ミッドナイト・ドライブ

㉝JK、他の女の名前で呼ばれるも怒らなかったのこと。


 深夜の病院の受付は、冷たい洞窟のように無人だった。

 一秒を一年にも感じる思いで糺一はじりじりした。

 ようやく当直の看護師があらわれた。


 彼女は糺一の顔をひと目みるなり血相を変えた。


「どうされました!?」

 看護師は気色ばんでいった。


「はい、妹が、こちらに急患、そう急患で――ええと交通事故のはず、それで、運ばれて……ああ、どこへ行けばいいのでしょうか、わからないんです、どうか助けてください――!」


「その廊下を真っすぐ」

看護師はてきぱきといった。

「エレベーターで、四階までどうぞ。そこに担当の者がいます。どうぞお気持ちをしっかり」


 糺一は青白い廊下をほとんどひと跨ぎで駆け抜け、深海の中のようなエレベーターの中で天を仰ぎ、到着した四階で母が白衣の人物と話している――というよりなだめられているのをみた。


「母さん」

 糺一はいった。


 母はふり返った。

 その息子とよく似た顔には、温もりもなければ理解もなく、人に(特に息子に)いつもある種の罪悪感を抱かせる奇妙な表情が貼りついていた。


「綾はどこ?」

 糺一はたずねた。


「遅かったわ」

 母は息子にいった。


「綾はどこ?」


「遅かったわ」

 母は繰り返しいった。

「あなたはいつも遅いのよ」


「綾はどこなんだ!?」

 糺一の顔が崩れていった。


 そして崩れた彼の顔の奥からもう一面の顔が現れていくようで、それは名前のない感情がわき上がっていくような表情だった。

 怒りに似ているがどこか異なる、欲求不満の最たるかたち、人が正気を失う寸前にみせる感情というべきものだった。


 全身の神経が極度に張りつめている状態で糺一はいった。


 母の姿は(いつもそうだったのであろう)息子から遠のいていくようだった。


「ああ、母さんすまない、動揺しているんだ、綾は……」


「そこのドア」

 母は一室を指し、どこか別の空間から届いてくるような声でいった。


「ありがとう」

 糺一はドアの方へ静かに進んだ。


 彼はなにか物質的な支えが必要かのように廊下の壁に手をついて歩いた。

 そしてドアノブをひねった。


 病室に入ろうとした糺一の肩を、見えない何者かがつかんだ。

 その手は彼のからだを強く揺さぶった。

 周囲の、夜の病院内の光景が混濁していった。


 綾、綾、綾、綾と糺一は声にならない声で妹の名を呼んだ。


               ◇


「ちょっとお、糺一さん、どうしたのよ」


 電気ショックにかけられたように、びくりとからだを震わせて糺一は目を見開いた。

 彼はまだ寝起きの見えているが見えていない目で、こちらを覗きこんでいる少女の顔をみた。


「しっかりしなさいな」

 少女はいった。


「綾かい?」


「いーや。あたしは瀬乃ちゃんで、あんたは糺一さんだ」

 瀬乃は瀬乃の顔でいった。


 糺一の顔は痙攣し、その呼吸は乱れ、脂汗をかいている胸は上下していた。

 彼が周囲にめぐらせた視線がとらえたのは、見知らぬ車内の光景だった。

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