信一をおびき寄せようと一匹の大蜘蛛が待ち受けている気がした。

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