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行田が置いていった「orange」を細かく観察したが、やはり異様な点は見受けられなかった。
柑橘系のフレイバーがついているだけの、変哲のない煙草である。試しにベランダに出て一本吸ってみると、久しぶりの喫煙に体がびっくりしたのか、またはニコチンの量が多いのか、ひどいヤニクラに襲われた。
ネットで検索をかけてみた。オレンジは確かにイギリス、正確にはイングランドで生産されている煙草であるらしい。柑橘系のフレイバーが特徴で、主に若い女性に人気があるとか。日本では基本製造販売されておらず、吸いたい場合はイングランドへ行くか、独自に輸入している煙草専門店で購入するしかないようだ。
数少ない輸入店舗が行田のアパート付近にある煙草屋だったのだろう。
とにかく手元にある情報だけでは、今回行田が言っていた怪現象の謎を解明することはできそうになかった。明日行田の家へ行き、現場検証でもやってみようと考えながら、その日は眠りについた。
翌朝八時頃に目を覚まし、寝室からキッチンへ行って牛乳を飲んだ。寝ぼけ眼のまま窓際へ行き、カーテンを開ける。夏の日差しが差し込んできて、室内の気温が一気に上昇した。
窓の外のベランダには、鯖味噌の空き缶が置きっぱなしになっている。その空き缶は、昨日煙草を吸ったときに灰皿代わりに利用したものだった。
僕はデスクの上に置いていたオレンジを手に取った。箱の中で煙草が転がる。蓋を開けてみた。中に煙草が六本入っていた。
「あらら?」
数え直す。やはり六本しかない。
「んん?」
一本足りない。
僕はデスクの周りを確認した。デスクの上はもちろん、デスクの下にも煙草は落ちていなかった。
窓を開け、ベランダの空き缶を覗いた。吸い殻は一本しかない。
途端に眠気が消えた。
煙草がなくなっている。
僕は煙草をショルダーバッグに入れて部屋を出た。
行田のアパートは京王線八幡山駅前の
電動アシスト付き自転車をかっ飛ばせば、マンションから八幡山駅まで十五分もかからない。
八幡山駅近辺は例の殺人事件が起こったエリアになる。アパートが近づくにつれて警察車両が増え始めた。僕は周辺を歩き回る警察官を横目で見ながら自転車を飛ばした。
道中は風を感じてそれほどではなかったが、行田のアパート前に自転車をとめると、湿っぽい夏の暑気が纏わり付いてきた。汗がドバッと一気にあふれ出す。
汗を拭いながら、一階角部屋のチャイムを鳴らす。ドタドタという足音がドア越しに近づいて来る。
すぐにガチャリとドアが開き、髪の毛がボサボサの行田が、白いTシャツとボクサーパンツだけ穿いた姿で僕を出迎えた。
「なんだよ、昼過ぎに来るんじゃねぇのかよ」
「そのつもりだったけどさ、事情が変わったんだ」
行田の部屋は2Kで、玄関を入るとすぐがキッチン、その奥に四畳半の居室、さらにその奥に六畳の居室が連なった間取りになっている。
キッチンにはペットボトルがパンパンに詰まったゴミ袋がいくつも転がっていた。
「ペットボトル捨てたらどうだい」
行田は頭をかきながら、ゴミ袋をまたいで冷蔵庫の前に立った。
「ペットボトルの回収日は第一木曜と第三木曜の隔週なんだよ。今週が何週目かなんて、わからねぇだろ」
「それでゴミ出し忘れてこんなに溜まってるってことね。カレンダー見ろよ」
「なんでペットボトルの回収日は隔週なんだよ。瓶と缶は毎週あるのにさ。炭酸飲む?」
行田が冷蔵庫を開けて訊ねた。小さな冷蔵庫には、ペットボトルの炭酸水が五本入っていた。
「牛乳ある?」
「牛乳だったもの、はあるけど」
「炭酸でいいや」
行田から炭酸水を受け取り、僕らは四畳半の居室に入った。そこにもペットボトルが無数に転がっている。
向かって左側の壁に背をつけるような形でひとり掛けの座椅子が置いてあり、真ん中にはノートパソコンが載った小さなローテーブル、右側の壁には二十インチほどの液晶テレビが床に直置きされている。エアコンは万年床が敷いてある奥の六畳間にしかついておらず、開け放しになった引き戸の間から冷たい空気が流れてくる。
「で、事情が変わったってどういうことなんだ?」
行田が座椅子に腰掛けて言う。僕はペットボトルをかき分けスペースを作り、そこに腰を下ろして、ショルダーバッグからオレンジを取り出した。
「おまえの言うとおりだったよ。消えたんだ」
行田が炭酸水を飲んでいた口を離して目を見開く。
「やっぱり消えただろ? 本当だったろ?」
「うん。今回は一本消えてた」
「ん? 六本しかねぇじゃねぇか。二本消えてるよ」
「いや、もう一本は昨日俺が吸った」
行田は嬉しそうにオレンジの本数を数えている。僕は炭酸水をひと口飲んだ。炭酸が強く、少しむせた。
「なんだよ、このくらいの炭酸でむせやがって」
「そんなことよりも、この煙草、どこで買ったって言ってたっけ?」
行田は親指を背後の壁に向けた。
「ちょっと行ったところにある煙草屋。行ってみるか?」
僕は頷いた。
煙草屋は十一時に開店するとのことだ。まだ二時間近く時間がある。
行田がシャワーを浴びるというので、僕はその間、テレビを観た。朝のワイドショーで例の殺人事件について報じている。犯人は未だ捕まっていないらしい。
僕はテレビをつけたまま、台所へ向かった。換気扇の下に、セブンスターと灰皿が置いてある。行田は普段ここで、煙草を吸っているのだろう。灰皿は蓋付きで、開けてみるとゴミに出したばかりなのか、吸い殻が一本入っているだけだった。
四畳半の部屋に戻る。チャンネルを変えると、別の番組が殺人事件について報じていた。
「ああ、その事件、すぐそこだぜ」
上半身裸の行田がタオルで頭を拭きながら部屋に入ってきた。
「妙な事件なんだよ」
苦笑いしながら言い、炭酸水を飲む。
「妙ってなにが? 犯人全然わかんないの?」
「ああ、犯人の目星はついてねぇとさ。というよりな、事件現場に犯人の侵入した形跡がねぇんだよ」
「密室殺人ってこと?」
「ああ。戸締まりはきちんとされてたらしいしな。強引に押し入られた形跡もねぇ。足痕も指紋もなんにもねぇ」
「怖いもんだな」
「唯一の手がかりは、現場に残された煙草だけなんだよ」
「ああ、被害者が吸ってたやつ」
「殺される直前に煙草吸ってるってことは、犯人は被害者の知人である可能性が高いんだけど、被害者に共通点がねぇからよくわからねぇんだよ。まぁ、俺は捜査には一切係わってねぇから、考える必要ねぇんだけどさ」
気にはなったが、刑事事件に首を突っ込むほどおっちょこちょいではない。僕はあくまで道楽で、調べごとをするだけなのだ。
行田が髪の毛を乾かすのを待っている間に、十一時近くなった。
僕らは煙草屋へ向かった
環八通りを横断し、京王線芦花公園駅のほうへ住宅街を五、六分歩く。すると、車が一台通れるか通れないかくらいの道沿いに、小さな個人商店があった。
「ここが、その煙草屋」
看板は出ていない。ガラス越しに中を覗くと、食品や生活雑貨などが並んでいるのが見える。規模の小さなコンビニという感じだ。
「へぇ、こんなところにこんな店があるんだね」
「おれもこの間見つけたんだよ。多分、最近できたんだと思う」
交番勤務の行田が知らなかったと言うのだから、きっとそうなのだろう。ただ、行田は交番のおまわりさんとしての能力は決して高くないから、ただ単に知らなかっただけという可能性もあるが。
行田がガラガラとガラスの引き戸を開け、中に入った。後に続くと、エアコンから吹き出る冷たい空気が全身の熱気を吹き払った。
「いらっしゃい」
レジのところに座っていた五十がらみの男が口を開いた。痰の絡んだような、しゃがれた声だった。
「おじさん、この間ここで買ったオレンジだけど」
行田が声をかける。店主とおぼしき男は表情を変えずに行田を見た。
「あの煙草、妙なんだよ」
「ワンルームか?」
店主がよくわからない質問をする。
「え? おれの部屋? いや、ワンルームじゃないよ」
「寝煙草さえしなけりゃ大丈夫」
「いや、しねぇけどさ」
「寝煙草さえしなけりゃ大丈夫」
店主はそれしか言わない。
僕は店内を見回した。スナック菓子、カップ麺、飲料品、酒、洗剤……特に変わったものは置かれていない。と、そこで気がついた。
煙草が見当たらない。
ここは煙草屋のはずだし、実際、行田はここで煙草を買っているはずである。
「あの、煙草ってどこにあるんですか?」
僕が訊ねると、店主がレジ台の上にあるパウチされた紙をこちらへずらした。見ると、煙草の銘柄がリストになって書かれていた。
「ここから欲しい銘柄選ぶと、おじさんが裏から取ってきてくれるんだよ」
行田が説明する。店主の背後には、ガラス部分が段ボールで覆われたアルミ枠のドアがあった。
「へぇ、手間のかかることをするんですね」
と、僕が言ったときだった。
店の外から声が聞こえた。敵意のこもった声だった。
「煙草は、害悪です! 煙草は、人を殺します!」
見ると、店の外で五十代くらいの男性がひとり、店に向かって叫んでいた。たすきをかけており、プラカードを胸元に掲げている。
プラカードには「煙草撲滅」と大きく書かれていた。
「またあいつか」
行田が苦笑いで首を横に振る。
「またあいつって?」
「ああ、ちょっとした有名人だよ。ここんところずっと、ああして毎日のようにひとりデモ活動をやってんだ。来るたびにいるよ」
「警察はなんにもしないの?」
「破壊行為をするわけじゃねぇし、暴力行為をするわけじゃねぇし。まぁ、やかましいって苦情が出るから、なんとかしないといけねぇって話にはなってるらしいけど。おれは管轄外だから」
「そういうもんなのかね」
男の目は血走っていた。悪魔に取り憑かれたように、「煙草は人を殺します!」と繰り返している。
「おじさん、本当にあの煙草大丈夫なんだろうね? 呪われてるとかないよね?」
行田が若干声を大きくして再度訊ねる。店主は表情を変えない。悪魔に魂を抜かれたように力のない目で行田を見て、
「寝煙草さえしなけりゃ大丈夫」
「ああ、もうわけわかんねぇや。おう神市、もう行こうぜ」
行田が苛々した調子で言って店を出た。
外に出ると、ひとりデモを行っている男の声がはっきりと聞こえた。男の顔は日に焼けていて、赤くなった皮膚の上を大量の汗が流れている。
「関わらねぇほうがいい」
行田が低い声で言い、早足で来た道を歩き出した。僕もその後を続いた。男の声がだんだん遠くなっていく。
結局、煙草が消えてしまう謎の手がかりはなにひとつ掴めなかった。むしろ、「寝煙草さえしなけりゃ大丈夫」と繰り返す店主により、謎は深まったと言えた。しかし、調査は始まったばかりである。
僕はますます深みにはまっていく謎に興奮し、暑さを忘れてニヤニヤした。
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