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 カーテンを開けると、太陽の光が部屋に滑り込んできた。晴天が嫌いというわけではないが、季節柄暑いのは勘弁して欲しい。毎日曇りでもいいくらいだ。そう考えてしまうと、こんなに空が晴れているのにため息を吐きそうになった。


 ため息をぐっと飲み込んで制服に着替え始めた。


 いちごジャムを塗りたくったトーストをコーヒーで流し込み、カバンを手に立ち上がった。


「行ってきます」と小さく言えば「いってらっしゃーい」と、千歳さんの気だるそうな声が聞こえてきた。その声を確認してから家を出る。俺という人間を形作る数少ない習慣みたいなものだった。


 ここに住んで六年になるが、まだこのマンションを実家だとは思えない。きっとどこに住んでいても同じことを思っただろう。例えば、自分の「実家」に住んでいてもそう思うはずだ。


 エレベーターで一階まで降り、マンションを後にした。千歳さんは一応作家であり、ほぼ毎日キーボードを叩いている。さすがに正確な収入はわからないが、こんないいマンションに住めるのだ。それなりに稼ぎがあるのだろう。


 俺がマンションを出るのと同時に、ショートボブの女の子がマンションに入ってきた。先輩の七楽朱音ならくあかねだった。彼女を先輩と呼んだことは一度もない。彼女が「年とかどうでもいいでしょ。せっかくお隣さんなんだから仲良くしようよ」と言ってくれたからだ。


「おはよう、朱音ちゃん。今日もゴミ出し?」

「おはようミハル、いつも通りのゴミ出しさ。ミハルは今日も早いんだな」


 ニカっと、朱音が歯を見せて笑った。


「できるだけ人がいない時間に行きたいからな」

「遅刻するよりいいと思うよ。私も学校行く準備しなきゃ」


 朱音ちゃんは「それじゃあな」と手を振りながらマンションへと入っていった。


 両親が忙しいという理由から家事全般を任されているらしいが、アクティブでボーイッシュな彼女が料理をしている姿を想像するのは難しい。しかし朱音の料理は非常に美味しく、時々お呼ばれすることもある。それでも想像が難しいのは、料理している姿を一度もみたことがないからだと思う。キッチンに入ろうとすると嫌がるのだ。


 歩き出してすぐに欠席しようとすら思った。夏服に変えたというのに立っているだけで汗が吹き出てくる。家から近いという理由で高校を選んで正解だった。通学が面倒だというのもあるが、地元から通う生徒はそこまで多くないので非常にありがたい。友人もおらず、人と接するのがあまり得意ではないからだ。


 きっと小学校や中学校の同級生は俺によくしてくれたんだと思う。遊びに行くときは誘ってくれたし、話を振ってくれたことも覚えている。でも違和感が拭えなかった。無理矢理「友人」という枠に収めようとするような、そんな感覚があったんだ。気を遣ってくれているのがわかったら申し訳なくなり、結局馴染むことができなかった。


 学校と自宅の中間地点、そこには一人の男子生徒が待っていた。その男子生徒は手を上げて「遅いぞー!」と声を上げた。


 歩調を変えずに近づき「うるさいよ」と、そのまま通り過ぎた。


「おいおい、一度止まるとかくらいはしてくれよ」

「どうせついてくるんだからいいだろ」


 結局、その男子生徒は俺の横に並んで歩いている。


 来栖龍星くるすりゅうせい、顔立ちは整っていて身長が高い。運動もできるので女子の黄色い声がついて回るような男だ。頭の方は正直あまりよくなく、俺よりも点数は低い。受験前は俺が勉強を教えたほどだ。中学校が同じクラスだったというそれだけの間柄。なぜか俺についてこようとするのは中学からの疑問だ。カラオケ、ゲームセンター、ウィンドウショッピングなんかには必ず俺の肩を抱いて誘ってくる。半分くらいは付き合っているが、一応友人と言っていい存在だ。


「そりゃついてくよ。唯一無二の友人だからな」

「お前友達いなかったのか。寂しいやつだな」

「バカな、俺は友達選び放題よ。友達の米どころみたいなところがある。ハルとは違うんだよ」

「例えがよくわからん」

「お前にとって唯一無二の友人、親友と言ってもいい。それがこの俺来栖龍星だ」


 大きく前に出て、親指を突き立てて振り返っていた。俺は当然のように無視して通り過ぎた。


「ちょっとちょっと! 少しはリアクション取ってくれてもよくない!」

「俺がリアクション取るようになったら怖くない?」

「一理ある」

「あるんじゃん」


 俺とリュウの会話はいつも変わらない。基本的に真面目な話などしたことがなく、くだらない話をリュウが振ってきて、俺がそれをサッと流す。「友人か?」と聞かれると「友人かもしれない」としか答えられない、そんな関係だった。


 くだらない話をしながら学校に向かった。リュウはずっと笑いながら話し続けていた。口には出さないが、無言の時間がないことに関しては感謝している。


 リュウとはクラスが違うので教室の前で別れた。


 教室の中にはすでに数名の生徒が登校していた。女子が五人、男子が三人。早く登校するのはクラスの中で地味な部類の生徒ばかりだ。偏見かもしれないが、割と早く登校する俺が言うんだから間違いないだろう。おとなしくできないリア充や不良たちなんかは、ギリギリとはいかなくても遅めに登校することが多い。


 早く登校してきた女生徒の一人には転校生の姿もあった。一色周だ。


「おはよう」

「ええ、おはよう」


 基本的には挨拶以外は声を掛けない。転校して四ヶ月くらいになるだろうか、案の定彼女には友人はできなかった。彼女自身もそれを望んでいただろうし、クラスメイトもまた近づこうとは思わなかった。


 自分の席に座ってカバンから文庫本を取り出した。最近出たばかりの好きな作家の本だ。


 本はいい。時間を忘れられるし、いろんな世界が広がっている。作者ごとに文章の構成が違うのも面白い。知らない言葉なども出てきて、読み終わったあとはちょっとだけ賢くなれたような気分になる。なによりも文字から想像できることがここまで多いのだと教えてくれる。


外村とむらくん」


 凛とした声が俺の名字を呼んだ。一色の声だと気付くのに時間はかからなかったが、今までほとんど呼ばれたことがなかったのでどう反応していいかわからなかった。


「俺?」

「このクラスで外村はアナタだけでしょう?」

「そりゃそうなんだが。なんか用か?」

「いつも文庫本を読んでいるから。今日はなにを読んでるの?」

「一色さんも本好きなの?」

「好きよ。小説も漫画も基本的には白黒でしょう? 私の色覚異常を忘れさせてくれるから好きなの」


 そう言いながらも一色は微笑み一つも見せなかった。よく考えればこの四ヶ月の間、彼女の笑顔を見たことは一度もない。僅かだが眉間にシワをよせるという表情以外、彼女はずっと無表情だった。


「で、今日はなにを読んでるの?」


 改めて聞き直され、急いでブックカバーを外した。


「十束慧の『花よ風に散れ』だな」

「外村くんは十束慧が好きなの?」

「まあ、そこそこかな」

「そう。今度読んでみるわ」


 それきり、彼女は自分で持ってきた本を読み始めた。本好きなのは知っていたが、まさか俺の本に興味を持つとは思わなかった。


 読書に没頭していると気が付かないものだが、ふと時計を見たときには教室はクラスメイトで埋まっていた。


 チャイムが鳴り、担任の志倉航一郎が入ってきた。顔は三十代半ばといったところだが、腹はでっぷりと出ていて無愛想、ヒゲが濃く額が広いのでもっと年上にも見えなくもない。


 ホームルームもつつがなく進行してチャイムが鳴った。志倉の代わりに数学の教師が入ってきた。


「起立、礼」と日直の生徒が言う。俺たちはそれに従って立ち上がり、軽く会釈をしてからイスに座る。今日もまた、面白くもない一日が始まる。


 午前中の授業が終わりお昼休みになった。俺は教室でリュウと昼食をとるのが日課となっていた。俺の前の席を借りて机をくっつけるのだが、正直女生徒から好奇の目で見られているのが嫌で仕方がない。


 千歳さんが作ってくれた弁当を広げ、表面が黒焦げになっている卵焼きを口に入れた。


「思ってたんだけどさ、なんでそんな顔でご飯食べるわけ?」


 行きがけにコンビニで買ってきたであろう焼きそばパンを頬張りながら、リュウは不思議そうに訊いてきた。


「この状況を一年以上続けてきたけどな、そろそろお前との昼食を卒業しようとさえ思っている」

「もしかして学校辞めるつもりか……?」

「なんでそうなるんだよ。お前との昼食イコール学校なのかよ」

「お前の学校生活は俺といる時間がすべてじゃん」

「どう考えても授業してる時間が大半だろ。お前と一緒にいる時間は体育と休み時間くらいだ」

「時間の長さはどうでもいい。そんな話はしてないんだよ」

「じゃあなんの話だよ。つか食べながらしゃべんな」


 リュウは急いで咀嚼を繰り返し、喉を鳴らしていちご牛乳を飲んだ。


「密度だよ。長い時間をダラダラ過ごしても意味はない。その時間の中でどれだけ濃密な時間を過ごせるかということだ」

「お前、今世界中の教育者にケンカ売ったって自覚ある?」

「さあ、なんのことだか」


 ビニール袋から二つ目のパンを取り出した。焼きそばパンの次はクリームパン、リュウとしては「しょっぱいものの後は甘いもの」という精神からきているらしい。毎日しょっぱい系のパンと甘い系のパンを用意してくるのだから、その点には関心している。


 イスに寄りかかると、目端にある人物が写り込んだ。自分の席で粛々と、無表情のまま弁当を食べる一色周の姿だった。誰に対しても仲良くなろうとせず「他人である」という姿勢を崩さなかった。必然の孤立だ。


 しかし、彼女の表情は「これでいいのだ」と言っているように見えた。こうあるべきだ、こうなりたくてなっているのだ。少なくとも俺にはそう見えるし、だからこそクラスメイトも触れることを辞めた。


「なんだ、一色さんが気になるのか?」


 そんな声が耳元で聞こえてきた。いつの間にかリュウの顔が横にあった。


「やめろ気持ち悪い」


 両手で胸を押し返すと、龍星は気恥ずかしそうに笑っていた。


「なんでちょっと嬉しそうなんだよ……」

「スキンシップって大事だな、と思っただけだ」


 クラス中の視線が集まっているような気がする。女子生徒のヒソヒソ声も聞こえてくる。誰とも仲良くなるというのは特技の一つだと思うのだが、物理的にいきなり距離を詰めてくるのはやめてほしい。


 それでも身を乗り出して顔を近づけてくる。露骨に嫌な顔をしてやるが気に留めた様子はない。


「で、どうなんだよ」

「どうって、なにが?」

「一色さんのこと気になってんのか?」

「まあ」と言いつつ、本当のところはどうなのかと考えてみた。

「気にはなってるよ。異性としてというよりは人としてだけど」


 考えてみてもそういう結果にしかならなかった。これだけミステリアスなのだ、そう思うのが当然だと思う。


「気になるのが普通だよな。でも一色さんと五分以上会話できる人見たことないぞ。さっちゃんでさえ三分が限界だ」


 塩田紗千香。クラス委員で面倒見がいい。性格は明るく、彼女の口からネガティブな発言を聞いたことがないほど前向きだ。一年の頃から髪型をほとんど変えることなく、クラスの中では三編みイコール塩田紗千香。それほどまでにクラスの中では大きな存在である。


「塩田さんでもダメか」

「必要最低限の会話も要点だけを相手から引き出してスパッと会話を終わらせるからな。対人能力はないのに対話能力が高すぎる」

「高効率なんだろうけどコミュニケーションという点においては難ありだな」

「それが一色さんの魅力でもあるんだろうけど、高校生活はもっと気楽な方がいいと思うんだよな。くだらないこととかどうでもいいことを楽しむっていうかさ」

「なんで上から目線なんだよ」


 確かにリュウは高校生活を妙に楽しんでいるフシがある。交友関係が広いというのもそう、誰かにちょっかいをかけたり体育測定で賭け事をしたりと枚挙にいとまがない。


「誕生日的には俺の方が先輩」

「同学年だからな?」


 胸を張っているが、転校や編入で先輩後輩は決まらないぞ。


「でもお前、気付くと一色さんのこと見てるよな」

「そんなことないだろ」


 と言いながら一色さんの方を見た。


「ほらそれだよそれ。もしかするともしかするのか?」

「もしかするってどういう意味だよ。異性として見てるのかと言われればノーだ」

「美人で髪の毛サラッサラで頭が良くて、ちょっと胸の方は心もとないけど清楚で美人じゃん」

「やけに美人を強調するな。気持ちはわかるが、今挙げた美点は外見の良さしかわからないぞ」

「だって喋ってくれないんだもん」

「お前と一色さんは水と油だ。触れない方が身のためだぞ」

「昔から思ってたんだけど水と油って表現面白いよな。混ざり合うことはないけど、混ぜただけで爆発するわけでもないだろ? 油が燃えても水は無事なわけだし、油側不利じゃない?」

「なんの話をしてるんだよ……」


 一色さんはハンカチで口元を拭い、タンブラーの中身を一口飲んでから弁当箱を片付けていた。迷いがない動きは見惚れるほどに綺麗だった。コンパクトな腕の動き、指先はしなやかに動き、黒くて長い髪の毛がハラハラと重力に従って落ちる。ずっと見ていたいと思うほどに鮮麗されていた。


「否定するのおかしいくらいガン見してるじゃん」


「黙ってろ」


 気になってるんだから仕方ないだろ、とは言えなかった。気恥ずかしかったわけじゃない。彼女に興味を持っているということを認めてしまったらもっと知りたくなってしまう。どうして頑なにその姿勢を崩さないのか。どうして他人を拒絶しようとするのか。どうして頭がいいはずなのに上手く立ち回ろうとしないのか。どうして――。


 そう考えて、やめた。


「そんなことより、この前買ったゲームどうだ? 面白い?」


 話題を変えてやり過ごすことにした。今までやってきた。都合が悪ければ自分から話題を変えればいい。そうやってやってこれたのだから、きっとこれからも今まで通りでいい。

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