第11話
晩春に入って、エルの日常は比較的平穏に過ぎていった。
個別講義に入ってからは、古式派の講義も面白い内容があったりしたし、革新派の講義は新たな刺激に満ちていた。
もちろん何事もなかったかと言われるとそうでもなく、ジャクソンが騒ぎを起こした一件でシェリーとともに騎士団で事情聴取を受けたり、学長に呼ばれて褒められたりと、プチ事件くらいの出来事はあったものの、概ね凪いだ日常だった。
ルーファスに誘われた勉強会もそう頻繁にあるわけではないようで、この1ヶ月の間では1回個別講義にも参加しているメリンダ先生の勉強会に誘われてついていったくらいで、特段発言もせず無事に過ぎた。むしろ治癒魔術を専門とするメリンダ先生の勉強会と言うことで、シェリーのほうが積極的に疑問をぶつけたり、意見を述べたりと熱心だった。
シェリーとは相変わらず仲がよく、個別講義も一緒に受けていることもあって、学生たちの間ではいつの間にか「エルシェリ」とまとめて呼ばれることもあったりして、これはちょっといかがなものかと思ったくらいだった。
実際仲がいいのは確かだし、シェリーが嬉しそうにするからいつも手を繋いで歩いている。しかも見た目が小柄なエルと、大柄なシェリーの組み合わせはシェルザールでも目立つ。しかも大柄なほうのシェリーが、「エル、エル」と懐いているから、すでに1年生の間ではタイプの違う姉妹のような凸凹コンビとして認知されているようだった。
もちろんそういう意味で目立っているのはどうかと思うが、逆にいいこともあって目立っているが故に同じ1年生からは気軽に声をかけられることも多く、学生の間の評判は悪くなかった。
ジャクソンはと言うと街で騒ぎを起こした責任を問われて厳重注意を受けたらしいし、噂では次は停学、3度目があったら退学と釘を刺されたとのことで、これで軽々しく騒動を起こしたりはしないだろう。学校で見かけても舌打ちされたりはするものの、厳重注意を受けたこともあって絡んでくるようなこともなく、「次にエルをいじめたら許さない」と息巻いていたシェリーは拍子抜けするくらいだった。
そのジャクソンの起こした騒ぎは3日も過ぎる頃にはシェルザールの1年生の間では知らない者がいないほどの噂になっていて、完全に孤立していた。唯一くっついていた取り巻きにも逃げられたようでいつもひとりで行動しているのを見かけていた。まぁ自業自得なので同情する気にはなれなかったが。
ルーファスとも友達になろうと声をかけられてからは懇意にしていて、顔を合わせて時間があれば短い立ち話をするくらいにはなっていたし、真面目で勉強熱心な彼は知識も豊富でシェリーなんかは個別講義でわからなかったことがあると、エルの次にルーファスを頼りにするようになっていた。
エルの使う魔術の構文は独自のものが多いので、幼い頃から理論から実践まで体系的に勉強したルーファスは理解も早く、シェリーが個別講義でわからないこともよく噛み砕いてわかりやすく説明してくれるのでシェリーもありがたがっていた。
同じ講義を受けているのがなかったので、立ち話をするときに訊くくらいしかできないから、やっぱりシェリーが頼ってくるのはエルだったが、エルの説明で理解できないこともルーファスの説明ならば理解できることもままあって、シェリーは「ルーファスってあいつと違っていいヤツだよねー」なんて嬉しそうにすることもよくあった。
また、エルはエルで時間があるときにときどき大図書館に行って古代魔術のことを調べたりもして、新しい魔術の可能性について調べていた。
まだ概説書くらいしか読んでいないが、やはり古代魔術には天候を自在に操るほどの強力な魔術もあったらしく、プチゲリラ豪雨を発生させたエルの魔術をもっと突き詰めれば、古代魔術の解明も実践もできるかもしれないと胸躍らせていた。
そんなエルとシェリーだったが、シェリーはその鋭い感覚で時折視線を感じる、と言っていた。
それを聞いたエルは、それを知ったときには周囲を見渡したりしていたが、特に変わったことはなく、個別講義に急ぐ学生の行き交う姿や教師の歩く姿など、特別気になるようなことはなかった。
あえて引っかかることと言えば教師のほとんどがエルとシェリーのことを知っているくらいで、挨拶をするときも名前を呼ばれて挨拶をする、くらいだった。
だが、これもエルとシェリーという目立つコンビだから教師陣の間でも名前が知れているのだろうと思えば不思議なことではなかった。
後1ヶ月もすれば夏休みに入る。春が始まってからが1年の始まりだから、全体講義に1ヶ月、個別講義が始まって1ヶ月と約2ヶ月あまり。4月の半ばを過ぎてから1ヶ月が夏休みの期間だったが、たった1ヶ月では故郷の村に帰ることもできない。だいたい旅程に1ヶ月かかるのだから往復で2ヶ月もかかる。となれば帰省すること自体が不可能だ。
その代わり、援助金が入れば必ず家族に短い手紙を書き、順調にシェルザールでの生活を送っている旨を伝えていたから、家族はそこまで心配していないだろう。ルームメイトであるシェリーのことも書いたし、友達にも恵まれて元気にやっていることは伝えているので、故郷で気を揉んでいる家族やセレナも安心だろう。
夏休みではどうやら宿題も出るらしいのだが、1年生の宿題はそう多くないらしく、ほとんどの時間を自由時間に充てることができる。
シェリーと一緒に街で遊ぶもよし、大図書館で調べ物をするもよし、一日中ダラダラして過ごすもよし、夏休みは思う存分満喫しようと心に決めていた。
シェリーもエルほど遠くはないとは言っても旅程に2週間くらいかかる距離に故郷の村があるとのことだったので、帰省することはないとのことだった。今から夏休みはどうやって過ごそうかと話し合うことも多かった。
フリープログラマーとしてときに忙しく、ときに暇な、自由気儘な生活を送ってきたエルだったが、4度目になる学校生活は楽しいものになりそうだと、今から期待に胸を膨らませていた。
「で、教師陣の印象はどうなっている?」
「はい。概ね好評です。理解も早いですし、魔術の腕前もそれなりにあるようです。全体講義では不真面目な態度が目立ったらしいのですが、個別講義に移ってからはよく勉強しているようで、大図書館で見かけることもよくあるとか」
「ふむ……。素行に問題はなさそうだな。エル・ギルフォードと言い、シェルタリテ・ルドソン・シャダーと言い、特別優秀な魔術師に師事したと言うわけではないようだし、授業態度も普通。取り立てて目立った学生ではないのではないか?」
シェルザールの学長ラザードは、報告に来た教師にそう言った。
「はい。個別講義の内容も調べてみましたが、古式派、革新派と偏っているところはありませんでした。まだ派閥の色にも染まっていないただの一学生かと」
「ふぅむ……」
解せない。
ラザードは蓄えた白髯をしごきながら唸った。
この1ヶ月、教師陣にそれとなくエルたちふたりの観察を命じてみて、その報告を受けていたのだが、特別秀でたところがある学生ではなさそうだ。ただ、目立つ二人組なので1年生の間では有名な凸凹コンビとして名が知られているらしいのだが、それも学生の間だけの話で問題視するようなことではない。
そんなごく普通の学生生活を送っているだけの学生が、高度な魔術を行使したのだからアイオー騎士団の報告が何かの間違いなのではないかと思えてくる。
「他に特筆すべき点はあるか?」
「あえて言うならルーファス・グランバートルと懇意にしていると言うことでしょうか。ですが、顔を合わせれば立ち話をしたり、たまに革新派の勉強会に誘われていると言ったことくらいで、特別親しいと言うわけでもなさそうです。やはり特別な存在と言えばシェルタリテ・ルドソン・シャダーでしょう。行動するにもいつも一緒ですし、個別講義の選択も同じ。他の学生とも良好な関係を築いていて、ほとんどの教師の印象は学校生活を楽しんでいるようだ、と言うことです」
「ふむ」
楽しい学校生活を送れているのならばシェルザールでの生活は実り多いものであるだろう。
だが、報告を聞けば聞くほど高度な魔術を使ったという事実と齟齬が生じる。
それでも素行はごく普通の学生なのだからジャクソンのように問題を起こすような学生ではないと言うことだ。多少魔術に詳しいからと言ってもルーファスのように幼い頃から英才教育を受けて育った学生もいる。ルーファスほどの知識と魔力があれば、ディスペルオールなんて魔術を使ってもおかしくはないのだが、ごくごく平凡な学生であるエルがそれを使ったと言うことがやはり引っかかる。
しかし、これ以上観察を続けていても得られるものはそう多くないだろう。
「よろしい。これ以上の観察は打ち切ることにする。教師たちにはその旨を通達しておくように」
「はい、わかりました」
釈然としないものは残るものの、これ以上調べても埃は出てこないだろうから研究者でもある教師陣を拘束するのは憚られる。
また何かあれば直接問い質すこともできるのだから、そのときを待てばいいだろうとラザードは結論付けた。
どうすればエルとシェリーを貶めることができるのか。
ジャクソン・ニコラウスはずっとそのことを考えていた。
街での騒ぎを発端として、シェルザールからは厳重注意を受け、唯一の取り巻きだったひとりも去り、家では「なんてバカなことをしたんだ」と叱られ、学生たちからは白い目で見られ。
あそこでシェルザールの学生として実力を見せつけていれば、程度の低い魔術師見習いなど黙らせることができたというのにエルとシェリーのせいで台無しになってしまった。
騒ぎを起こしたのはジャクソン本人だと言うのに、完全に逆恨みでエルとシェリーを憎むようになってしまったジャクソンは、とにかくあのふたりを自分よりも格下の落ちこぼれだと学生たちに見せつけなければ腹の虫が治まらなかった。
だが、頭の中の冷静な部分で魔術の腕前ではエルに叶わないこともわかっていた。
あの騒ぎでディスペルを使った手腕と言い、闇のマナで縛り上げられた腕前と言い、とてもではないが魔術勝負を挑んだところで勝てる見込みはほとんどなかった。
だからこそますます忌々しいと思うものの、では小柄な体形を逆手に取って肉体的な優位を振りかざそうにもシェリーが常に側にいるからそれもできない。普通の人間であるジャクソンにあんな大柄な人猫のシェリーの相手ができるはずがない。
さらに厄介なのはルーファスがいることだ。
古式派の落ちこぼれであるニコラウス家と、飛ぶ鳥を落とす勢いのグランバートル家ではどう考えても分が悪いし、そもそも革新派のほうが勢力が強い。下手なことをして、ルーファスの逆鱗に触れればニコラウス家そのものがなくなってしまう。
せっかくお家再興のチャンスに下手を打ってニコラウス家の立場が悪くなれば、それこそお家再興なんて夢のまた夢になってしまう。そうなったら両親から勘当されて、ニコラウス家にはいられなくなるだろう。
せっかくシェルザールに合格できるだけの魔力を持って生まれたと言うのに、そんなことになってしまったら流浪の魔術師として方々を転々として、細々と生活するしか道はなくなる。
どう考えても八方塞がりになりかねない状況だからこそ、余計に憎しみが募っていく。
綿密な計画を練って、ルーファスの介入さえ及ばない周到さがなければ最悪の事態に陥る未来しか見えない。
クソッ! たかが辺境の田舎者のクセに……!!
プライドだけが肥大化したジャクソンにはもう冷静さは残っておらず、今はただひたすらにエルとシェリーへの憎しみだけが大きくなっていくばかりだった。
休日明けの週の初めの個別講義はメリンダ先生の治癒魔術の講義だった。
シェリーが完璧にマスターしたいと意気込む治癒魔術の講義は、革新派の教師にふさわしく、とても面白いものだった。
まだ理論が主で実践はメリンダ先生が行うばかりだったが、魔術具の水晶玉がメリンダ先生の実践によって光る様は見ていて興味深かった。
各属性を組み合わせて治癒魔術の効果が上がると言うことは、クルストの勉強会でも教えてもらったが、実際に魔術具を使って実践して見せてくれるのとでは大違いだった。
シェリーも一生懸命ついていこうと頑張っていたし、講義が終わった後もわからないことがあればメリンダ先生に聞いておさらいもする。メリンダ先生も向学心の高いシェリーの相手をするのは楽しいようで、嫌な顔ひとつせず、講義での内容を噛み砕いて教えてくれるからシェリーもメリンダ先生には懐いていた。
だからたいていメリンダ先生の講義の日は、寮に帰るのが夕食の時間がもう始まった頃、と言うのも珍しくなかった。
その日も色々とシェリーがメリンダ先生を捕まえて講義でわからなかったことを尋ねたりしていたこともあって、寮に戻ったのは夕食の時間が始まるギリギリだった。
「お腹空いたー。エルー、早く食堂行こうよー」
「晩ご飯は逃げないんだからもう少し待ちなさいよね」
制服であるローブを脱いで部屋着に着替えていたエルは、ローブ姿のまま、今にも食堂へ駆け出しそうなシェリーを留めていた。
エルの部屋着は2種類で、ともにパンツスタイルだった。濃い紺色の上下と、黒の上下で、3日に一度取り替える。その間に洗濯してベランダに干して学校に行き、帰ってから取り込むと言うのが習慣だった。
今日は黒の上下の部屋着だったので、着替えてローブをワードローブに畳んで収納するとシェリーに袖を引っ張られる。
「はいはい、わかったから」
「やった! 晩ご飯だー!」
連れ立って部屋を出て、鍵をかけてからふたりして食堂に向かう。
1階の食堂にはもう学生たちがそれなりにいて、仲のいい学生たちと思い思いの席で夕食を摂っている。
エルとシェリーも空いている席を見つけて、セルフになっているメニューの中から、エルはパンと鶏肉のシチュー、サラダを取って、シェリーも同じメニューを大盛りにして取って目星をつけた席に陣取る。
食事をしながらもシェリーはお喋りをやめないので、それに相槌を打ったり、話を振ったりして、ふたりだけとは言え、賑やかな食事の時間は過ぎていく。途中、シェリーはおかわりを取りに再び鍋やパンが並ぶ一角へ向かい、戻ってきてからもお喋りが尽きることはない。
早食いの大食漢であるシェリーと小食のエル。量は大分違っても食べ終わる頃はだいたい一緒になる。
食後のお茶を飲みながらまったりしているとシェリーが尋ねてきた。
「これからエルはどうするのー?」
「大図書館で借りてきた古代魔術の本をまだ読み終わってないからそれの続きを読むつもりよ」
「エルはここんとこずっと古代魔術だよねー」
「うん。面白いよ。今の個別講義では絶対習わない魔術とかが書いてあって興味深いしね」
「あたしはそこまではいいかなー。今の講義についていくので精一杯だし」
「今日もメリンダ先生にべったりだったよね」
「だって難しいだもーん。他の属性のマナと組み合わせると構文がやたら長くなって覚えるのだけでいっぱいいっぱいだよー」
「確かにそうね」
そう言ってお茶を啜る。
そう、組み合わせると構文が長大になるのだ。
基本的に組み合わせの魔術はアンド構文によって成り立っている。例えば治癒魔術なら、水のマナで治癒魔術の基本を組み立て、その後に別の属性のマナを組み合わせてより効果の高い治癒魔術にする。
前世のプログラマーとしての知識があると、あの長大な構文は無駄とさえ思ってしまう。
無駄のないコードを組み立てる天才プログラマーとして名を馳せたエルにとっては、もっと簡略化しても同じ効果が得られる魔術を組み立てることができる。
だが、今それを言ったとしても教師のプライドをへし折るだけだし、学生の身分でそんなことをしてしまうと教師陣から目をつけられかねない。
学生のうちは学生らしく、大人しくしていようと思っているエルにとっては無駄だとわかっていても口を挟むことはしない。
卒業して魔術師として独り立ちした暁にはそういう方面に手を出してもいいだろうが、今はそのときではない。
だから新しい魔術の知識が得られる古代魔術に傾倒しているのだった。
「でも古代魔術かー。例えばどんな魔術があったのー?」
「水のマナで言うならダイダルウェーブって魔術があったみたいね」
「だいだるうぇーぶ?」
「簡単に言えば洪水を引き起こす魔術。本によるとすんごい長大な詠唱を唱えて、大規模な洪水を引き起こして敵の軍勢を飲み込んだり、干魃のときに川の上流で発動させて水不足を解消したりしたみたいよ」
「へー。さすがにそこまではいらないけど、水不足を解消できる魔術があるなら教えてもらいたいなー。干魃が起きたときとか、水がないと山の実りも少なくなるしねー」
「そうね。作物にとって水は大事だから、古代魔術ほどの威力はいらなくても、水不足を解消できる魔術があったら便利よね」
「うんうん」
実は去年同じ事をして干魃を乗り越えた話は封印しておく。
ダイダルウェーブもあの魔術を発展させれば、似たような効果が発揮できる魔術になるかもしれないと思っているが、言ったところで荒唐無稽な話としてしか思えないだろうから黙っておく。
「なんだい? 古代魔術に興味があるの?」
そんな話をしていると、不意に隣から男性の声がかかった。
振り向くとほとんど見た覚えのない学生がニコニコと笑っていた。
「興味がある、ってくらいですね。まだ学生なので今はただ、大昔にはこんな魔術があったんだって面白く読んでいるだけです」
「そうなんだ。てっきり将来は古式派の研究者にでもなるのかと思ったよ」
「そういう派閥には興味がないので」
「でも魔術師になるんだったらたいていはどちらかの派閥に属することになるよ。冒険者になるならいざ知らず、研究者になるにしても、宮廷魔術師になるにしても、古式派か革新派で扱いが全然違うからね」
「そうなんだー。まぁでもあたしには関係ないかなー。卒業したら村に戻ってみんなの役に立つ魔術師になりたいだけだから、派閥がどうこう言われてもピンとこないしー」
「私も。まだ学生なのに派閥がどうこう言われても全然実感が湧きません」
「学生のうちでも派閥に属する学生はたくさんいるよ。教師の選び方でその傾向は顕著だしね」
「そうなんですか?」
「うん。もちろん教師にも派閥が関係するから、革新派の教師を多く選べば革新派に近づくし、古式派に多く師事すれば古式派に近づく。だから今からどちらの派閥につくかを考える学生もたくさんいるよ」
「そういうあなたはどうなんですか?」
「僕は革新派だね。やっぱり今勢力が大きいのは革新派だし、シェルザールの学生ほどの魔力を持っているなら革新派に属していて損はない。だから教師もほとんどが革新派の教師だよ」
「そういうものなんですね」
「まぁでも、まだ夏休みにも入っていない1年生が派閥がどうこう言われてもピンと来ないのはわかるよ。かくいう僕も派閥を意識したのは2年生になってからだ」
なるほど。ではこの男性は2年生の先輩と言うことになる。
「話の腰を折って悪かったね。僕はそろそろ部屋に戻るよ」
「あ、はい」
突然会話に入ってきて、突然終わってしまった相手に戸惑いつつも、先輩だとわかって一応は会釈くらいはして見送る。
「派閥かー。めんどくさそー」
「同感。いちいちそんなのに縛られないで自由にやりたいわよね」
「あたしは村に帰るから派閥だなんだは関係ないけど、エルはまだどうするか決まってないんでしょー? そのうちどっちかに入ることになったりして」
「やめてよ。そんなどうでもいいことに関わっていられないわ。私はやりたいようにやりたいことをしたいだけ」
「それで今は古代魔術?」
「そう。興味を引かれたから調べてるだけで、別に面白いことがあればすぐにそっちに興味が行っても全然不思議じゃないわね」
「そっかー。でもエルは優秀だからどっちからも声がかかったりしてー」
「そんなこと考えたくもないわ。きっとどっちからでも誘われたら断るでしょうね。派閥みたいなよくわかんないものに縛られるなんてまっぴらごめんよ」
だいたい会社勤めを2年で退職してフリーになったくらいなのだから、そういうしがらみに囚われるのはごめんだ。
ちょうどお茶を飲み終わった頃だったので、トレイに皿を重ねてシェリーとともに洗い場に持っていく。
後はお腹が落ち着くまでは古代魔術の本でも読んで、落ち着いたらシェリーと一緒にお風呂に行って、時間を潰せば今日はおしまいだ。
本を読んでいても気が付けばシェリーが構ってきていつの間にかお喋りに夢中になっていたりするから、一日が過ぎるのはあっという間だ。
特に今日はメリンダ先生の講義だったから、シェリーはおさらいをしてわからないことがあるとエルに尋ねたりするからその相手をする可能性が高い。
まぁエルもシェリーに教えるのは復習にもなるので嫌ではない。
今後どういう進路を取るにしても今は受けた講義を完璧にマスターしておくのは悪いことではなかった。
クルストは実験場でフライトップの魔術の練習に余念がなかった。
エルがいい加減と言った構文でも、詠唱を歌うようにすればすでに自在に空を飛ぶことができるようになっていた。
ただ、他の魔術に応用しようとしてもうまく行かない。
子供の頃に聞いた子守歌から吟遊詩人が歌っていた歌まで、覚えている歌をとにかく片っ端から試してみてもフライトップほどの効果は得られなかった。
ただ、たまに組み合わせが合うものがあったりして、そういう場合には倍近い効果が得られるものがあって、エルが行った「歌」と言う概念が魔術の効果に影響を及ぼす、と言うことだけは確信が持てた。
うーん、やはりエルくんがいないことにはうまく行くことが少ないな。
エルが歌という概念に辿り着いたのは幼い頃からの経験則だ。
だからエルは独自の構文で安定した効果が得られる魔術を会得したのだろう。
ルーファスも言っていたが、エルは本当に理論の基礎以外教わっていないらしい。
だから自由な発想で構文を組み立て、効果が安定するためには何が必要なのかを試行錯誤した結果、歌という概念に辿り着いたのだろう。
ルーファスから聞いた話ではエルドリン・グランバートルも是非エルを革新派に欲しいとのことだったので、どうにかしてエルにもっと歌の概念について教えてもらいたいところだった。
とは言え、あいにくと風のマナの講義ではクルストを選んでくれなかった。
他の教師陣に聞けば古式派の教師の講義に出ていると言うことで、対立関係にある古式派の教師に教わっているエルを強引にクルストが連れ出すのは確執を招くので避けたいところではある。
勉強会の名目で誘ってもらうことも可能だが、エルドリンの意向ではそれとなく革新派に誘導するように仕向けろと言うことだったので、頻繁に勉強会の名目で呼び出すわけにもいかない。
あぁ、もっとエルくんの経験を知りたい……!
そう願っていても派閥間の問題や学生を単独で呼び出す危険を冒してまでエルを自由にすることはできない。
だが、エルたち1年生は入学して2ヶ月余りしか経っていない新入生だ。
これから勉強会でも、偶然を装ってでも接触する機会はいくらでも作れるだろう。
クルストは研究者の中でもこうと決めたらそれに邁進して周りに目が行かなくなることが多々ある偏執的な研究者だったから、新しい概念を手に入れてそれに夢中になっていた。
名誉などはグランバートル家にくれてやっても惜しくはない。
ただ、魔術の発展に貢献できればそれで満足なのだが、その満足感を得るためにはエルの協力が不可欠だった。
エルが今受けている個別講義の内容をもっと詳しく調べて、偶然を装って接触するのが一番無難な方法ではないかと思い、早速研究棟に戻って他の教師陣にエルの動向をクルストは探った。
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