#30.


ーーーーー。


 目が覚めると僕は元の姿に戻っていた。床に寝そべっていた体をゆっくりと起こし、後ろを振り向くとソファに寝転びながら眠る優子がいた。気持ち良さそうに眠る彼女に毛布をかけ、僕はココアを温めた。時計を見るといつの間にか針は19時を回っていた。朝からとてつもない衝撃を受けたし、黒猫になっていたしあっという間に1日が過ぎていった。今日はずっと家のリビングにいる。カップに入ったココアをゆっくりとすすると、相変わらずの僕の猫舌はすぐに反応し、短めの悲鳴を上げた。その悲鳴で目が覚めたのか僕は自分のすべき事を思い出した。みんなにも師匠の件を言わないといけない。僕はスマホを取り出してバーの女の子たちとのグループトークを開いた。師匠のアカウントが昨日の時点で無くなっていたのを見ると、心の中の穴がさっきよりも大きくなったような気持ちになった。師匠がグループから退会したという表示を見つめていると、改めて師匠がいなくなった現実を思い知らされる。けれど、悲しんでいても仕方がない。さっき優子が言っていたみたいに僕も行動しないと。しっかりしよう。そう思って僕はみんな宛てにメッセージを送った。


 『みんな、昨日は盛大に誕生日を祝ってくれてありがとうございました。突然ですがみんなに重大な報告があります。本当にあまりにも突然ですが、師匠が今日から旅に出ると言って店を出ていきました。みんなもビックリすると思うけれど、正直僕もまだ信じられません。少しずつその現実に向き合っていくつもりだけど、1人だと心が折れてしまいそうなので、みんなにもいつものように支えてほしいです』


ブブッと僕のメッセージを受信した優子のスマホが揺れた。優子はそれに気付く様子もなく眠っていた。だが次の瞬間、僕のスマホも優子のスマホも急に意思を持ったかのように激しく揺れだした。グループのみんなが一斉にメッセージを送ってきた。これには優子も目を覚まし、目を擦りながらスマホを確認した。


 「あ、ニケさん。ごめんなさい、私寝てしまってたね」

 「あ、あぁ。僕もさっきまで寝てたんだ」

 「メッセージ、送ったんだ」

 「うん。みんなも突然の事で驚いてると思うけど。その返信が今、いっぱい来てるところだね」

 「まぁ全員知っておくべきだよね。あ、そういえばニケさん、黒猫はどこに行きましたか?」

 「へ? あ、あぁアイツか。た、たまに玄関の下の入り口から入ってくるヤツだね。ア、アイツならさっきその入り口から出て行ったよ。ほんの5分くらい前かな?」


不覚にも黒猫の行方を尋ねられる事を想定していなかった僕は、慌ててその場をしのごうとした。けれど、優子には僕の言葉が嘘だと分かっているようにじっと黙って見つめられた。僕の目線があちこちに飛び回りそうになるのを落ち着いて堪えた。


 「ふーん。そうですか。まぁそれなら仕方ないですね。ここにあの猫が来るのは今まで知らなかったな」

 「そ、そっか。言ってなかったもんね。た、たまに家に入ってくるんだよ。でも、最近は見ていなかったからもうどこか別の憩い場を見つけたのかと思ってた」

 「ふーん」


その表情と声のトーンであからさまに不信感を表現する優子の「ふーん」は、僕の心を執拗に慌てさせる。僕は沈黙する優子の様子をただただ見つめた。


 「あ、ニケさん。私、今日からここにお邪魔します」

 「へ?」

 「さっきも言いましたが、師匠がいなくなった分、私があなたを全力で支える」


そう言い放った優子の声は、優しさもありながら頼もしく心強い、まるで師匠のような声に聞こえた。


 「優子の今まで住んでいた所には帰らないの?」

 「おばあちゃんには仕事で寮生活になるって事だけ伝えた。何事も応援してくれるおばあちゃんは二つ返事で背中を押してくれた。だからその心配はいらないよ。それとも、迷惑だったかな?」

 「い、いや迷惑だなんて……」


むしろドキドキしている僕の胸中は優子に伝わっているだろうか。僕が言葉を詰まらせながらモジモジしていると、再びスマホが盛大に鳴った。今度はメッセージではなく京子からの着信だった。


 「ご、ごめんちょっと電話出るね」


慌てながら通話ボタンを押すと、


 『ニケくん! 遅いです!』


耳の鼓膜を破ってきそうなほど大きな京子の声が、僕の耳の中で爆発した。僕は一瞬気を失いそうになった。


 『え、えっと。ごめん京子、今ちょっと手が離せなかった。要件、何だった?』

 『メッセージ見てください! みんなその話、知りたくてしょうがないんですよ!』


京子に促されるままメッセージを確認すると、通知の数字が今まで見た事のない表記で今にもパンクしそうになっていた。そのどれもが理由を教えてほしいという内容だった。すると、グループトークから全員のスマホが繋がり、他の女の子たちの声も聞こえてくるようになった。


『ニケくん、師匠は本当にいなくなったの?』

『私たちも全然知らなかったんだけど』


風花と真希の声が届いた。普段はおっとりとした話し方をする真希が、この時点ですでに怒っているように聞こえてきた。僕が急にそんな話をしたのだから当然だ。


 『僕も朝、テーブルの上にあった書置きを見るまでは全く知らなかったんだ。だから理由は本当にわからないよ』


通話状態が続いたまま沈黙が訪れた。誰も何も話さない。僕はみんなを心配させたくなくて必死に頭を回転させて言葉を探した。


 『一番近くにいたニケさんが知らなかったのだから、誰にも分からなかったんだと思います』


優子は僕の隣で、僕を庇うように沈黙を破って言ってくれた。すると、みんなとの通話が切れたのかと錯覚するほど静かになった。


 『うん、そうだね。優子ちゃんの言う通りだ。昨日があんなに楽しかったから尚更誰にも分からないよ』


優子の声に応えた美咲の声は今にも消えそうに、か細く震えていた。それは黒猫になっていた僕が初めて優子と会った日に聞いた、優子の寂しい声と重なった。


 『ごめん。僕も何か知っている事があったらみんなに言いたいんだけど。あるのは本当に師匠がいなくなったっていう現実だけなんだ。多分この現状を受け入れるのは相当辛いと思う。正直、僕もけっこうキツい』

 『そうだよね……』


真希の声も、受け入れ難い現実を必死に受け止めようとしているようだった。


 『だけど、師匠は必ず帰ってくる。手紙にも相変わらずの独特な字でそう書いてあった。だからいつ師匠が帰ってきてもいいように、いつも通りこの店をやっていくつもりだよ。オレがいないと何も出来ないのかーって言われるのはムカつくしね』

 『フフ、確かにそうだ』


風花の笑う声を聞いて僕の心も少し落ち着いてきた。


 『何ならすぐに金が無くなったとか言ってフラっと帰ってくるかもしれないし』

 『うん、師匠ならありえますね! 大好きな師匠がいなくなって私もすっごくつらいけど、みんなと一緒に師匠が帰ってくるのを待ちたいです!』


明るい京子の声が、暗い気持ちを吹き飛ばしてくれるように耳に届いた。鼻をすすりながらそうやって僕を励ましてくれる京子の声に僕もつられて涙を流してしまいそうになった。今は泣いてはいけない。絶対。僕は必死に感情を抑えて口を開いた。


 『だからこれからも今まで通りみんなの力を貸してほしい。僕は1人では何も出来ない。逆に言うなら、みんなと一緒ならこんな僕でも何か出来る事があるのかなって思える。そしてみんなでこの素敵な店を支えていきたいって思ってる』


僕の言葉を聞いたみんなは一瞬沈黙し、途端に花火が打ち上がったように大きな笑い声を一斉にあげた。


 『ニケくんがそんな事言うようになったなんて何か感動しちゃったなー!』


茶化す真希。


 『よっ! さすが17歳! 昨日の誕生日パーティを経て少年から青年に進化したね!』


さらに煽る風花。


 『お姉さんたちは嬉しいです! 私もニケさんもみんなも辛いだろうけど、みんなでここを乗りきりましょう!』


常に妹に見えている京子からも姉呼ばわりされる始末。けれど、そんな事を言われながらも僕の周りにいるこの人たちの存在が、この人たちの優しい声が僕の目頭をじんと熱くさせた。


 『馬鹿にするのは程々にしてね』


感情を抑えながらそう言うと、みんなの笑い声は一層大きくなった。僕の心にずっしりとのしかかっていた不安や悲しみは、電話越しで繋がっているみんなと、僕の隣で優しく微笑んでくれる優子のおかげで随分と軽くなった。


 『じゃあ次の営業は、いつも通り金曜日の夜からするつもりだから担当の美咲、京子、優子はヨロシクね』

 『はーい!』

 『こちらこそ。お願いします』

 『分かりました』

 『じゃあ、師匠が帰ってくるまでみんなで盛り上がっていきましょう』


 最終的には明るい雰囲気でグループ内の通話が終わった。ぎこちなく口角を上げる意識をして隣の優子を見ると、彼女は大粒の涙を流して笑っていた。それを見て僕の心臓が大きく跳ねた。


 「え、優子!? ど、どうしたの?」

 「ふふ。さっきの言い方、師匠みたいだなって思ってたら何か泣けてきちゃった」

 「さ、さっきの言い方……?」

 「ヨロシクねっていう言い方。やっぱりニケさんは師匠の息子だね」


そう言って優しく笑ってゆっくりと僕の肩に身を預ける優子を僕は抱きしめた。緊張してどうにかなってしまいそうなぐらいバクバクと動く心臓の音が優子にも伝わっているような気がしたけれど、そんな事はどうでもよくて彼女を抱きしめた。それは彼女の涙を止めたくてではない。彼女に触れたくて彼女の体温が知りたかったからだ。優子が黒猫になっていた僕を抱きしめてくれた時のような力加減で優しく包んだ。すると、優子は同じように僕の背中に優しく手を回した。その後、僕たちは互いの体を温め合うように身を寄せ合って眠りについた。優子の体温は僕の目から涙を流すくらいに暖かくて、師匠と同じ匂いがした。


僕はこの瞬間、自分がひとつ歳をとって大人の「人」に近づいた気がした。


            

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