4-3

 折よく、翌日が古木デンタルクリニックの休診日だった。

 僕は奈々子と一緒に、両桜線での聞き込み調査を実施することにした。朝から電車に乗り込み、女性の乗客から話を聞くのである。

 八時二十分に、桜上水駅で僕らは落ち合った。

 奈々子は朝から上機嫌だった。

「なんか探偵みたいでテンション上がるね」

「痴漢の犯人捜しなのに、やけに嬉しそうだね」

「だって、聞き込み調査なんて、歯科衛生士をやってたら経験できないことだもん」

 八時半の電車に乗り、とりあえず経堂を目指す。

 車内には、六、七人の女性客がいた。誰も彼も眠たそうにしており、どうにも声をかけづらかった。

 しかし、探偵ごっこにテンションが上がっている奈々子は躊躇しない。座席で目を閉じている会社員風の女性に近寄り、揺すぶるようにして肩を叩く。僕はドア付近から様子を窺った。

 会社員風の女性が跳ねるようにして目を開けた。

「なんですか?」

「お休み中のところ申し訳ございません。少々おたずねしたいことがございます」

 奈々子は満面の笑みだった。

 会社員風の女性は露骨に嫌な顔をして「すみません」と顔を背けた。

「少々お時間いただいてよろしいでしょうか?」

「本当、すみません。眠いんで、すみません」

 女性は聞く耳を持たないようだった。

 奈々子が諦めて僕のもとへ戻ってくる。

「だめだった」

「急に肩を叩いちゃ失礼だよ」

「でも、できるだけ笑顔で、丁寧な言葉遣いをしたんだけど」

「行動は無礼なのに発言が礼儀正しいと、警戒心を余計に煽ることがあるからね。柔和な笑顔で人をぶん殴る人のほうが怖かったりするでしょ」

 僕らは車両を移動した。

 今度は奈々子を後ろに立たせて、僕が声をかけることにした。

 眠そうな人や、読書している人、スマホをいじっている人などを避け、ドア付近でぼんやりと佇んでいる三十代くらいの女性に話しかけた。

「あの、すみません」

「え、はい?」

 女性が顔をこちらに向ける。

「ちょっとお伺いしたいことがありまして」

「はい……」

 女性が僕の背後を気にしている。振り返ると、奈々子が無表情で女性を睨みつけていた。私服の奈々子はワイルドな印象なので、表情がないと途端に迫力が増す。

「ちょっと、奈々子ちゃん、睨んじゃだめだよ」

「笑わないほうがいいんじゃないの?」

「程度の問題ってやつだね」

「あの……どうしたんですか?」

 僕は女性を振り返り、奈々子を紹介して、事情の説明をした。怪しまれるといけないので、「誰もいないのに触られる」という部分は割愛した。

「この電車で痴漢ですか……?」

 女性は痴漢と聞いて、僕らに対する警戒心を解いたようだった。奈々子に同情しているのか、親身な態度を取ってくれてはいるが、事情を知っているわけではなかった。

「ごめんなさい、犯人に心当たりはないです」

「この電車で痴漢に遭ったりとかって経験はありませんか?」

「ほかの電車でならありますけど、この電車では一度もありません。ごめんなさい」

「そうですか。すみません、ありがとうございました」

 それから二、三人、女性に声をかけてみたが、誰ひとり、情報らしい情報は持っていなかった。

 気がつくと、電車は赤堤駅を通過していた。

 次の一手を模索していると、奈々子が「あ!」と小さく叫んだ。

「また、触ってる! お尻!」

 僕らの周囲に人はいない。僕は奈々子のお尻を覗き込んだ。

 ジャケットの裾が上下に小さく揺れていた。

 つまむと、裾は落ち着き、元の位置に戻った。

 電車が経堂に着いた。

 僕らはいったんホームに降りた。

「これってもう怪奇現象だよね!」

 奈々子はますます興奮しているようだった。声も高くなっている。憧れの芸能人と出会ったかのようなはしゃぎようだ。

「やけに嬉しそうだけど、そんなに嬉しいの?」

 試しに訊ねてみると、奈々子が目を丸くして素早く頷いた。

「なんかね、こんなことを言うと変なんだけど、痴漢に遭うようになってから、調子がすごくいいんだよね。マッサージを受けたみたいに体がスッキリするというか」

「へぇ。興味深い話だね」

「ただの痴漢だったらキモいだけだけど、もしこれが非科学的な現象だったら、霊的なパワーを持ってるかもしれないじゃん」

「たしかに」

 あながち間違っていないような気もした。妖怪の中には、遭遇した人間に害悪ではなく幸運をもたらす類いのものもあるのだ。

 今回の犯人も、そのような種類の妖怪なのかもしれない。

 僕らはもう一度電車に乗り、桜新町駅を目指した。

 経堂、桜新町駅間では痴漢は現れなかった。

 そのまま折り返し、桜上水駅を目指した。経堂駅を通過すると、奈々子がお尻を僕に突き出して「また触ってる!」と叫ぶ。

 それから僕らは正午前まで、両桜線を往復し続けた。

 それでわかったことは、この現象が経堂赤堤駅間のみで発生するということだった。また両桜線で痴漢被害に遭ったり目撃したりという人間はひとりもいなかった。つまりこの現象は、奈々子に限って起きているということだった。


 経堂で昼飯を食べた後、僕らは桜上水まで戻り、解散した。

 奈々子は夕方からデートへ出かける予定があった。相手の男は先日参加した合コンで知り合ったイケメンらしい。

 僕は家へ帰り、ネット記事の原稿を片付けながら両桜線の痴漢事件についてネットで検索した。しかし、両桜線で痴漢被害に遭ったという報告はどこにも見当たらなかった。

 夕飯を食った後に、僕は岩島に電話をした。もしかするとなにか知っているかもしれないし、仮に知らなかったとしても、岩島は新しい都市伝説を探しているのだ。

「もしもし、岩島?」

「ああ。どうした?」

 岩島の声は普段以上に低かった。

「今、なにやってる?」

「動画の編集」

 おそらく一日中家にこもっていたのだろう。

 僕は手短に、奈々子の体験している現象について説明した。最初は小さかった岩島の相づちがどんどん大きくなっていった。

「おい、経堂駅って言ったよな?」

 岩島が強い語気で確認した。

「ああ、うん。経堂駅と赤堤駅の間」

「その駅間で、お尻を触るんだよな?」

「ああ、そうらしいんだよ、傍目にはジャケットの裾が捲れているだけにしか見えないんだけどね」

「おおおおぉ」

 電話の向こうで地鳴りのような音がした。

「おおおおおおおぉ」

 なにかが琴線に触れたのか、いつまでも咆吼をやめない。

「おおおおおおおおぉぉぉぉ」

 むしろどんどん大きくなっていく。

 結局岩島は一分ほど唸り続けた。頭がおかしくなったかと不安に思っていると、突然ピタッと止んだ。

 間髪入れずに叫ぶ。

「それはオシリサワリかもしれない!」

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