第2章 葛藤
葛藤~前編
翌日から私とクドリャフカは多忙な毎日を送った。まず、クドリャフカはラジオ出演を果たした。モスクワ市内にあるラジオ局に呼ばれ、ヤコフ、イワンと共にスタジオへ向かった。ナビゲーターはスプートニク一号の話題に触れ、続いて二号の打ち上げが決定していること、それには世界初となる生物を乗せることを改めて報道。その具体的な内容について、ヤコフとイワンがナビゲーターの質問に答える形で詳細に語った。
「さぁ、それではここでラジオをお聞きの皆さんへ、世界で初めて宇宙へと飛び立つ偉大な宇宙犬クドリャフカの生の声をお届けしましょう! クドリャフカ、今の気持ちを聞かせてもらえるかな?!」
マイクを向けられたクドリャフカは驚いて目を白黒させている。私はマイクを指差し、小声で「吠えて!」と声を掛けた。最初は戸惑っていたが、周りから期待の眼差しを向けられたクドリャフカが遂に声を上げた。
「ワン! ワン!」
「おおーっ! とても元気がいい! これは期待が高まるね! クドリャフカ、どうもありがとう!」
興奮したナビゲーターは大きく拍手をし、感激の言葉を連ねていた。見守るラジオ局のスタッフ達も満面の笑みを浮かべ、クドリャフカに向かって大きな拍手を送っていた。ヤコフがその様子を得意気に見つめていた。計画が順調に進んでいる為か、ここのところヤコフはとても機嫌が良かった。
終了直後からこの放送は大きな反響を呼び、ラジオ局はもちろん宇宙開発本部にも視聴者からクドリャフカへの応援の電話が殺到した。スプートニク二号、そして宇宙犬クドリャフカはいまや国中を巻き込んだ、大きな社会現象となっていた。ラジオ局を出た私達はその足で近くにある宇宙開発本部へ赴いた。打ち上げられるロケットが完成間近だということで、改めて説明を聞く為である。本部の中に入ると、小さな会議室に通された。
「当然だが、ロケットは宇宙基地にある。実物がないからイメージが沸かないかもしれんが、できるだけ詳しく説明をする努力をしよう。気になることがあれば何でも聞いてくれ。イワン、お前はもう一通り聞いているだろうが、念の為、再度確認をしておいてくれ」
ヤコフはそう言いながら大きな設計図と、ロケットの仕様、役割など詳細が書かれた書類の束を私とイワンの目の前に置いた。先ほど彼が言った宇宙基地とは、つまりロケットの発射場のことだ。
この基地はカザフスタンの中にあるバイコヌールという街にある。ここからは飛行機でないと辿り着けない場所のため、事前に行くことは難しい。つまり、私たちがその場所へ行けるのは打ち上げ本番の時だけだ。ヤコフは設計図を示しながらロケットの説明を始めた。
スプートニク二号はロケットの先端に取り付けられている。それらは打ち上げられた後に自動で切り離され、宇宙空間ではスプートニク二号が単体で飛行を続ける仕組みになっている。その他の情報としては、スプートニク二号には無線発信機、バッテリー、宇宙線や紫外線などの観測センサー、そして犬の生命維持装置などが設置されている。
この生命維持装置は最大で約一週間の維持が可能とのことだった。各種センサーは宇宙環境の観測を行う為のもので、生物の体に宇宙線や紫外線といったものがどれだけの影響を及ぼすのかを把握する意味合いもあった。それはいずれ実行されるだろう有人宇宙飛行を意識しての装置でもある。餌は水と合わせたゼリー状のものが用意され、一日一回、食事の際に自動で犬の前に出される仕様になっているという。私はここで、ふと疑問が沸いた。
「あなたは先ほど、生命維持装置は約一週間維持できる、と言いましたが……それは、スプートニク二号は約一週間飛行した後に地球に帰還する、ということですか?」
「まぁ、そういうことだ。正しくは帰還、ではなく大気圏突入、だが。」
私は、何かがおかしい、と思った。ヤコフの言っていることは矛盾している。少し困惑しながら隣に座るイワンに視線を向けた私は驚いた。彼は手元の書類をじっと見つめたまま、押し黙っているのである。私は嫌な予感がして、更に彼を問い詰めた。
「クドリャフカの帰還装置はどうなっているんですか? 大気圏突入の際に彼女が乗っているカプセルだけが分離し、回収されるということですか?」
「いいや」
「いいやって……じゃあ、一体どういうことなんですか?!」
煮え切らないヤコフの態度に苛立ちを覚え、私は椅子から勢いよく立ち上がり、机を両の拳で思い切り叩いた。すると、隣で押し黙っていたイワンが立ち上がり、私を制した。
「オリガ、もうやめなさい。ここまで言ったら分かるだろう?」
私は驚いて、イワンの顔をじっと見つめた。黒縁眼鏡の奥のいつもは優しげな瞳が不安そうに、また悲しそうに揺れているのが分かった。私は悟った。と、同時に絶望的な気持ちになった。
「帰還装置なんて、ついていないのですね……」
ヤコフはああ、そうだ。と言ってその理由を語り出した。けれども、私の耳には全く届かなかった。クドリャフカは宇宙へ行ったらもう帰ってくることはないのだ。もう二度と、一緒に遊ぶことも、星を見ることもできないのだ。ふと、私は思った。帰還装置がついていないということは政府は初めから犬を帰す気などなかったのではないかと。ヤコフは今まさにその話をしていたところだったが、私は全く聞いていなかった。急激に怒りが込み上げ、私は彼の襟元に掴み掛った。
「あなたたちは犬を……クドリャフカを……見殺しにする気なの?!」
「オリガ、やめなさい!」
イワンが私をヤコフから引き離そうとした。しかし、私はもう自分を止められなかった。頭に血が上り、両手や口元が震えた。私はこれまで、これ程の怒りを感じことがあっただろうか、いや、ない。
「違う。我々は見殺しにする気など一切ない。帰還装置を開発するには時間が足りないのだ。政府から打診があったのが一か月前、そして打ち上げまであと一週間もないのだ」
「そんなのただの言い訳じゃない! 時間がないからって命を奪っていいと思っているの? 命よりも時間が大切なの? 国の名誉の方が大切なの? あなた達のやっていることは人間として最低なことよ!」
弁解を諦めたのか、ヤコフはそれ以上何も言わなかった。私の顔をじっと見つめて何かを考えているようだった。そう、それは犬たちを観察している時と同じ目だった。
「それに……なぜ、そんな大切なことを今まで私に教えてくれなかったの? ねえ、イワン、あなたは今まで全てを知っていながら私とクドリャフカのことを見ていたの? 私が彼女に毎日、何て語り掛けていたか知っているわよね? 『宇宙から帰ってきたら話を聞かせて』って……」
悲しくて、悔しくて、涙が溢れた。そして、今まで何も知らずにいた自分自身を情けなく思った。
「選考でクドリャフカに決まった時、みんながパーティーを開いてくれたけど、イワン、あなたもいたわよね? 知っていて全て傍観していたの? それに、あなたは最初に言っていたわよね? 『犬たちを対等な一人の人間として捉え、彼らと向き合ってくれ』って……あんまりだわ!」
「オリガ、すまない……僕だって辛かったよ。僕だって……上の人たちに何度も掛け合って、何とか犬を帰還させて欲しいと頼んだんだ! でも、どうしようもなかった。僕の力では上の人たちの考えを変えることができなかった……すまない……オリガ……クドリャフカ……」
イワンは堰を切ったようにそう語ると、眼鏡を外して片手で顔を覆った。泣いているようだった。私は彼のこんな姿を見たことがない。その姿を見て、イワンは彼なりに、たった一人で大切な犬たちの為に手を尽くし、心を尽くしていたということを悟った。
「今から帰還装置を作ることはできないんですか? ロケット開発チームにはエリートが揃っていると聞きました。時間がないのは分かっていますが、何とか彼らの力で……」
「オリガ、そんなことは不可能だ。諦めたまえ」
「じゃあ、私がクドリャフカの代わりに宇宙へ行きます! 私は宇宙へ行けるなら死んでもいいんです! だから、クドリャフカはどうか助けてください、お願いしま……」
「お前は馬鹿か?!」
私が言い終わらない内にヤコフは話を遮って声を荒げた。眉間に深い皺を寄せて、目を見開いていた。怒りの形相だった。
「とうとう気が狂ったか? オリガ、よく考えてみろ、お前は犬に情が移り過ぎている。それだけじゃない、本来の目的を見失っているぞ」
私は彼のその表情、そして言葉にハッとした。たった今自分が発言したことが、どんなに愚かなことだったか……
「お前は今、クドリャフカの代わりに自分が宇宙へ行くと言ったな? そんなことが出来たらもう既に実行している。それが出来ないから、我々は『まず動物を宇宙へ飛ばす』ことを考えているんだ。全ては、近い未来に我々が宇宙へ行く為の計画なんだ。いいか、もう一度言う。我々の目的は『生物を宇宙へ飛ばすこと』だ。『犬を宇宙から帰還させること』ではない」
「…………」
「我々も、出来ることなら犬を帰還させてやりたいのだ。何も殺すために宇宙へ飛ばすのではないからな。だが、残念ながら我々の技術ではまだその段階に行きついていないのだ。クドリャフカと共に過ごしてきたお前には酷かもしれんが、人間が宇宙へ行く為には少しの犠牲も仕方のないことなのだ。お前の、宇宙への熱意に動かされて、私はお前をこの業界へスカウトしたんだ。期待しているからな。それから、あと数日後には宇宙基地へ出発する。それまでに身の回りの整理をしておけ。心の方もな」
ヤコフはそう言って、言葉もなくうなだれる私の肩をぽん、と叩くと足早に会議室を出て行ってしまった。ヤコフは私の反応を予想していたに違いない。ショックを受け、激昂するだろうと。だから、私にはこの話をあえてしなかったのだ。そしてイワンも、ヤコフによって口止めされていたのだろう。
私はこれまで宇宙について様々なことを学んで来た。しかし、自国のロケット開発がどの程度まで進んでいるのかなど、専門家でなければ分からないような分野については全くの無知だった。だから、国のロケット開発技術が帰還装置を付けるに至っていないことなど知る由もなかったのである。
そして、この話を知らされていないのは恐らく私だけではない。トレーナー全員がこの話を知らないはずだ。明かせばきっと、トレーナー達の猛反対に合い、ただでさえ猶予がない計画の遂行が更に滞ることをヤコフは恐れたに違いない。「人気者だから」という理由でアルビナが選考から外れたのも、この話を受けると納得がいく。宇宙へ行った犬はもう二度と帰ってこないからだ。あまりに残酷な話だった……
しばらく沈黙が続いた。会議室の中は一気に冷え込み、吐く息が白くなっていた。くぅん、と足元で声がして、私は視線を落とした。クドリャフカが心配そうに私の顔を見上げていた。
「クドリャフカ……」
あまりにも衝撃的な出来事に、彼女がこの場にいたことも私は忘れてしまっていた。彼女の顔を見て、私は咄嗟に思った。
「今の話、全部聞いていたのよね……?」
クドリャフカは私の足に顔を摺り寄せていた。私は腰を落とし、彼女の小さな体を思い切り抱きしめた。何もできなかった自分、どうすることもできない現実、彼女に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。それと同時に、突然目の前に突き付けられたいずれやってくる「永遠の別れ」をどうしても受け入れることができず、ただただ悲しくて悔しくて涙が溢れた。
「何もしてあげられなくてごめんなさい……クドリャフカ……」
彼女は涙でぐしゃぐしゃになった私の顔をぺろぺろと、心配そうに舐めてくれた。彼女が今の話を理解しているのか、私には分からなかった。そんな私達の様子をイワンは何も言わずにじっと見つめ、時折悲しそうに片手で顔を覆っていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます