死神サマと幸せの唄

つきかげみちる

第1話 プロローグ





『ロイ、これが最終試験だ。そなたの実力ならばこれしきのこと容易いだろう。合格すればそなたは約束通り昇格だ。ただし、失敗すれば……』


 暗がりの空間に大魔神アズラエルの声が響く。此処はもちろん、人の世ではない。


『ご戯れを。この私が失敗するはずございません』


 アズラエルの言葉を遮るように、若い死神が口を開いた。人の世ならば、美しいと形容されるであろう端正な顔立ち。すらりと高い背丈に、腰下まである漆黒の長髪。彼の名はロイという。彼は中級の死神だ。

 死神の世は実力社会である。実力のあるものは、富と権力を手に入れ、他の死神達の上に立つことができる。ロイのように優秀な死神は《上級の死神》になるための試験を受け、合格すれば魔界での地位は確固たるものになる。しかしそのための最終試験は最難関と言われ、合格率はごく僅か。この試験に、ロイの今後のすべてがかかっているのである。


 アズラエルは、手の内から赤黒く光るかたまりを放った。そしてそれを暗闇の中に現れた池のような水溜りに落とした。かたまりは水に落ちると形を変え、色を変えた。そして最終的には小さな金色の手鏡になった。そしてそのまま水の中に沈んでいった。


『では、行って参ります』


 ロイはそれを見届けると、手鏡を追うようにして水中に入っていった。

 そこは深く、底などないように思えた。ある程度まで沈むと、魔界と人間界との境目が現れた。

 ロイの目的は、この先の世……つまり人間界で人間の魂を奪うことだ。それもただの人間ではいけない。

 それは誰よりも幸福な人間でなくはならない。生前に幸せであればあるほど、その命を奪った死神は残酷だと讃えられ、上級としての箔がつく。すなわち、ロイの昇級のための最終試験は《最も幸せな人間》の魂を奪うことなのである。





―――


『ったく、人間界ってのは相変わらず騒がしいな』


 人間界にやってきたロイは、早々に悪態をついた。そして目の前の人混みと、馬車が行き交う喧噪に耳を塞いだ。

 煉瓦造り建物が連なった街を、一級品のタキシードを身に纏った男達や派手なドレスで着飾った女達が我が物顔で歩いている。そこは一見、華やかな場所に見えた。しかし隅に目をやると、浮浪者がうずくまり、貧しい子供が盗みを働き、痩けた娼婦が酒に溺れていた。そこは決して華やかなだけの街ではなかった。

 ロイは今まで何度もこの場所を訪れていた。此処には色々な魂がある。幸福なもの、そうでないもの。死神にとってこの場所は、絶好の仕事場だった。


『さて、あの鏡はどこだ?』


 ロイはふて腐れながら周囲を見渡した。身体は宙に浮いているが、人間にはロイの姿は見えていない。人型になることもできるが、ロイの場合は目立ってしまって仕事にならない。なので必要な時以外は、いつも人間には見えない状態でいる。

 ロイはあの手鏡を探していた。あれは今回の試験の要なのである。あの手鏡は大魔神アズラエルの手によって、この街のどこかに放たれた。そしてそれを一番最初に手にした人間こそ、今回の試験のターゲット―――すなわち魂を奪う対象となる。

 試験を合格するためには、あの手鏡を恵まれた人間に拾わせ、そのまま魂を奪ってしまうことが理想だ。

 しかし、平凡又はそれ以下の人間に鏡を拾われてしまえば事態はややこしくなる。その場合、ターゲットが幸福になるまで待たなければならない。もちろん時間がかかりすぎると不合格になってしまうので、そのような人間に鏡を拾われた時点でもう諦めてしまうほど望みはない。


『……裕福な若い女が狙い目だな。人間の女ってのは、金持ちと結婚さえできればすぐ自分を幸福だと思い込む』


 ロイはほくそ笑みながらそう呟いた。彼の思惑はかなりの偏見が入っていたが、この国の価値観からすると、あながち違いでもなかった。


 ロイは浮遊しながら鏡を探した。



「ちょっとお前、私の客に手ェ出しただろ!」


 掠れた女の声が裏路地から響き、ロイは眉を顰めた。女のがなり声はロイにとって不快なものの一つだった。


「ち、ちがうってば! 何もしてないし、あのオヤジが勝手にっ」


 そう反論したのは、まだ十代半ばぐらいに見える少女だ。少女は痩せこけており、身なりは汚なく、まるで浮浪者のようであった。そしてがなり声を上げたもう一方の女の方は娼婦のように見えた。

 このような光景はこの街の裏では大して珍しくはない。そのためロイは特に表情を変えることなく、二人の上空を通り過ぎようとした。


「言い訳したって許さないよ! 恩を仇で返しやがってッこのアバズレが!」


 娼婦の女が怒鳴り、パチンと言う音とともに少女は力なく倒れた。少女は頬を打たれたのだ。そして打たれた衝撃で口の中を切ったのか、口端から血が流れていた。


『……』


 ロイは倒れた娘を一見してすぐに視線を外した。長年人間を見ている彼からすれば、人とはこういうものなのだから仕方がない、それですべて片付いた。死神の彼にそれ以上の感情は必要なかった。

 そもそも死神は人間の争いなどに興味はない。そしてロイ個人としても、面倒な事には関わりたくないと思っていた。


『俺はあんなものには用はない……』


 そう吐き捨てて、ロイはその場を過ぎ去った。





 しばらく街を巡回していると、ロイは探していた手鏡を見つけた。それは裏路地を抜け、日陰になった場所に生えていた一本の木の上にあった。

 しかしロイはそれを見て絶句した。出だしから災難だと思った。なぜなら、その木にはカラスの巣があったのだ。手鏡はその巣で羽を休めていた鴉が嘴に咥えていた。


『くそ、煩わしい』


 人間界の鴉は全て大魔神の使者である。そのためロイが無理矢理に手鏡を奪えば、何かしら報復を受ける可能性がある。鴉自体には恐れはないが、その後ろ盾を考えるとロイは下手に鴉には近付けないのである。


 どうしたものか、ロイは頭を悩ませた。金持ちの娘を連れてきて、木に登らせ、あの鏡を鴉から奪還させるか。いや、こんな場所に娘を連れてくることなど不可能だ。薄汚いこの場所は金持ちの女は絶対に近寄らない。それに鴉の巣がついた木に登る令嬢など、この世界のどこにいるだろうか。いるはずがない。ロイはそう思い、溜め息を吐いた。


 すると背後からドタドタと品のない複数の足音が近づいて来た。もちろんロイの姿は人間には見えていない。ロイは足音に振り返ることなどせず、鏡をどうするかということだけを考えていた。


「おい、待て! 逃げるな!」


 無遠慮な足音たてた大柄な男が、木の前でそう叫んだ。叫ばれた相手は少女だった。そして男は少女の腕を乱暴に掴んだ。少女はその手を振り解こうと必死にもがくが、びくともしない。


「違うってば! 誤解だって言ってるだろ!」


 少女は甲高い声で叫んだ。ロイはその声に聞き覚えがあった。


『あいつはさっき裏路地にいた小汚い娘……』


 ロイは二度も自分の前に現れた少女を見て、そう呟いた。しかしすぐに興味は薄れ、視線を木の上の鏡に戻した。


「ナターシャから聞いたぞ。お前、一丁前に他人の客を奪ったらしいな」


「誤解だよ! ちょっと話をしただけじゃないか」


「ゴチャゴチャうるせぇ! とにかく、お前のしたことはルール違反だ。だからお前は金を払わなきゃいけねぇ」


「ええっアタシ、お金なんて持ってないよ?」


「そんなこたぁ知ってるさ! だが喜べ、こないだいい話を聞いてな」


男はそう言ってニヤリと不気味な笑みを浮かべた。そしてポケットから錆びついた工具を持ち出した。


「“歯”ってのは意外と高く売れるらしいぜ?」


 その言葉を聞いた少女の顔はサッと青くなった。


「いやっ! いやーーー!!! 離してよっ! 誰か! 誰か助けて!」


「うるせぇな。おら、黙って口開けろ! 一応女だから前歯は残してやるよ!」


「いっや! そんな気遣いいらないし!」


 男と少女は声を荒げて揉み合っているが、ロイは特に気にした様子なく聞き流していた。それよりも今のロイにとって大事なのは、あの手鏡である。


「やだやだ! 馬鹿! やめてってば!」


 少女は無理やりこじ開けられた口を力強く閉じて、男の指を噛み、怯んだその隙に男を振り払った。尻餅をついた男は、打ち所が悪かったらしく尻を押さえて悶えていた。少女はそれを確認すると、すぐに大声で叫んだ。


「誰かーー! 誰か助けて!!」


 よく通る大きな声だった。


 少女の声は、木の上の鴉を警戒させた。鴉はすぐさま翼を大きく広げ、そのまま空に飛び立った。ガアガア、という鳴き声だけが空に響いていた。

 鴉が飛び立ち、あの手鏡は行き場を失っていた。鏡は一度木の上に落ち、その後バランスを崩して静かに地上に降下した。


 ロイはその瞬間を見逃さなかった。今だ。鴉がいなくなればこっちのもの。鏡を奪って、こんな場所からは早く立ち去ってしまおう。そう思って足を進めた。


 しかし、どんな因果か。木から落ちた鏡は、枝々に跳ね返り、なんと少女の頭上に落ちた。


「いてっ……! って、なにこれ?」


『おい待て、女。それには触るな』


 ロイは慌てて声を発した。しかしそれは急なことで、人型に変化へんげする間さえなかった。よって死神姿で発せられた彼の声は、もちろん少女の耳には届かなかった。

 少女は地面に落ちた金色の物体を不思議そうに眺め、迷わず手を伸ばした。


『おい、まさか。やめろっ! 触るな! おいっ! おい―――!!』


 ロイの願いは虚しく、少女はすでに鏡を手に取っていた。

 頭が真っ白になった。

 そんな馬鹿な、ありえない。嘘だろ。最悪だ。ロイは声にならない声で嘆いた。

 彼の完璧な計画はこの瞬間にすべて崩れ去ってしまった。今までにないほどの絶望が一気に押し寄せた。


「なにこれ? よく分かんないけど、高く売れそうね……」


 ロイの絶望など知る由もない少女はそう呟いた。

 そんなことをしているうちに、尻を強打して蹲っていたはずの男が立ち上がっていた。


「なめやがって……このクソアマが。絶対にゆるさねぇからな」


「ま、まってよ! これあげるからさ! きっと高く売れると思うよ。だから今日のところは勘弁してよ!」


 少女は咄嗟に鏡を差し出した。本当は自分で売り捌いてしまいたいと思っていたが、歯を取られるよりはマシだと判断した。しかし、それだけでは男の怒りは収まらなかった。


「はぁ?! どうせ盗んだモンだろうが! 許すわけねぇだろ! 俺のケツの事情も知らねぇくせに、さっきはよくも突き飛ばしやがったな!」


「なによ! アンタのきったないケツのことなんて知らないし、知りたくもないわよ!」


 少女は叫んだ後にすぐさま後悔した。火に油を注いでしまったと自覚したのである。


「なんだとッ生意気言いやがって! ぶん殴ってやる!」


 男は顔を真っ赤にして、拳を振り上げた。少女は手鏡を盾にするように構えて、目をきつく瞑った。拳が来る。そう思って歯を食いしばった。


 しかし少女のもとには、なぜか拳は降りてこなかった。

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