第3章 『師匠と師匠の師匠』 #20.

            ✳︎


 5月10日。肌から滲むじっとりとした汗が自分でも分かる程、気温が高い朝だった。いや、部屋に差す日差しの位置からすると昼ぐらいだろうか。ベッドで寝ているオレの腹の上に何かが乗った。開きにくい瞼を擦りながら意識をはっきりさせていくとそこには見慣れた、ただ久々に見た黒猫がいた。オレはコイツがニケだとすぐに分かった。黒猫の姿になったニケを見るのはかれこれ3ヶ月ぶりぐらいだ。相変わらずコイツの猫になった姿は、食べてしまいたいぐらいに可愛かった。


 「おぉ、久しぶりだな、黒ニケ。そんなにオレの体が好きか」


冗談まじりに茶化すようにそう言うと、黒ニケはそっぽを向いてそそくさと部屋を出て行った。早足で出て行ったところを見ると、どうも図星だったらしい。


 「ホント可愛いやつだな」


オレはうーんと体を伸ばして側に置いていたペットボトルの中の水を一気に飲み干した。うん、眠気覚ましに飲むこの一杯はマジで美味い。オレは部屋でなんやかんやしてから1階へと下りた。階段を降りるたびに曲げる足の筋肉がいつもより軋んでいるように感じる。あぁ、やっぱりな。オレは珍しく昼頃まで寝てしまっていて、時計を見ると既に12時を回っていた。これまた珍しく起きてすぐに腹の虫が鳴ったオレは、その流れで簡単にオムライスを作り、黒ニケには好物の牛乳を用意した。


 「黒ニケ。お前の分な」


オレは平たい皿に牛乳を注ぎ、それを黒ニケに差し出した。すると、黒ニケはあざとい目を向けてから、ちろちろと小さな舌を出してそれを舐め始めた。


 「今日もあの公園へ行くのか?」


オレの問いかけに対し、黒ニケはニャウと鳴いてから一度首を縦に振った。


 「そっか。気をつけて行ってこいよ」


もう一度首を縦に振り牛乳を舐め終えた黒ニケは玄関へ向かって歩き出した。コイツは自分が可愛い生き物だということを自覚しながら行動している。まぁ事実、可愛いんだけどさ。


 「あ、ちょっと待て」


オレの言葉を聞いた黒ニケは立ち止まり、オレの方へ顔を向けようとした。顔がこっちを向ききる前に、オレは黒ニケの小さな体を抱き上げ強めの力で抱きしめた。


 「行ってらっしゃいのギューだ!」

 「フギャア!」


黒猫の悲鳴が短く部屋に響いた。オレは決してSではないが、黒ニケのそういう表情を見るのがたまらなく好きだ。上手く言葉には出来ない愛おしさがそこにある。そう、愛ゆえだ。


 「ハハハ! 元気な声だ! その意気で行ってこい! もし優子に会ったらよろしくな!」


家のどこにいても伝えられそうな程大きな声で黒ニケに向けてそう言うと、アイツはオレの顔を見る事もなく玄関の下部分に作った黒ニケ専用の出入り口から逃げるように出て行った。


 「アイツも成長したなぁ」


ニケの成長に感慨深く感じながらオレも昼食に使った食器を片付ける。今日は夜の営業までする事がない。つまり1日暇人というわけだ。何もする事がない日は本当に久しぶりだ。久しぶりすぎて逆にする事が思いつかない。


 「そういやニケのやりたい事、まだ教えてもらってなかったな」


少し前にニケが自分でやりたい事を見つけたと言っていた。それをまだオレは教えてもらっていなかった。それを気にしてしまうと、ますますそれが気になってしまう。気がつくとオレは無意識にニケの部屋のドアの前に立っていた。


 「掃除のつもりで入るだけだからな」


そんなことを自分に言い聞かせながら、オレはちゃっかりアイツのしたい事に繋がるヒントを探し当てようと企んでいた。一度深呼吸をしてからニケの部屋のドアを開けた。しばらく見る事のなかったあいつの部屋は、あらゆる物がきっちりと整頓されていた。本棚に並んでいるマンガやシリーズものの小説は順番に並んでいるし、テレビやエアコンなどのリモコンは洒落た小さな木の箱にきっちりと収納されている。アイツってこんなに几帳面だったっけ。


 「けど、こういう所にエロい本が」


ベッドの下を覗くとそこにそんな物があるはずもなく、冬物のセーターや毛布などが透明の入れ物に冬眠しているように眠っていた。オレの部屋とは大違いだった。いや、みんな違ってみんないい。比べる必要はない。オレは強引に自分に言い聞かせて捜索を進めていく。


 「ん?」


黒いテーブルの上にある透明なクリアファイルを見て、ふとオレの目がそこに止まった。これは絶対、何か意味のあるものだ。そう確信してその中を見てみると、そこには何やら細かい文字がずらっと並んでいる紙が挟んであった。ビンゴ。ニケには心の中でそっと謝罪をし、オレはその文字を読み始めた。読んでいくと、それは物語だと分かった。黒猫が主人公のそれは、ニケのやりたかった事がこれだろうなとオレは確信した。文章にはニケらしさが伝わる優しい表現が多くあった。オレは何かに取り憑かれたように物語を読んでいく。それを全て読み終えると、すぐに続きを読みたくなるような不思議な中毒性がその物語にはあった。


 「ハハ。あいつの生活、そのまんまって感じだな」


途中で出てくる女の子のモデルはおそらく優子だろうな。あいつらもこの物語の黒猫と女の子もハッピーエンドだといいな。いや、エンドだとよくないか。いつまでもハッピーのままでいてほしい。オレは勝手に頭の中でそんな妄想を描いていた。


 「邪魔したな。師匠はこれにてお暇するよ」


オレは触っていた紙をアイツに気づかれないよう丁寧にクリアファイルに戻してからニケの部屋に別れを告げた。その時、オレは背中にピリッと痺れるような痛みが急に走って背筋がぴんと伸びた。まるで体の中に弱い電流を流されたような感覚だった。


 「いって……」


昨日やった大量の米袋を持ち上げまくったのが原因だろうか。オレもすっかり歳を取ってしまった。今日は大人しく体を休めようか。オレはソファに寝転び、ニケが貸してくれた百合かもめの小説を開いた。本の内容は、闇に覆われた世界を5人の光の戦士が救うという、RPGにありがちな設定の物語だった。うーん、最近の流行はよく分からん。好きな音楽をスピーカーから流し、好きな匂いのアロマを焚いて好きなチョコレートを口に入れる。オレなりの最高のリラックスタイムが幕を開けた。そんな空間を堪能していると、オレは催眠術にかかるように徐々に瞼が閉じていった。


 

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