第39話・石壁近くの屋台街

 心地よい風が窓から吹き込んでくる夕方、外の世界が薄ぼんやりと暗くなり始めた時刻。魔導師とトラ猫は宿屋の一室で思い思いの時間を過ごしていた。

 ベッドのド真ん中を陣取り、片足を上げて腹毛の毛繕いをするティグは、風に乗って運ばれてきた食べ物の匂いに鼻をヒクヒクと動かした。一階の食堂では夕食用の仕込みが始まったようで、魚介のダシの香りが空腹を誘う。


 窓の傍に椅子を移動させて風を浴びながら書物を読んでいたジークも、その美味しい匂いに魔導書を閉じざるを得なくなる。それまで静かだった腹の虫が一気に暴れ始めた。


「夕ご飯を頼んでくるよ」

「にゃーん」


 猫に断ってから部屋を出て、階段下の食堂で夕食の注文を事付ける。忙しくなければ部屋まで持って来て貰えるが、後で取りに来ると告げ、そのまま宿屋の外へ出る。

 ジークの泊まっている宿屋は石壁の検問所から近いので、この時間なら閉門ギリギリに戻ってくる冒険者や旅人を相手にした、片手で食べ歩ける串系の小規模な屋台街が目と鼻の先にあった。夜しか営業していないそこで、ティグの好きな肉串を3本買って帰る算段だった。


 街の中央にある広場の屋台街なら食事系の店が多く、その場で腰を掛けて食べるか持ち帰るかだし、昼から夜中まで営業しているのだが、検問所の屋台街はそこまで腹が持たない者達に重宝されていた。言うなれば、食べ歩き横丁。のんびりと腰掛けて食している者など誰もいない。


 依頼帰りにはいつも前を素通りしていたが、改めて覗いてみると、検問所の屋台街に並んでいる料理は中央広場の物とは全く違った。広場に並んでいるのは家族連れでも味わえる家庭料理的な物が多いのに反して、こちらはスパイシーな香りを放つ大人の、というより酒飲みの好きそうな物が大半。酒の入ったカップを片手に串を肴にして歩いている男達の姿は珍しくはない。


 その中の一軒で香辛料を振りかける前の串刺し肉を焼いて貰っていると、ジークの腕にするりと誰かの細い腕が絡んでくる。

 驚いて振り向くが、彼の顔を艶っぽい目で見上げている女には見覚えはない。


「ねえ、ちょっと遊んでいかない?」


 胸元が広く開いたブラウスに、極限かと思うほどに短いスカート。最大限に肌を露出させた娼婦は、ジークを揶揄うように妖艶に微笑んでいた。少し化粧は濃いものの整った顔立ちに、緩く巻かれた長い髪の美しい女は、男達を魅了するには十分な身体を惜しげもなく披露していて、彼女に落とせない男は少ないだろう。


 ただ、領主の子息として育ったジークは、社交の場での色仕掛けの耐性は物心ついた時から鍛え上げられていた。

 何事も無かったかのように女の腕を振り解き、屋台の店主から焼けたばかりの肉串を平然と受け取る。釣りを確認して礼を言うと、女の存在など無かったかのようにスタスタと宿屋への道を歩き出した。


「あはは。ごめん、ごめん。冗談だってばー」

「何?」


 つい先程まで纏っていた色気を感じさせない、別人のようなざっくばらんな物言いの女にジークは目をぱちくりさせながら足を止めた。


「ごめんなさい。あなた、魔導師ジークでしょう? 頼みたい事があるのよ」


 ルーチェと名乗った女は、ゆっくり歩きながらでいいからとジークと並んで話を切り出した。娼婦を伴う彼に気付いた者達からの、冷かすような視線が痛い。


「あたし、今日で今の店を辞めることにしたのね。で、近い内に故郷のアヴェンへ帰るつもりなんだけど、その時の護衛を頼めないかなって」

「護衛の依頼? ギルドには通さずってこと?」

「そうなのよ。別にギルドを通してもいいんだけど、どんなのが来るか分かんないじゃない? あたし、こんな仕事してるしさ、護衛の冒険者が紳士とは限らないじゃない?」


 冒険者相手の娼館に勤めていたとなると、正式に依頼してもそういう目で見られる可能性はある。真っ当に依頼を遂行する冒険者がほとんどだとは思うが、便乗して手を出そうとしてくる不届き者がいないとは言い切れない。


「なら、指名依頼を出せば――」

「そう、その指名を出そうと思ってたところに、目の前に本人が現れたもんだから、直接交渉に切り替えたって訳なのよ」


 あはは、丁度良かったわ、とルーチェは軽快に笑った。ギルドを通した方がいいなら明日にでも行くわ、と付け加えられたが、偶然出会ったのも縁かもしれない。ジークは依頼の詳細はまた明日にでもと、宿屋が見える手前でルーチェと約束を交わした。


「でも、何で俺に?」

「あら、もし手を出されるならタイプの男の方がいいじゃない。なんてね」


 揶揄うように笑ってから、少しだけ真顔に戻り、ジークにしか聞こえない小さな声で囁いた。


「グラン領主のご子息様が、そんな下衆なことはしないでしょう?」


 あたし達の情報網を舐めてもらったら困るわよ、とルーチェは妖艶に片目を瞑ってみせた。

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