幕間 揺り籠の子供

 壁の向こう、揺り籠の中。ここは恒久の安息地。彼のためだけに創られた、慈愛の牢獄。

 この箱庭の壁にかつて存在した僅かなひびは、傍観者たる存在によってその痕跡すら残さずに塞がっている。以前の姿を取り戻した壁たちは、前にも増してより堅牢に、彼の魂を護っている。

 彼はただ、柔らかな揺り籠の中でひたすらに眠るだけだ。目覚めることを厭うように。目覚めを誰かに拒まれるように。ただただ目を閉じて、穏やかな眠りに呑み込まれている。


 ふと、傍らで何かが動いた気がした。彼は深く眠っているのだから、そんなものは感じない筈だ。それでも確かに、何かが傍らで笑った気配を彼は感じた。

 そして唐突に、声が降って来る。

「あら~、“傍観する者ヴィデルゼーレ”の坊やったら、本当に完璧に塞いでしまったのねぇ。貴方の魂に触れたときは殺してやろうかと思ったものだけれど、これは寧ろ感謝した方が良いのかしら?」

 柔らかで穏やかな、女性の声である。正真正銘、生まれて初めて聴く声だ。しかし同時に、とても懐かしい声だとも思った。

「ふふふ、私ね、ずっと貴方に会いたかったのよ。でも、貴方の半分はヒトだから、会いに来ることができなかったの。だから、やっぱりあの坊やには感謝をしなきゃなのよねぇ。あの子がこうして貴方の魂を完全に封印してくれたから、私はこうして貴方に会えるんですもの」

 眠り続ける額に、温かな何かが滑ったような気がした。だが、気のせいかもしれない。ああ、きっとそうだろう。きっとこの声すらも、微睡みの中に揺蕩う幻なのだ。

「ねぇ、」

 優しい声が、耳朶を撫でる。

「貴方の人生は楽しかった? 幸せだったのかしら。それとも、生まれたことを後悔したこともあった?」

 柔らかな問いに、目覚めない彼は、目覚めないままにそれを否定した。

 いいや、私の人生には何もなかった。喜びも、悲しみも、何もなかった。故に、後悔することもない。何も感じないのだから、後悔すらも存在しないのだ。

「私はね、貴方に幸せになって欲しかったの。普通の人間のように生きて、普通の人間と同じ幸せを手に入れて、普通の人間のように死んでくれれば良いと思っていたわ。だから、月神シルファヴール様にお願いして、あの子を用意して貰ったの。もしも貴方が唯一を得られなかったとき、あの子が貴方の唯一の代わりになるように。最初から最後まで、あの子だけは貴方を理解して、貴方の味方でいてくれるように。万物に愛されやすいように創ったあの子が貴方の味方なら、きっと万物が貴方の味方をしてくれると思ったの」

 心地の良い声に、彼は微睡みの中で苦笑した。

 彼女の言い分はとても子供じみていて、とても愚かだ。万物に愛されやすい幼馴染が自分を信頼しているからといって、万物が自分の味方になることはない。万物が愛すのは飽くまでもあの幼馴染であって、自分ではないのだから。

 だがどうしてか、彼女のその気持ちが、いっそ涙すら溢れてくるほどに嬉しいことのような気がした。

「ねぇ、貴方は幸せだったのかしら。いいえ、きっと幸せだったに違いないわね。だってそうじゃなきゃ、この空間は決して壊れなかったもの」

 またもや、額を温かい何かが滑った。だが、やはりそれも勘違いかもしれない。

「私もね、とっても驚いたのよ? だって、まさか貴方が名を呼んでまで繋ぎ止めるような相手が現れるだなんて、予想できる筈もないじゃない。だからね、本当に嬉しかったの。貴方が貴方の唯一を見つけることができて、本当に嬉しかったわ」

 何を、話しているのだろうか。私に唯一などいない。私はいつだって一人だ。大切なものは、己が存在しているという証明と、この命だけだ。それ以外に執着するものなど、ありはしない。

「それは違うわ。貴方がそれを覚えていたらこの空間が壊れてしまうから、あの坊やが封じてしまっただけ。……でも、ごめんなさいね。私が貴方にそれを教えることはできないの。思い出してしまったら、貴方は目覚めてしまう。私が貴方を目覚めさせてしまったら、天秤はもう取り返しがつかないほどに傾いてしまう。だから、貴方を目覚めさせるのは、私の役目ではないわ」

 額や髪を滑る熱に、ようやく、それが彼女の掌である可能性に思い至った。

「……あのね」

 知らない声だ。知らない音だ。なのにそれが、どうしようもなく懐かしい気持ちを駆り立て、心の奥底がざわつくような不思議な心地をもたらす。

「もう、疲れたのではない? もう、投げ出してしまいたいのではない? ねぇ、良いのよ。そんな役目は、誰かに押し付けちゃって構わないのよ。疲れたなら、やめてしまって良いの。全部全部放り投げて、逃げて良いの。貴方が逃げるというのなら、私が連れて行ってあげる」

 …………いいや、駄目だ。そんなことは許されない。私は王だ。個を持たない、ただの王だ。王位継承者たる家族の全てを屠ったあの日から、私には王である道しか残されていないのだ。あの国の民の安寧のために、民が望むままに、私は王でなければならない。そうでなければ、私の存在意義が無に帰してしまう。そんなことは許されない。私は存在し続けたい。私は生き続けたい。私のために、私は死にたくない。

「……そう。本当に、我が儘な子ね。でも、良いわ。貴方が望むなら、貴方が願うなら、貴方は貴方の思うように生きなさい。その残り僅かな生の最期まで王でありたいと言うのなら、私はそれを応援するわ。……でも、私が手伝うことはできないのよ? そして今の貴方が自力でどうにかすることもできない。貴方は眠るだけ。眠り続けるだけ。目覚めの来ない貴方に、王として生きる術はないわ」

 では、どうしろと言うのだ。私には何もない。何を頼ることもできない。私が何もできないというのなら、誰も何もできないではないか。

「いいえ、それは違うわ。でも、貴方が違うことを認識するためには、貴方は目覚めないと駄目ね。うーん、こういうのなんて言うのだったかしら。堂々巡り?」

 そう言って、面白そうにころころと笑う声が聞こえた。一体何が面白いと言うのか。こちらはそれこそ、生きるか死ぬかの瀬戸際だと言うのに。

「あらあら、そんなに拗ねないで。大丈夫よ。貴方が繋いだ貴方の運命を信じなさい。きっとあの子は、貴方を選んでくれるわ。だってそうなるように、貴方はあの子の名前を呼んだのでしょう?」

 何を言っているのか、全く理解できない。終始、こちらに何も伝える気のないような言葉選びをする女性だ。だが不思議と、それに腹が立つことはなかった。……いや、何も不思議なことはない。何も感じないのだから、腹が立つ筈もないではないか。だが、いや、……本当に私は、何も感じていないのか……?

「ああ、いくら強固な封印でも、そろそろ限界ね。私との邂逅は、やっぱり貴方には少し刺激的過ぎたかしら。それじゃあ、私はもう行くわ」

 最後にするりと熱が頬を滑って、そして離れていく。唐突に消えていくそれに向かって、彼は言いようのない不安を覚え、声なき声を上げた。

 待ってくれ。行かないでくれ。私はきっとずっと貴女に会いたかった。貴女に触れたかった。お願いだから、行かないでくれ。傍にいてくれ。

 まるで、赤子が意味をなさない声で泣き叫んでいるようだ。だが、それでも彼女は立ち止まらない。微睡みの意識の外へと、その身を散らしていってしまう。

 彼女が彼の外側へと消えていく刹那、無償の慈しみにも似た声音が彼を撫でた。


「近いうちにまた会いましょう、私のかわいいロステアール」

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