第75話 恭子23

「……榎木丸えのきまるあずさ?」

 桔梗さんの小さな声が聞こえた。


 一度しか会っていない。けれど、涼子の想い人かもしれないと、じろじろ見てしまっていたから覚えている。あのとき、この人の口元にほくろはなかった。だからこれはメイクで付け足したものだ。


 ただの女装ではない。

 洋服も、わざわざ血で汚れたものを着ている。

 誰かに似せているんだ。


 榎木丸梓。


 それは無表情の人の名前だろうか、それとも似せたい女性の名前だろうか。


 無表情の人はまっすぐ公主のところへ歩いて行くと、ぴたりと止まった。見ているのはおそらく、公主の背後にいるバックドアと呼ばれた男性だ。


 男性のほうも無表情の人を見返す。鋭い瞳だ。目の下に隈がある。その隈が、この男性を現実に生きている人なのだと印象付けていた。


 静かだった。

 どちらも話さない。

 空気が重苦しい。

 自分の呼吸音がうるさく感じられた。

 不用意に動けない。周りの人もそうなのだろう。誰も身じろぎひとつしない。


 無表情の人の背中からは、表に出てこない激しい感情が漏れ出ている気がした。

 この男性と無表情の人との対面。

 これが『こちらの用』か。


 公主は半眼で床のあたりに視線を投げている。笑っているような口元のせいで、彫刻や仏像のようだった。

 浅い呼吸を繰り返して苦しくなった私は、公主の顔を眺めてやり過ごそうとする。

 と、その眉がすっと動いた。

 目が大きく開く。


「……違うね」


 公主がそう言うと、無表情の人は頭が動く。男性から目を逸らして公主のほうを見た。頷く。

 そしてまた、私たちの間をすり抜けると、扉から外へ出ていった。

 決意の目をしていた。


「もういいよ。ご協力感謝する」


 公主の言葉で、私は大きく息を吐く。

 背後にいた男性が、公主から離れた。


「復讐か……」


 男性の声だ。

 何の感情も伴わないような声だった。でも、その瞳はわずかに動揺で揺れていた。


「もう遅いよ」


 公主が笑った。


 男性はさらに公主から離れると、床に飛び込んで、そして消えた。

 そうとしか見えなかった。

 まるでそこに穴があいているかのように。

 いや、あるのは水たまりだ。

 それを見て理玖くんが飛び出す。


「理玖!」


 森咲さんが追いかける。

 理玖くんは男性が消えた場所の側に座ると、そこにあった水たまりを覗き込んだ。


 水たまりは鏡のように部屋の中を映している。ただの水ではなさそうだ。

 壁には細長い水筒のようなものが転がっていた。

 さっき、後輩さんがよろめいたときにした音はこれだろう。当の後輩さんは、その騒ぎの中静かに外へ出た。


 公主が理玖くんにペンを渡し、理玖くんはそれを水たまりに差し込んだ。けれどそれは床を突っついただけになったようだ。


「中に入れないかい?」


 公主が訊ねて、理玖くんが頷く。


「残念だ」


 さっきの男性は本当にその水たまりに消えたのだろうか。

 

 桔梗さんが部屋の隅に移動し、ポケットから携帯電話を出すと耳に当てた。

 すぐに慌てた声を発する。

 同時に遠くで音がした。

 大勢の悲鳴のようなものも聞こえた。


 理玖くんを見る。守らないと。

 理玖くんはこちらに駆け寄ると私の手を取った。

 

 

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