第8話 元影武者、祭へ行くこと

***


 やってきたのは、いやに顔の整った男の子だった。子供の頃にこんな顔をした人形をもらっていたら、王子役か騎士役として乱用していたことだろう。

 枯草に似た薄ベージュ色のニットに少し大きめの夜色の上着を羽織り、貴族が習う手本のような優しい表情で微笑んでいた。服装と髪型が違えば女の子と見間違えていたかもしれない。


 対面の椅子へと笑顔で促しつつ、内心(困ったことになったわね)と思っていた。

 この体格なら、まさか欠員が出た馬小屋まで兼任させられるとは考えてもいないはずだ。こちらの落ち度だったが、そのぶんの賃金交渉すらしてこず拍子抜けする。訊けば未成年というし、まだまだ世間知らずなのかもしれなかった。


 虫も殺せなさそうな優しげな顔とやりとりしながら、首を傾げそうになるのを何度も堪えた。妖精のような男の子は、結果としてほぼすべての問いに嘘で返してきたのだ。

 そのわりに屋敷使用人としての感覚はしっかりと持ち合わせており、面接のあとまだ居座っている人間の話を振ると「(要約)屋敷仕事は魅力的なので気持ちはわかるが、ゴネても仕方がない」などと、どこか冷たさすら感じさせる私見を述べた。

 この冷たさには覚えがあった。春の民が持つ独特の合理性である。そこに悪意は決してない。

 あのお国はとにかく忙しく働く。時間の無駄と醜聞を嫌う国民性なのだ。ゴネてみっともない姿を晒すくらいなら、すっぱり諦めて他の求人をあたった方が早いという判断だろう。

 この辺りでは見かけぬ髪色からみても間違いない、きっと春の出身なのだ。


「いい名前ね」

気まぐれに名を褒めると想定外に年相応の顔を見せ、それは嬉しそうに口角を上げた。笑う菫色の瞳に懐かしさを覚えた。

「ありがとうございます、光栄に存じます」

――これは、本当。

「気に入っているのね」

はい、とても、と緩んだ頬は悪意の欠片もなく晴れやかだった。

 由来は? との私の問いかけに、彼は又聞きのような極少ない情報を至極大切そうに答えた。親に渡されたばかりの贈り物を、周りに披露して回る小さな子供のようだった。


 受け答えの仕方にスレたところはひとつもなく、拾われたばかりの子犬のような素直極まりない屈託のなさがあった。

 話す内容は嘘だらけなのに、悪意もなにも感じられない。悪意どころか、罪悪感すらひと欠片も抱いていなさそうだった。


 ルカをはじめ、外使用人のほとんどは信じてくれていないが、他人の嘘がわかるという話は真実である。自分でもなぜだかわからないが、わかるものはわかるのだから仕方ない。

 成人を機に、当主である父がジェシカに最初に寄越した仕事は使用人の面接担当であった。娘の能力を捨ておくのももったいないし、よくない輩は早めに弾いておこうというわけだ。おかげでうちは、おおむね質の良い使用人が揃っている。

 初対面の人間と話すとき、ジェシカが気を付けているのはひとつだけだ。

 ひとつも嘘がない人間が大陸にいないのと同様に、本当のことをひとつも話さない人間もそういない。なにに嘘をつくかなんて、実は些末なことだ。

 本当に大切なのは、その人間が話す真実がどこにあるか、である。


 そして目の前のこの彼に関しては、嘘だらけではあったが名に関する返答にはひとつも偽りがなく、名付け親のことを心から慕っていることがよくわかった。この子にとって、一番大切なのは名付け親なのだろう。

 そして一片の曇りもない眼で「ご命令に従います」と言った。こういった人間は根っから素直なので、屋敷に置いてもさほど悪いことはしないものだ。

 帝国から来た点など怪しいところは数限りなくあったが、簡単に切り捨てたくない気持ちが沸いていた。無垢なまでの裏表のない瞳。忠犬になるか猛犬になるかは、飼い主の性質次第だろうか。

 ……うちなら悪いようにはしないし、このままいい子に育つんじゃないかしら。


 なにより、ここで追い返したら罪悪感が沸く気がした。

 これでも自分の性格くらいわかっている。行く当てのない子供を見るのが苦手なのだ。放り出して、おなかを空かせやしないかしら。本当に大丈夫かしら、と思う。

 それが、あの日のルカを思い出してしまうからだとわかっていた。


***


「! 先輩、あれはなんですか? あちらの食べ物は? あれは何を、」

「お前はなぜなにどうして期の子供か??」

 後ろから上着のフードを掴まれ首が締まり、私は軽く咳き込んだ。


 四方八方から、肉の焼ける音と芳しい香りがする。

 懐かしいようでまるで覚えのない、嗅ぎ慣れない香りが全方位から押し寄せていた。普段足を運んでいる飲食街とは比べ物にならない数の屋台を目の当たりにし、両の拳を天高く突き上げたい気分である。

 よく考えて財布と相談しながら回る、と心に決めていたにも関わらず、取捨選択なぞ早くも頭から消し飛び、私は心の赴くがままに買い食いをしていた。

 最初は「……まさか考えなしに食ってるわけじゃないよな?」と心配してくれていたルカ先輩も、いまは諦めた顔をして好物だという季節のフルーツジュースを啜るばかりである。


 枯草の焼き払われた平地を囲うようにズラリと屋台が並び、会場の中央付近には出し物のためと思しき簡易な丸い舞台が誂えられていた。

 舞台では素人と思われるいくつかの楽団が、交代で数曲ずつ腕前を披露し祭に華を添え、祭を訪れた人々は飲み物を片手に思い思いの場所でそれを鑑賞していた(これまで、全方位から見られるような舞台や素人の演奏を見聴きする機会のなかった私は、目を丸くするばかりである)。

 会場内には櫓がいくつも点在し、自警団員が警備にあたっていた。ただ、赤くなった顔と千鳥足が目立つところを見るに、まだ昼時だというにすでに幾ばくか酒が入っているようである。平素のごとく、真面目に仕事をする気はないようだ。

 思っていたより客足は多く、昼時が近くなるにつれ駅の方角からいっそう訪れているらしい。


「おいレオ、肉が冷めるぞ」

「! そうでした」

 我に返ると、手に持った牛串からはまだ湯気が昇っており安心する。

 怒涛のように押し寄せる情報に、脳が追い付かないのだ。あれこれ質問攻めをしている私がたびたび唐突に黙り込むため、先輩は困惑したり呆れたりしていた。慣れぬ人の波に圧倒されてしまって、と申し開きをすると納得してもらえたが、隣ではしゃぐ人間が突然真顔になり黙り込むさまはさぞ不気味だろうなと思う。

 かぶりつくと、溢れ出る肉汁に普段より控えめな香辛料が効いていた。串だなんてはしたない食べ方だと最初は敬遠したものだが、このような場所で大勢の客に皿とカトラリーを渡して回るわけにもいかないのだろう。串一本で済むなら、合理的な判断だ。

 欲を言えば、パンか米も欲しいものだが。


 もう何度口にしたかわからぬ言葉が、自然と漏れ出た。

「祭とは、素晴らしい催しです……」

「そりゃなによりだ」

俺は酒が飲みたい気分だよ……と先輩は目を瞑り空を仰いだ。眉間をぐりぐりと揉みほぐしはじめた。

「? お疲れですか?」

「体力有り余る子犬に駆けずり回されたら誰だってこうなるだろ」

 子犬とは私のことだろうか。

 確かに、会場についてから「あれはなんですかこれはなんですか」「あれを食べてみたいですこれも気になります」「なにかいい香りがしますどの店の品でしょう探しに行きましょう」と先輩の制止の言葉も聞かず歩き倒してしまった。


「……ま、メインっぽいのはだいたい食えたんじゃないか」

串物に炒め物、果物の類だろ、と指折り数えられ首を捻る。体はまだ食べると言っている。

「さようで? まだなにかなかったでしょうか、せっかくなので屋台の全制覇を目指したかったのですが、」

「全部まわる気でいたのか……」

破産願望でもあるのか? と続き首を振った。

「つうか食べまくってるけど大丈夫なんだろうな? 貸してやれるほど持ってきてないぞ」

「お気遣いなく。本日はいくらか余力がございます」

 節約しようとしていたくらいには、今日という日を楽しみにしていた。ただ、その節約自体はまるでうまくいかなかったが。


 諸々の報告がてら帝国の旦那様に、

『節約とは難しいものですね。具体的にどうしたらいいかわからず、なかなか思うようにまいりません。なにかコツなどあるのでしょうか』

と助言を仰いだところ、その数日のちには私の友人を名乗る初対面の人間が、小金貨数枚相当の銀貨を持たされ訪ねてきた。そして、紙切れを渡された。


『帝都の僕と他国の厩番では、収入も物価もまるで違います。節約に関しては、同じ環境に身を置く人間に訊くといいでしょう。

 ――追伸。覚えていますか、君からアホみたいな額の退職金を預かっています。

 この流れでやるのもどうかと思いますが、君のものを君が欲するときに使えないのも変な話なので崩して少し送ります』

決してこの送金に味を占めることのないように。破滅の始まりになります、とさらに追記されていた。……相変わらず、親切になさりたいのか意地悪を仰りたいのかよくわからないお方である。


 懐はまだまだ暖かく使い切ることはないだろうが、午前中は気持ちの赴くまま食べ進めてしまったし、さすがによくなかったかもしれない。

 なによりこの退職金はお嬢様から頂戴したものであるし、私だって本当は、噛みしめるように少しずつ大切に使うつもりだったのである。なのにこの有様。あまり自覚はなかったが、私は食欲に流されやすいのかもしれない。


 視界の先、屋台は食べ物だけではなく、ドライフラワーで作られた飾りものや、厳めしい木彫りの獣面が並べられている店も目についた。おそらくあれが件の、豊穣の神を模したという山羊面であろう。私の知る実物の山羊の顔とはずいぶん印象が違い、どこか畏れに近い感情を抱いた。

 神を隠すためと聞いたので、祭の参加に山羊面の着用は必須なのかと勝手に思っていたのだが、実際はそうでもないようである。通りすがる山羊面は、大人より子供の着用が目についた。

 屋台で見るとどこか恐ろしい面も、小さな子供が被ってはしゃいでいるのを見ると、どこかほのぼのとした風情が感じられて面白いものである。


 鼻腔をくすぐる香りにつられ、嗅き捨てならない香りを振りまく通りすがりを無意識に目で追った。はしたなくも指し示そうとしていた人差し指をなんとか押さえ振り返った。

「、先輩、あちらは」

「あれも牛な。店が違うだけでいま食った串と同じやつだよ」

「? 店が違うなら別物ですね、味付けも違うでしょうし」

またあとで食べてみようと思います、と零すと、見てるこっちが胸やけしそうだと遠い目をされた。胸やけとはなんだろう。


 食事とは、今の私にとって1番の娯楽であり喜びである。

 お嬢様のもとを離れてから、いまある生をなにより実感できる瞬間でもあった。未知の味に触れると好奇心がくすぐられたし、食べ慣れたものからは日常の幸福が感じられた。

 なのに胸やけだのなんだの、理解しがたかった。食事はいつでも幸せなものである。

「まぁいいや好きにしろよ。祭なんだもんな」

「はい。楽しみます」

言われなくともそのつもりであったが、素直に頷いた。


 今日は昼前には会場に到着しており、柵越しではあるが煌びやかに飾り立てられたミニチュアホースの行進やら、舞台で行われる子供向けと思しきのどかな企画やらをあれこれ鑑賞した。午前中は食べ物も出し物も子供向けが多いそうで、それに伴い食事も時間帯によって味付けが変わるそうだ。

 先輩に促され人の波から抜け、ミニチュアホースの行進用に誂えられた人避けの柵に寄りかかる。食べ歩きにも慣れたとはいえ、飲み物だけは歩きながらまともに飲めたためしがない。

 どうしても鼻からビショビショになるか、気道に入り噎せ込んでしまう。皆、よく平気な顔して飲めるものだなと思う。


 口をつけカップを傾けると、途端に耳の下がキュッと締まるような心地がした。やはり気のせいではない。

「普段より味がずっと濃い気がします」

「祭では出来が良いものから使うことになってるからな」

店に神様が来るかもしれぬからと、朝一番にもいだ果実が使われるそうである。果実や野菜が使われる屋台では、午前の早い時間であればあるほど鮮度も味も良いのだそうだ。

 余所者の私も、豊穣の神のおこぼれに与ってしまったようである。


「そういや、また呼び出されてたりするのか」

どうせ今日の感想訊くってジェシカ様に言われてるんだろ、と続き素直に頷いた。

「時間を設けるので口頭で結構だと仰られたのですが、書面にしたためてお渡しする予定です」

「取り組み方ガチかよ」

「今後の参考にされたいとのことでしたので、読み返せる形式をとったがよいかと思ったのですが」

仰々しいだろうかと思ったが、めちゃめちゃ喜ばれると思う、と言われひと安心する。


 そのポケットから、小銭の枚数を確認する軽い金属音がした。

「見てたら欲しくなってきた。ちょっと面買ってくる」

レオも見るか? と誘われたが首を振る。

 ついて行ってもよかったが、柵にもたれ息をついた途端、若干の疲れを実感していた。なにせ私は、屋敷籠りの屋根裏育ちなのである。楽しさとは裏腹に、途切れることのない人の波にもしっかり気疲れしていた。

 先輩は通りすがる人々の間を縫うように器用に歩き、手近にあった屋台に辿り着くと、飾られた面を見上げしばらく悩むようなそぶりを見せた。

 どれも厳めしいが、面構えも角の形もひとつひとつ違う。だがせっかく強そうな造形をしているのに、角の先端には愛らしい毛糸のカバーが付けられていた。あれは破損防止なのだろうか、とぼんやり思う。


 道行く客には、山羊面じゃなく刺繍の入った白い布地を羽織り、フードまで被っている者も多くいた。彼らの年齢や性別に統一感はなく、抱き上げられている乳幼児から背中の曲がった老夫婦までおり様々だ。

 この地は春との国境である。砂塵避けにしては大した汚れも見られないが、布を羽織るのはあの国の人間の特徴だったはずである。

 されどここは夏のお国からはずいぶん距離があり、あの内向きな性質の民が、わざわざ異国の国境まで来るとも思えず内心首を捻っていた。


 ぼんやりと行き交う人を眺めていると、ぬっと自分に影が落ち飛び上がりかけた。

「ビビってんじゃねぇよ」

「そう仰られましても」

 改めて間近で見る山羊の面は、やはりなんだか恐ろしかった。顔の上半分を覆う面は、造りが精巧で本物の骨を被っているようにすら見えた。

「重くはないのですか」

「白木だからそうでもないな」

聞き慣れた先輩の声を発す山羊面は、一見どこの誰ともわからなかった。


 訊いてもいないのに、魔除けもかねて一番厳ついやつにしたと教えてくれた。久方ぶりに来たという話であったし、なんだかんだで先輩もはしゃいでいるのかもしれない。

「なかなかお似合いです。先輩も豊穣の神を隠すお手伝いをなさるのですね」

「いや? 顔隠したいだけ」

 曰く、祭のお誘いを何人か断っていたそうで「顔合わせたら相手も気ィ悪いだろ」とのことであった。相変わらずあれこれと気を回す御仁である。


 右手側の屋台で、ワァっと幼い歓声が上がった。屋台には子山羊と子布のシルエットが仲良く集っていた。

 職人気質なのか愛想のない男が、湯銭した鍋から楽隊の指揮棒のようなものを手に取り繊細に操っていた。指揮棒からは蜘蛛の糸にも似た細い細い金色のなにかが伸び、縦横無尽に空を描くたびに小さな山羊神と異国の小さな信徒たちが幼い歓声を上げていた。

「なんでしょう?」

「飴屋だな。頼んだら好きな形に作ってくれる、犬とか花とか。あれ、ジェシカ様の好物なんだよな」

薄くてパリパリして結構うまいよと言われ、私は反射的に手をポケットに突っ込んでいた。

「なるほど。それは是非とも食べねばなりません」

「肉の後に飴食うとか正気か?」

口の中が全部甘くなるだろうが、などと些末なことを言われた。

 どうせすべて同じ胃の中に入るのに、なぜそのようなことを気になさるのか。


 あれこれと言い募られたが、口はすでに飴を食べる準備を終えていた。

 もう食べるしかない、形も決めた、馬の形にしていただく、あと単純に作っているところをもっと近くで見たいなどと嘯き、しまいには問答することすら面倒になり私は回れ右をして駆け出した。

 屋台では、花の形をした飴をちょうど作り終えたところであった。滑り込み銅貨を差し出すと、愛想のない男が「なにつくる?」と問うてきた。馬を注文すると、男は先ほどまでと同じように湯銭の鍋に指揮棒(近くで見たら何の変哲もない木製の棒だった)を差し込み、数度掻きまわし液状になった飴を絡めとると、するすると迷いなくまた虚空でリズムを刻み始めた。

 指揮棒のようなそれにばかり目を奪われてしまうが、子供たちが思い出したように覗き込む姿に習い、天板に目を落とすと、あれよあれよという間に駆ける馬の輪郭ができていくので私は驚嘆の声を漏らした。


 新しい芸術の形がそこにあった。春の地で店を構えれば、盛況間違いなしであろう。

 あっという間に出来上がったそれに、持っていた木の棒を付けると軽い動作で持ち上げた。

「まいど」

「! ありがとうございます」

差し出された飴の持ち手を掴み、まじまじと見た。まごうことなき、駆ける馬の姿があった。「素晴らしい……!」と思わず漏らすと、男は厳つい顔をわずかに崩し片方だけ口角を上げた。

 食べるのがもったいないほど見事な出来であるが、食べ物である以上いつまでも眺めてばかりいるのも失礼な話である。鬣部分を少し齧る。聞いた通りパリパリとした触感が軽やかで、幾重もの細い飴が網目状に重なってできたそれは、舌の上でほどけるように無くなった。

 なるほど。これは触感を楽しむ飴なのだ。


 出来の良い飴を片手にご機嫌で戻ると、ルカ先輩は黙々となにかの肉の串を齧って待っていた。

「馬をつくっていただきました!」

よかったなと言われ、過去一番の、はい! が自分の口から出た。

 見れば見るほど、担当している小屋のジャスティン号に似ている気がする。盗人を捕まえるのに借りた、あの足の速い馬だ。

「歯ざわりが軽くていくらでも食べられそうです」

「虫歯になるぞ」

聞こえなかったフリをした。


 促され、改めて柵にもたれかかる。パリパリとした歯触りを楽しみつつ、音楽と喧騒をじっと聴いた。

 まだ見ていない側の屋台の方角に目をやると、花屋でよく見かける店員たちが山羊面を被り、リースや山羊の尻尾に見立てた植物を売っていた。売れ行きは悪くないようで、親に抱かれた幼児のズボンから尾がぶら下がっていた。アリアナ嬢がいないな、とぼんやり思う。

 見上げると気づかぬうちに澄み切った空は飴色へと色合いを変えようとしており、会場を歩く姿からは子供同士の姿が減り酒に浮かされた千鳥足が増えてきていた。

 そろそろ夕の部なのであろう。


 舞台を囲む観客から拍手が起こった。司会と思しき男が、屋台の品よりいっそう厳つく大きな山羊面を掲げ、催しへの飛び入り参加を促していた。

 串を食べ終わった先輩が、おもむろに伸びをし肩を鳴らした。

「――レオ、あの面どう思う」

楽器の演奏大会の優勝商品のようである。

「精巧なお品ですね。職人の作品でしょうか」

「もらったら絶対邪魔になるよな」

「……素晴らしい出来ではありますが、自室以外で鑑賞できればなお素晴らしく感じられるかと」

だよな、と満足げに頷いた。

「決めた。ジェシカ様への土産はあれにする」

少し面食らってしまった。

「、実はご立腹だったのですね?」

「当たり前だろ、ちょっとしおらしくすれば言うこときくと思いやがって」

 実際こうやってお願いをきいて祭に足を運んでいるではないですか、と思っていると、うるさいぞと言われた。口には出してなかったのだが、目がうるさいと言われた。もはや言いがかりである。


「しかし、あちらは賞品のようですが」

「俺は貴族の家庭教師にしごかれた人間だぞ」

そこらの素人には負ける気がしないな、とどこか得意げに続き、意外に思った。

 先輩は目立つことをあまり好まない印象であった。それがジェシカ様への意趣返しのためとはいえ、御自ら舞台にまで登壇なさるとは。

「んじゃちょっくら行ってくる。ひとりで平気か?」

頷く。屋台の位置関係もとうに覚えた。

「この辺りで舌鼓を打ちながら、ご武運をお祈りしております」

あんまり食いすぎるなよ、と余計な一言いい残し、先輩は舞台へと歩いていった。


 参加交渉に向かったのを見送ると、なんの気配もなく私の間横で柵にもたれていた影がこちらを覗き込んでおり、反射的に拳が飛びかけた。屋台で売られている山羊の面を被っており、目の穴からは好奇心で輝く菫色の瞳がこちらを見つめていた。

 素人感満載の音楽の鳴る夕闇の中で黙って手を差し出され、あぁダンスに誘われているのかと素直にその手を取った。肌のきめの細かさから、女性だろうかと内心思う。

 後頭部に結い上げられたウェーブの入った栗毛、身長は私と同じくらい。羽織る暗い臙脂の布地から覗いた手足は華奢で女性にも少年にも見えたが、布地のせいでシルエットが曖昧で男女の判断がつかなかった。


 舞台では先輩が楽器を借り、おもむろに背筋を正し生真面目にも一礼すると、思いのほか軽やかに爪弾きだした。こちらでよく耳にする流行歌で、会場にいた人間の視線が一斉に舞台上へと向かった。

 緊張している様子もまるでなく、丁寧に奏でられる音はひとつひとつが粒立つように繊細で、これまでの参加者と比べ技術も場の盛り上がりも段違いであった。

 出来レースでもなければ、あの優勝賞品はもう先輩のものだろう。


 目の前の彼か彼女は臙脂の羽織りを翻し、先輩の奏でる曲に合わせてずいぶんデタラメなステップを踏んでいた。踊る輪では特にこれという決まりはないようで、各々がただただ楽しそうに自由に舞っていた。周りを見、慌てて合わせて踊りながらも感心する。

 この相手、デタラメに見えるが動きが曲調によく合っている。おそらく異様にリズム感が良いのだ。即興でも踊り慣れている印象を受けた。ひと通り人並み以上に踊れるはずの私が、気づけばリード権を奪われ、くるくると女性側を踊らされていた。


 長いようで短い曲の終わりが来て、広間にいた人々が各自相手に頭を下げだした。それに倣い、履いてもいないスカートの裾をつまむ振りをし、私も頭を下げた。

 まさか遊びで踊る程度のことで、こうも簡単にやり込められるとは思わなかった。

「――お上手ですね」

楽しかったです、と口から漏れた。

 私なりに矜持を持って学んできたことで、あろうことか翻弄されてしまったというに、不思議と不快な思いはなかった。目の前の相手は誇らしげに胸を張ると、ピッと姿勢を正し胸に手を当て恭しく礼を返してきた。私に合わせ男性側の礼をしてくれたようである。

 ヒョイと近くへ寄ってきて、上着のポケットに手を突っ込まれ飛び上がる。驚いたのが面白かったのか、クスクスと軽い笑い声をあげ、羽織を翻しさらりと人混みに紛れていった。

 ポケットに手を入れ、つるりとした慣れぬ肌触りを引っ張り出し手を開く。つるんとした、大きな大きな黒い玉。


 ――種子?


 慌てて顔を上げ姿を探すが、臙脂の羽織は見当たらず、面も似たものが行き交い見つけられそうになかった。

「レオー」

 賞品の木彫りの面を雑に持ち、振りながら歩み寄ってきた。演奏を聴いていた観客らに、通りすがりにもバシバシと肩を叩かれたたらを踏んでいる。実に歩きにくそうである。

「お見事でございました。素晴らしい腕前で」

「まぁな。? なに持ってんだ?」

差し出した。

「今しがた、踊った方がくださいました。これはなんの種なのでしょう」

「? なんだそれ。見たことないな」

この農業大国の人間でもわからぬ種子があるのか。

「鉢でも買って植えてみたらどうだ? なにか実るかも」

「! そうします、実がなったら食べます」

いや食えるかわからないだろ、と言われるが首を振る。

 これほど種子が大きいのだから、実も大きいに違いない。食べられもしないのに大きな実がなる意味がわからない、ならば食べられるに決まっていた。

 先のことを考えると憂鬱なことばかりだったが、ようやく楽しみがひとつ増えた。


「よぉレオ、来てたのか」

 ジャン氏が手を上げていた。まだ5つくらいの女児を肩車し、ジャン氏の隣には奥方と思しき女性が微笑んでおり、目が合うと会釈された。

「ん? 隣の山羊は誰だ?」

私の横で、ルカ先輩は串に刺さった牛肉を食んでいた。

「見ればわかるだろ、神だよ神。豊穣の神だ」

「不遜な神がいたもんだ。山羊が牛を食うんじゃない」

 ジャン氏の頭に手を乗せたまま、娘と思しき女児は黒い瞳を丸くして私を凝視していた。こら、挨拶は? とジャン氏が促すも黙ったままなので、先に笑顔をつくってみせた。


「こんにちは、お嬢さん。お祭は楽しんでいらっしゃいますか」

「……。おひめさまなの?」

 私は男ですと述べると、じゃあおうじさま? と言われ首を振る。地域の祭に一国の王子など来るわけがないですよ、と内心返す。

「ルカ、だっこしてー」

「肉食うのに忙しいから後でな」

「じゃあ、おうじさまがして」

 お屋敷の使用人のレオナルドと申しますと述べると、レオちゃんだっこして、と、なんの躊躇いもなく両腕を伸ばされ困惑した。子供など抱いたことがない。

 察したのか、ジャン氏の奥方が寄ってきて教えてくれた。初めて抱えた幼い命はじんわりと温かく柔らかく、落としてしまいそうでただただ怖かった。ジャン氏を抱え上げた時の方が、ずっと気が楽だったと思う。


 こちらの気も知らず、なにが楽しいのか腕の中でご機嫌になり笑い転げた。

「レオちゃんいいにおいがするー」

「え。あぁ、先ほど飴を食べたからかもしれません」

なんの形にしてもらったのー? と真っ黒な瞳をくりくりさせながら見上げられ、馬ですと述べると、? お花じゃないの? と不思議そうな顔をされた。


 ジャン氏が死にそうな顔をしていた。

「ティナ……、抱っこならレオよりパパの方がずっと高いよ……?」

パパのが20センチは高いんだから、と続いたが、無情にも私の腕の中できっぱりと首を振った。

「ううん、パパはもういい! 今日はレオちゃんに抱っこしてもらう!」

 その言い草は、まさか今日はこのまま私にこの姿勢でいろということだろうか。まだ食べたいものもたくさんあり、行かねばならない場所もたくさんあるというのに。

 先輩はようやく食べ終わった串をしまった。

「相変わらずティナは面食いだな。将来苦労するぞ」

「? めんくいってなぁに?」

「顔のいいのが好きってことだよ」

ふーん、と改めて私の顔を見上げ、口角を上げた。


「あのね、ティナねー、レオちゃんのおかおがすき!」

「、それはそれは。光栄です……」

 イリーディア様のご尊顔にまだ似ているわけだから、これも当然と言えば当然の反応なのだが、ジャン氏の方角から放たれる気配があまりにも禍々しいので安易に頷くのは躊躇われた。

 前だけを見て一切気づいていない振りをしていた。目を合わせた瞬間に拳が向かってくるような気がする。

 奥方は笑顔のまま、ティナ嬢の頭をなぜた。

「でもティナはパパが1番だもんねー? パパと遊べるってお祭もずっと楽しみにしてたもんね?」

「うん? うん、パパもすきー」

でもパパはおかおがこわいからなーとポソリと続いたが、ジャン氏はとうに聞いておらずガッツポーズをしていた。


 ルカ先輩が軽く息をつき、見てらんねぇやと呟いた。

「おいティナ、そろそろ父ちゃんに抱っこくらいさせてやれよ」

「えー! やぁだ!! レオちゃんがいいもん! あ、ルカでもいいよ」

「俺の抱っこはそんなに安くないんだよ」

ほれほれ、と簡単に抱き上げるとジャン氏の腕の中に返却した。

 ティナ嬢はしばらく頬を膨らませ不服そうであったが、その頭を撫でまくるジャン氏の「ティナはなに食べたいー? 今日はパパ、なんでも買ってあげるからね」のひとことで少し機嫌が戻り、飴の屋台を指さした。


 そろそろ頃合いか、と思った。

「――先輩、少々花を摘みに」

腹を撫ぜてみせた。わずかに張っている心地がした。

「ん。じゃ、たぶんこの辺いるから」

承知しました、と背を向け、歩く道のりで回収箱に食べ終えた串とコップを片付ける。

 両手が空くと、一気に落ち着く心地がした。


 祭の喧騒の中、屋台で山羊の面を買ってつけた。

 豊穣の神を模した面は現実の山羊よりやはり強く恐ろしく、どこか怒っているように見えた。

 面を被るだけで視界は狭く暗くなり、人の話し声すら1枚ヴェールを隔てたように遠くなった。するりと人の流れに乗り、混雑の中を流されるように進む。

 やはり私は、こちらの方が性に合うらしい。隠す、隠れる。懐かしくも落ち着く響きである。


 あらかじめ当たりをつけていた場所を順番に巡る。

 市場はだいたいが休みとなっており、明かりの灯っている店はほとんどなかった。祭の屋台で売った方がたくさん捌けるのだから、店舗を開く理由もないのだろう。ひと気のなくなったところで音がまた気に障り、ポケットの小銭を財布にしまい直すと、懐へ入れようやく落ち着いた。


 見慣れた店構えの前で足を止めた。

 いつもと違い閉まっており飾りつけもなく華やかさがなかったが、中には人がいるらしく薄く明かりが漏れていた。躊躇うことなく、裏口へと回ることに決める。明かりはバックヤードのものだったようで、窓越しの光が強くなった。

 上着のポケットから手袋を取り出し身に着けると、ドアノブに手を掛けた。鍵は開いていた。通りすがる人間の影が完全に見えなくなってから、私は身を滑り込ませた。


 覗くと人影が見えた。口を開いた。

「こんばんは」

「、うわあ!!」

私です、驚かせてしまいましたね、と山羊の面を外した。

 アリアナ嬢が大袈裟に胸を押さえていた。

「あーもー、びっくりした!! やだ、裏から入ったの? いくら常連さんでも関係者以外立ち入り禁止よ?」

「存じております。ですが急用でして。表が開いていなかったのでこちらからお邪魔しました」

「悪いけど今日こっちはお休みなのよ、お祭の方で屋台出してるからさ」

「はい、しっぽを売っているのをお見かけしました」

お面まで買っちゃってあんたも満喫してるわねーと言われ、私は黙って微笑んだ。

「そっか。前に買って行った花もそろそろ終わる頃よね。いつもの机に置くサイズでいいの?」

と背を向けた。


「――いいえ? 本日は貴女の雇い主について伺いにまいりました」


「え? 店長なら仕入れで明日まで戻らないわよ」

「花屋のお仕事を問うたわけではありません」

アリアナ嬢はようやくこちらを見やった。顔には緊張が伺えた。私は上着の左側のポケットに手を突っ込み、掴んだものを、掌を開いて見せた。

「……。なにそれ」

「盗聴器です。上着につけられていました」

私につけられていた分はルカ先輩に壊されてしまったが、ギル先輩の分はこっそり回収していたのだ。もちろん、核となる中身は壊してある。


「へぇ、盗聴器……。物騒ねー」

「盗聴器をご存じでしたか。一般的には縁のない物かと思いましたが」

たじろぎ、目が泳いだ。

「……なんか、そういうのもあるって小耳に挟んだっていうか」

「下手な言い訳なら、なさらぬ方がマシです。貴女に嘘は似合いません。

 これは貴女がつけたものですね。この盗聴器はこの国に流通している品ではありません。おそらく、今日は取引のある日なんですよね?

 この件の雇い主とのやりとりはもう終えていますか? 詳細を教えてください」


「……。そんなこと言われても、知らない」

「しらばっくれても無駄です。いま他国へ、これらについていた指紋の照合を依頼しています、貴女の指紋だと返事が戻るのも時間の問題です」

「指紋って……。適当なこと言わないでよ、私の指紋なんてどこから取るのよ」

「売っていただいた花瓶です」

陶器はいいですね、表面から綺麗に取れました、と述べると黙った。


「自らお話しいただけないのなら、こちらで調べなくてはなりません。

 巻き込まれることになるお店の皆さん、そして貴女のご家族もこのままでは無事では済みません」

「、ちょっと待ってよ、他の人は関係ないじゃない! それに、そんなこと言われたって知らないったら!」

「そのような言い訳が通用するとでもお思いですか。お屋敷の内情を探る、首を突っ込む、その片棒を担ぐというのは、貴女自身はもちろん家族や友人の命をも賭けることと同意です。雇われであるか否か、全貌を知らされているか否かでその罪の重さが変わることはありません」

脅すの……? と呆然と言われ、私は首を振った。


「脅しなどではありません。純然たる事実になるか否かは貴女次第でしょう」

お話しいただけますね? と続けると、その視線がフラフラと彷徨った。

「……、ごめん。私、頼まれて。いくらかお礼も出すって言われたから、実家への仕送りが、これから、どうしても足りそうになくて」

不愉快だった。私は言い訳が聞きたいわけではない。

「どなたに頼まれたのですか」

グッと身を固くし、俯いた。

「……聞いたって仕方ないんじゃないの、私に頼んだ人もきっとそんなことまで知らないはずよ。それに、ほんとに、つけろって言われただけであとは何も知らないのよ。……聞かされてないって言ったほうが正確なんでしょうけど」

ごめん、と、わずかに頭を下げられた。

 奥歯が軋む音がした。


 ――足りない。

 悪意も、覚悟も、なにもかも。


 溜め息が出そうだった。

「謝罪がほしいわけでも、理由が聞きたいわけでもないのです。雇い主が知りたいだけです」

「……だから、聞いたって仕方ないって」

仕方ないかどうかを決めるのは貴女ではありません、と思いのほか苛立った声が自分の口から出た。その事実に、私は戸惑っていた。

「、だいたい、なぜあのような目立つ場所につけたのですか? 私の上着の真ん中になんて」

どうかしている、と漏らすころには、アリアナ嬢は俯いた頭をはじめて上げていた。黒い瞳は困惑していた。

「……? レオにはつけてないじゃない、それにいくら私でもそんな目立つとこにつけないわ……」

あんた雇われたばっかって言ってたし、帰る家もないのにクビにされたら可哀想だと思って……と続き、総毛だった。


 ――いけない。なにか見落とした。


 勝手口から微かに音がし、私は反射的に振り返りつつ懐から財布を取り出し、自分の首元へとかざした。

 飛んできたナイフをひとつ避ける、こちらはダミー。もうひとつは財布に当たり、だが中の小銭に当たり私の手にも到達せず小さく跳ねた。軽い音を立て床に落ちたそれを即座に蹴り飛ばす、当たるわけがない、こんなものはただの時間稼ぎだ。

 襲撃者の影が引っ込んだ隙に、横にあった棚の死角に身を隠し、財布から幾つかの小銭を取り出した。なにもないよりマシだ。投げて角の部分を目にあてるなりしよう。

 第二波に備えるべく耳を澄ますと、背後から漏れ聴こえた。

「……、あ」

現実を受け止められないのか、ポカンとした顔をして鮮やかな赤にゆっくりと染まり出した腹を見つめ、トサリと両膝をついた。

 刺さったそれに、手を伸ばすのが見えた。

「! 、抜いてはいけません」

 遅かった。抜かれた切っ先からとめどなく湧き出るかのように漏れ出た、鮮やかな色に反しその顔は真っ青になった。

 辛うじて身を起こしていたのが耐えられなくなったのか、へたりと横に倒れ臥した。


「アリアナさん」

 あっさりと襲撃者の気配が消えた。逃げられた。

 口封じは済んだ。そしてなにも掴めていない私になぞ、関わるだけ時間と労力の無駄だ。駆け寄り手を取り脈を見る。顔色が悪い。

 ――すぐに医者を呼べば、まだ、

 立ち上がりかけて、足が震えた。震える意味がわからなかった。


 ……助けてやる必要がどこにある?

 この者は私の主人を脅かした。生かせば体たらくな自警団とてさすがに関わってくるだろう。そのときこの者は、この場に居合わせた私についてなんと言う?

 私は、またこんな隙を見せ主人にさらなる迷惑を掛けるのか。


「――いま一度訊きます。どなたに指示をされたのですか? 返答次第で、速やかに止血を施しましょう」

血だまりの中で、アリアナ嬢は苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。黒い瞳は気力から失いかけていた。

「あたし、そんなに悪いことした……?」

「しました」

残念ながら、それだけは自信があった。

「一度きりのことだとしても、そのつもりがなかったのだとしても、私は主人に害意を持つ者とそれに助力した人間は誰ひとり赦せません」

 ……。ごめん……、と静かな謝罪が返ってきた。


 どんな些細な罪であれ、取りこぼしたりはできない。見逃せばその綻びから、主人が何者かにその命を脅かされ儚くされてしまうかもしれないのだから。

 そうやっていなくなった者たちを、私は知っているのだから。


 彼女の脇を横切り、いくつかの蕾に手を伸ばす。千切ってそこらにあった袋に入れ、花弁ごと握り潰した。床を滲んできた赤い血だまりを避け、私は膝をつき上着の裾で自らの鼻を押さえた。倒れた彼女へゆっくりと袋の中の空気を流した。

 簡易な自白剤である。

「――郷にいる家族は関係ないの、……お願い、なにもしないで、お願い……」

「……調べはすると思いますが、仰る通りご家族はなにもご存知ないのでしょう。なにも出てこなければ、こちらからなにかする理由もありません」

……そっか、とポソリと述べた。

「貴女に依頼したのはどなたですか」

「……。店長と……」

「そうですか、わかりました」

手で仰ぎ、空気を攪拌させる。

 約束ですから止血はします、と言いつつも、難しいだろうなと内心思う。出血量が多いのもそうだが、私が大目に見たところで雇い主のそのまた雇い主が、事を仕損じた彼女を見逃がしてはくれまい。

「人は呼びません。見つけた方が呼んでくださるでしょう」

ここでの1件に関しもし私の名を挙げたら今度こそお命をもらい受けます、いいですね、と告げると黙って頷いた。


「…………話してて楽って言ったのはほんとよ……」

溜息を飲み込んだ。

「……。そのまま安静に」

下手に動かないほうがいいと思います、と余計なことを言ってしまった自分を恥じ、踵を返す。後頭部に回していた山羊面を着用し直した。


 ――行かねば。早急に、調べねばならぬ場所がある。


 そのまま裏口から出て路地を抜け、大通りの人混みに紛れた。途中で裏通りに入り、安いつくりの住宅街に回る。

 以前入った建物を見上げ、迷うことなく歩を進める。鍵なぞあってないようなものだった。周囲を見回し適当にワイヤーを通すと、静かに重い音が鳴ったのでまた手袋をはめ直し、ノブを回して部屋へと滑り込んだ。

 邪魔な面を頭の後ろに回す。

 以前に招かれた時と変わらず、殺風景な部屋だった。少ない衣類は丁寧に畳まれ、後でしまおうと思っていたのかそのまま積んで置いてあり、その小さな山は自重で斜めに傾いでいた。

 机には煙草のにおいもしないのに灰皿があり、なにか燃やされた跡があった。

 ――証拠は消していたか。仕方がない。

 机の下に顔を突っ込み、手を伸ばして引っ掴む。そのまま握りつぶす。

 置いてある紙を1枚頂戴し、花屋の店主の名と辛い店の親子の名を書きつけ、潰した盗聴器を包む。立ち上がりざま、ジャケットの内ポケットにしまった。


 部屋を出て見上げた秋のお国の月は、故郷で見上げたものと変わらず美しかった。故郷でも帝国でも、変わらず美しく昇ればいいと思う。

 といっても帝国は曇天だから無理か、と口から諦めにも似た溜め息が漏れた。


 何食わぬ顔で祭の会場に戻った。人の波は変わらず賑やかで、酒に浮かされてかさらに熱気があった。私に気が付き、ルカ先輩が手を振った。

「さっきギルに会ったぞ、久々に出歩いたからか機嫌良くてうるさいのなんの」

「なによりです」

ふと、先輩は黙って私を見た。首を傾げて促すと、言った。

「遅かったな。混んでたのか?」

「はい、少し」

「そか。なんか飲み物買ってくる」

それ1本食っていいぞ、と焼きたての牛串がいくつか刺さった容器を差し出され、条件反射で受け取った。


「――もし。すみません、伺っても?」

はい、と振り向くと子連れの女性であった。隣に連れている山羊面を被った7つくらいの男児が、膝をすり合わせてもじもじと足踏みをしていた。

「風を読みたいのですが、良い丘をご存じありませんか?」

流暢な秋のお国の言葉であったが、その形容は春でしか使われない。

 これは『手洗いを探している』という意味の隠語である。春の地から遊びに来たのであろう。

「あそこの屋台の裏にいくつか、」

いいえ、と母親は微笑んで首を振った。子供は母の手を掴み、山羊面越しに私をじっと見上げていた。


「あちらは混んでおりました。他をご存じないですか」

「……でしたら、少し向こうへ行かれるとよろしいです。飲み屋街を抜けると商店街があります」

屋台の向こうを指し示し、商店街の辺りまで行けば貸していただけるかと、と続けると、女性はにこやかに礼を述べ、男児と手を繋ぎなおした。その拍子に男児の手からぽとりとなにか落ちた。

 すぐさま私は自分のポケットに手を突っ込み、紙の包みを取り出した。落とし物と共に差し出した。

「落としましたよ。どうぞ」

「ありがとー」

ばいばいと手を振るのに応じ、微笑んで見送った。


 さて、今日のところはこの辺で充分だろう。できうる限りの挽回の手は打った。


 先輩が諸手に飲み物を持って帰ってきた。やる、とひとつ渡され、牛串もくださったのに……? と口から漏れた。ジェシカ様に面倒見てやるように言われたからな、と遠い目をされた。

「見かけない顔だったな。知り合いか?」

「いいえ、お手洗いの場所を訊かれまして」

裏は混んでいたそうです、と続けた。

 あのふたりは事前に呼んでおいた人材である。まさか母子を装った人間が来るとは思わなかったが、確かに母子連れの姿を見て警戒できる人間はなかなかおるまい。


「? 串食ってないのな。いらなかったか?」

「食べますいただきますありがとうございます」

「必死か」

慌てて噛り付いた。充分美味であったが、少々冷めて肉が固くなりかけていた。熱々のうちに食べていれば、もっと美味であったろうなと申し訳なく思う。

 祭は夜の部門に移行を始めたらしく、舞台に立つ人間の演奏する曲がどことなくムーディなものに変わり始めた。帰ったら、忘れてしまわぬうちに祭の報告書をしたためようと心に決める。


 ……イリーディア様はお元気だろうか。

 帝国の地で、旦那様と仲睦まじく穏やかな日々を過ごされているだろうか。春の地で大旦那様はご健勝でいらっしゃるだろうか。

 主人のことさえ考えていれば、天井裏であれ縁のないこの地であれいつでも心は満たされてきた。なのに、今日はうまくいかなかった。

 弟みたいと笑った顔が、あれが美味しいと引かれた腕の感触が、前の雇い主について話してくれたことが、仕事が楽しいと照れた声が、なぜいまこうやって思い出されるのだろうか。


 話していて楽しかった。

 私とて、その気持ちに偽りはなかったつもりだ。


続.

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