第85話 桔梗24

 生きていた、ということだろか。


 吸血鬼ならあり得る話かもしれない。

 普通の人間なら到底生きているとは思えない状態だったとしても、吸血鬼ならそこから復活が可能だ。


 冴島さえじま理玖りくも片足が切断されたが、元に戻っている。迷子ですらこの回復力なのだ。


 事件の捜査が途中でうやむやのまま終わったのも、それなら頷ける。

 被害者は生きているし、その際に受けた傷もすぐさま治ってしまったのだ。

 事件がなくなってしまった。


 ただ、そうすると、あのファイルは何のためにあるのだろう。

 あれは犯人を探すため、情報を集めたように思えたのだが。


 入ってきた女性はまっすぐに公主のほうへ向かう。

 こちらには見向きもしない。

 すらりとした長身。


 違う。

 資料によると被害者の身長は百六十センチほど。たとえヒールが十センチあっても、まだ私よりも低いはずだ。それなのに、私よりも高い。百八十センチ前後ある。


 弟の方か。

 榎木丸えのきまる潤也じゅんや


 面差しが似ているといっても、メイクでここまで近づけることができるというのが驚きだ。


 何のために姉の格好をしている?


 榎木丸潤也は立ち止まり、公主の背後にいるバックドアを見る。

 バックドアもその視線を受け止める。


 まるで果し合いのようではないか。

 もし戦闘になるようなら、なりふり構わず未成年者二人を連れてこの部屋から出なければならない。


 その余裕はあるだろうか?

 それとも、二人のことは森咲もりさきトオルに任せたほうが安全だろうか?

 森咲トオルのほうを見る。が、目配せしようにも彼はこちらを向かない。


 緊張で吐きそうだ。

 心臓がゆっくりと、しかし大きく鼓動するのを感じた。



 無言のまま時間が過ぎた。


 これは何の時間なんだ。

 何かを、もしくは誰かを待っているのだろうか。


 榎木丸潤也は何も言わないし、何の行動も起こそうとしていない。その片鱗もない。

 公主はぼんやりとした眼差しで床のあたりを見ている。口の端は小さく上がっていて、微笑んでいるようだった。

 バックドアは早くこの場を去りたいだろう。今夜の彼の仕事はこれだけではあるまい。

 私も冴島理玖と永廻ながさこ恭子きょうこを安全な場所へと連れ出したい。ついでに私自身も怪我をしないうちに退避したい。


 私が何か言うべきなのだろうか。

 絶対に求められてはいないだろうけれど。


 そう逡巡しているうちに、公主がそっと顔を上げた。


「……違うね」


 公主がそう言うと、ぴんと張りつめていた空気が少しだけ緩む。


 公主待ちだったのか。


 榎木丸潤也はバックドアから視線を外して、公主に向かって一度頷く。次の瞬間には、踵を返し、我々の横をすり抜けると部屋を出ていった。


「もういいよ。ご協力感謝する」


 公主のその言葉と同時に、バックドアが公主から離れる。


「復讐か……」


 バックドアの声が、このとき初めてこちらにまで届く。


「もう遅いよ」


 公主は笑って言った。

 その返事を聞くことなく、バックドアは床の液体に飛び込み、そして消えた。


 それを見た冴島理玖が走り出す。


 一緒に中に入るつもりだろうか。


 止めようと手を伸ばす。

 タイミング悪く、私の携帯電話が鳴り始める。

 森咲トオルも動き出したのが見えた。

 冴島理玖は液体には入らず、ふちに座って、中を覗き込んでいる。


 大丈夫だ。

 冴島理玖のことは森咲トオルに任せて、私は電話に出ることにした。


 部屋の隅に移動する。

 電話の表示はアザミさんだ。


「もしもし」

「すまない。突入になった」

「え? 早くないですか?」


 もっと事前に攻防があると思っていた。


「小学生と女子高生を人質に、廃校に立て篭っていると電話があった」


 冴島理玖と永廻恭子のことだろうか。


「人質の身に即危害を加える可能性を示唆したんだ」

「その二人、ここにいますけれど」


 二人の他にも小学生と女子高生がいるかもしれないが。


「今の状態を人質だと言えなくもない」


 私は部屋を振り返る。


 公主が冴島理玖に話しかけている。

 冴島理玖は公主と目を合わさぬようにだろうか、顔を伏せたままにしている。


 もしかしたら公主の力で、我々をここから出さないようにできるのかもしれない。

 それならば確かに我々は人質だ。

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