晴雨に立つ

霜月 結心

落日の嵯峨野 第1話

「…––、––」

 切羽詰まった声に、青年は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。

 緩く肩を揺すられ、霞む視界とぼんやりとする頭でなんとかそちらに視線を向けた。

 ボロボロの戦装束に見覚えがあった。いつもは土埃などひとつない藍色の装束なのに、いたるところが破け、血で汚れたのか黒く変色しているところもある。

「大丈夫か?」

 気遣わしげな声に、青年はゆっくりと頷き、何度か瞬きを繰り返して視界を鮮明にした。

 改めて声の主である友人に視線を向ければ、あまりの姿に顔を曇らせた。

 後ろでまとめていた黒髪は解け、精悍な顔には土埃に汚れ切り傷もある。それだけではなく激戦を潜り抜けてきたかのように身体中に怪我を負っていた。右袖を脱いだ体には切り傷やすり傷が目につく。特に右脇腹や左太腿からの出血で着物と袴が黒く変色している。籠手も片方失い、腰に下げている鞘は傷だらけだ。

 自分が気を失っている間に激しい戦闘が遭ったことを瞬時に察し、青年は肩に触れる手を掴んだ。

「どれくらい、意識がなかった」

「三十分も経っていない」

 その言葉に、青年の体感時間も同じだと告げている。なら、外部からの侵入は最小限 に防げたはずだ。しかし、意識を失うほどの事態が起きたのなら、相当危険な怪異が侵入したことになる。

「いったい何が起きたんだ」

「わからない。突然、敷地内に怪異が現れた」

「そんな」

 馬鹿な、と言葉を続けようとして青年は咳き込み、慌てて口を抑えたが喉を駆け上がってきたものを吐き出した。鉄臭く赤黒いものが手の隙間からボタボタと落ち、服と畳を汚した。

 黒髪の青年は青年の背を摩り、血で汚れた口元を着物の袖で拭うと顔を覗き込んできた。

「内側をやられたか?」

「たぶん。でも、そこまで酷くない。ああ、でも、右腕の方が酷いかな」

 全く力の入らない右腕に気づき苦笑まじりに伝えれば、黒髪の青年は顔を顰めた。

「触るぞ」

「うん」

 黒髪の青年はそっと右腕の袖を捲り上げると、思わず息を飲んだ。黒髪の青年は険しい顔つきで青年の着物の合わせを掴み、右側を慎重にずらし開いた。

「右肩までやられてる」

「え、あ、これは、酷いな」

 視線を着物から出された右腕に向ければ酷いものだった。刃物で何回も斬られたようにずたずただった。これでは右腕は全く使い物にならない。それに、普通なら激痛で意識が飛んでもおかしくないのに、痛みをあまり感じない。痛覚がおかしくなっているのか、ジクジクと鈍い痛みしか感じない。

 黒髪の青年は室内に置かれていた棚から箱を取り出すと、箱を開け中に入っていたガーゼと包帯で応急処置を始めた。

 その様子をじっと青年は見ていたが、聞かなければならないことが他にもあった。

「他のみんなは、大丈夫なのか?」

「……二振り残ったが、いつまで保つかわからない」

「二振り……」

 その言葉に青年は言い知れない不安を感じた。ここには十体の式神が警護にいた。それもかなり強力な式だ。そこら辺で悪さする怪異など一瞬で屠れるほど強い。それが二体と友人と自分だけが残ったということは、怪異の中でも極めて危険な奴が入ってきたということだ。

「主は? 無事なんだよな?」

 顕現を保てているということは、主は無事なはずだ。そう思い黒髪の青年に問えば、静かな声で答えが返ってきた。

「死んだ。目の前で、殺された」

 押し殺したような苦しげな声に、青年は息を呑んだ。

 嘘だと否定したい気持ちが喉元まで込み上げる。簡単に死ぬ主ではない。一つの拠点を任されるほどの実力者だ。咄嗟に主との縁を辿ろうとしたが、どこにも感じられなかった。気配すら感じられないその事実に青年は言葉が出なかった。

「すまない」

 黒髪の青年の俯き耐えるように引き結んだ口から零れた言葉は、言い表せない感情を含んでいた。

 青年は胸の中で荒ぶる感情を抑えるようにゆっくりと息を吐き出し、もう片方の手で黒髪の青年の腕を掴んだ。

「怪異は討てたんだよな」

「ああ」

 肯定の言葉に青年は小さく頷き、手を離した。

 手際よく手当を進める友人の手元を見ていると、周囲を憚るように静かな声で告げられた。

「主から、最後の主命を託された」

 驚いて顔を上げると、黒髪の青年の金色の双眸が真っ直ぐに青年を見詰めていた。

「『あれを守れ』、意味はわかるな」

 思わぬ言葉に青年は唖然と黒髪の青年を見た。

 わかる者には理解できる厳命だった。

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