淑女の嗜み
私とシャロは、艦の操縦を副操縦士に任せ、カーゴルームへ続く通路を歩いていた。本当に命拾いをした。もしもあのまま私が操縦席に座っていたなら、最悪の場合、今度こそこの艦は落ちていたかもしれないのだから。
だけど、そんなことはシャロにだって分かっている筈。だというのに、どうして今すぐに甲板へ向かわなくてはいけないのだろう。それも、わざわざ私なんかを同行させてまで。
「あの、シャロ、どうして今甲板に向かう必要があるんですか? 確かに艦は動くようにはなったけれど、それでもやっぱり、操縦室にはシャロがいた方が……」
「理由は三つですわ。一つは破損個所を確認する為。もしも致命的な場所が故障でもしていたなら、すぐに修理しなければなりませんから」
「えっ、シャロって、飛空艦の修理ができるの?」
「
淑女の嗜みとは。まぁそもそも、彼女は艦の異常個所の修正や、操縦までやってのけたのだから、修理ができたっておかしくはないのかもしれない。
………………。
いや、この人がなんでもできるせいで感覚が麻痺していたけれど、航空艦の操縦も修理もできるというのは、やっぱりおかしいのではないだろうか。
「二つ目の理由は、甲板にリドワンが残っていないかを確認する為に。もし一体でもバレルが取りこぼしていたなら、最悪この艦はまだ落ちる可能性があります」
「リドワンって……外を取り囲んでいたアンヴァラス、ですよね? やっぱり、危険なアンヴァラスなんですか?」
「個体差こそありますが、そうですね。日本で雫を襲っていたアンヴァラス五体よりも、リドワン一体の方が脅威度が高いと言ったらなら、分かりやすいでしょうか」
「そ、そんなに⁉」
そんなのまるで想像も付かない。カーゴルームで出会った謎の女性は、そんな危険なアンヴァラスが、確か二百体以上もこの艦を取り囲んでいたと言っていたのではなかったか。改めて状況を想像してみると、今更になって身震いしてしまいそうになる。私たちが助かったのは、本当に奇跡的なことだったんだ。
………………。
あれ、何かがおかしい。違和感がある。その違和感は、そう、具体的に言うならば、シャロと私の何かが嚙み合っていないような。けれど、シャロの言った言葉を頭の中で
そう言えば、バレルさんはどうしたのだろう。そうだ、これが違和感の正体だ。甲板ではバレルさんが戦っていた筈。なのに、そのアンヴァラスを取りこぼすとは。そしてそのアンヴァラスをシャロが撃退するとは、一体どういうことなのだろう。
「あの、シャロ。バレルさんは……」
「それが三つ目の理由ですわ」
「えっ、三つ目の理由って――」
聞き返したところで、私たちはカーゴルームの前に辿り着く。するとシャロは無言でバルブを掴んで回して、無造作にドアを開ける。カーゴルーム内には未だガスが充満していたけれど、先ほどよりは幾分か視界が晴れ、それによって部屋の惨状がより明確に視認できた。
カーゴルームは荷物を積載する性質上、艦内で最も頑丈な造りとなっている。にも関わらず、硬質で頑強な金属製の壁や床も、あちこちをまるで鋭利な刃物か何かで斬り裂かれたような痕が見受けられ、この上の甲板で行われていた戦いの激しさを物語っているかのようだった。
「うわっ……一体、どうやったら、こんな……」
「神威ですね。壁や床だけではありませんわ。ここも、ほら」
シャロの指さす先には、積み荷のカプセルが鎮座していた。カプセルも周囲の壁や床と同様に、あちこちが斬り裂かれていて、今も尚中からガスが漏れ出している。
「最後に見た映像では、開いたカプセルの中に人が見えたのですが」
「今は閉じていますね。シャロが見たっていうその人が、さっき私が会った人だったんでしょうか」
「分かりません。ですが、とりあえず、艦の被害状況がこの程度で済んだのは幸いでしたね。もしも主翼や
「…………、えっ?」
シャロは今、なんて言ったのだろう。バレルさんの、犠牲? そんな言い方じゃ、まるで――。
「……シャロ、さっき聞きそびれた三つ目の理由って、何なの?」
「バレルの遺体を回収する為です。本当は後にしても良かったのですが、甲板に放置したままでは
そう、あっさりと言った。バレルさんが死んだ? そんな筈がない。だって、私たちはこうして無事なのに。そもそもバレルさんが死んだというなら、シャロだってそんな風に平然としていられる訳がない。
「冗談、でしょう……? バレルさんが、死ぬなんて……」
「リドワンの大群を相手にしたのです。そんな状況で生きていられることを信じられるほど、私はロマンチストではありませんよ。あの男も、それが分かっていてあそこへ残ったのです。しかしそれは艦を逃す為には最も最善な手段で、仕方のない犠牲だったと割り切る他ありませんわ」
「…………ッ」
理解の追い付かない私を置き去りに、淡々と語りながら、シャロは部屋のあちこちを見て回っている。きっと艦に致命的な故障が無いかを確認しているのだろう。
どうして、そんな風に割り切れるの? 確かに、きっと彼女は私なんかよりもずっと、何度も
そんな言葉が喉元まで出かかったところで、私はそれを呑み込んだ。シャロと揉めるのは嫌だったし、それを私が言ってしまうのは、何かが間違っているような気がしたから。
概ね部屋の状況を見て回ったシャロは、一人葛藤する私を他所に、甲板へ続く階段を上がって行く。腑に落ちないまま、それに続いて私も後を追いかけると、ドアの前でバルブに手をかけたまま、シャロの動きが止まっていた。
「……シャロ?」
「いえ、少し疲れてしまったようで、力が入りません。雫、すみませんが、手を貸してもらえますか?」
「あ、うん……ごめん、気が利かなくて……」
言われるがまま、バルブに手を伸ばす。そのとき、私の手が微かにシャロの手に触れる。冷たい。バルブが、ではなく、バルブを握っているシャロの手が、驚くほどに冷たかったのだ。それはとても血の通った人間の温度とは思えない。日本で彼女に触られたとき、間違いなくこんなに冷たくはなかった筈なのに。
いや、それだけじゃない。氷のように冷たいその手が、細かく震えていた。恐る恐る、横からシャロの顔を盗み見ると、その幼さの残る顔は、表情こそ変えてはいないものの、一瞥しただけでも血の気が引いて真っ白になっていることが明白だった。
平気な筈がない。割り切れる訳がない。この場に私を同行させたのも、一人ではバレルさんが死んだという事実を受け止め切れないからだ。そんなこと、少し考えれば分かった筈じゃないか。馬鹿だ、私は。大馬鹿だ。
そんな後悔の念を抱きながら、彼女の手に私の手を重ねる。
「雫?」
「…………ッ」
「……雫の手は温かいですね。もう少し、このままでいても?」
「……うん」
何の罪滅ぼしにもならないけれど、シャロが望むならそうしていよう。今私にできることなんて、それくらいしか思いつかないのだから。
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