元ボクサーの哀悼歌
⑲キューピー、スラム街で目当ての店にたどり着くのこと。
糺一と瀬乃は目当ての駅で電車を降りた。
そこはアジアの魔窟を連想させる街並みだった。
外壁の剥がれた建物、その建物と建物のあいだに張られた物干し綱、簡易体の漢字で書かれた看板、ぼろを着た子ども、痩せた犬――これらがあった。
人々がスラム街という言葉をきいたとき思い浮かべるであろう光景そのものがひろがっていた。
「本当にここ?」
「あんまり長居したくない場所だな」
「てか糺一さん、なんでそんな端っこ歩いてんのよ」
道の真ん中から瀬乃が呼びかけるようにいった。
「広所恐怖症なんだ」
「いいからこっちにおいで」
瀬乃は手招いていった。
「強盗とかを警戒してんのなら、道の端はかえって危険だよ。あたしみたいに真ん中あるいてたほうが、左右どっちから襲われても時間が稼げる」
糺一は急ぎ足で、瀬乃のそばまで歩み寄った。
ふたりは舗装の傷んだ道を進んだ。
すれ違う人々は、無縁の生き物をみる一瞥をくれるだけだった。
瀬乃は顔を突き出すようにして道路の向こうをみやり、手もとのスマホの画面と見比べた。
「ほら、あすこだ」
彼女の指した先には一階にショーウインドウの入ったビルがあった。
くすんだガラス張りの飾り棚に、極彩色の下着類が陳列されているのがみえた。
ふたりは無言で、その毒花のようにけばけばしいブラジャーやらパンティやらを眺めながら店に向かって歩いていった。
自動ドアをくぐると、薄暗い店の奥のほうでベルが鳴り、それからまた静寂が戻った。
店内は埃っぽく、きわどいデザインの下着類がショーケースのなかに並んでおり、床の上には乱雑に段ボールが山積みになっていた。
「本当に営業してんの?」
瀬乃は顔をしかめていった。
糺一はカウンターに身をのり出して、店の奥のほうへ声をかけた。
「あのゥ……どなたかおられませんか――」
数刻ののち、奥のほうからやや足を引きずるような足音がきこえてきた。
『スタッフ以外立入禁止』とあるのれんが二つに分かれてひとりの男が現れた。
動作のぎこちない、鶴のように痩せた老人だった。
「なんだね?」
老人は歯のない口をふがふがと動かしていった。
「あのですね、少々、立ち入ったことをおうかがいしたいのですが――」
「え?」
店主とおぼしき老人は、まるで話をきく気配のない表情で聞き返した。
糺一は、外套のポケットから例の下着を差し出した。
「お・た・ず・ね・し・た・い・こ・と・が・あ・る・の・で・す。こちら」
彼はひと言ずつ強調するようにいった。
「この下着を、こちらのお店で求められた方について――」
糺一がそこまでいったところだった。
「おいっ、冷蔵庫のなかが空だ! 飲むもんがなにもないじゃないか!」
年配女のものと思われる凄まじい胴間声がのれんの向こうから飛んできた。
糺一と瀬乃は、その鐘を割らんばかりの声量に、耳もとに爆撃を受けたかのごとく思わず身をすくめた。
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