武田勇戦記

@wizard-T

序章 北条氏康の遺言

北条氏康の遺言

 元亀二(1571)年、小田原城。




 その天守閣で、一人の男が激しく咳をしていた。




「父上、お体は」

「よろしい訳がねえだろ、うっ……!」


 男は座っているのも苦しそうで、男を取り囲む人間たちの顔色を本人以上に青く染めている。


「お前もさ、もういい加減三十四なんだろ、シャキッとしろ、シャキッと……!」

「心得ております、しかし正直」

「頼りねえせがれだよ、ったく……!」


 男は必死に目を見開き、目の前の情けない顔をした息子を見下ろす。

 五十七歳になってもその威を失わない蓋世の雄の目にひるむ息子たちに、男は再び背筋を伸ばす。


「なあ氏政、お前じゃ無理だ」

「…………」

「なんか言い返せ!」

「では国王丸(氏直)を元服させ」

「馬鹿、アホッ、アホッ……!」


 発破をかけてなおまったく反応しない息子にさらに檄を飛ばしながら、北条氏康はまた激しくせき込んだ。

 背中をさすろうとする息子たちを振り払うように右手を振り、また激しくせき込みながら目を見開く。


「要するにだ、もう武田と争うのはやめとけって言ってるんだ、武田信玄にはお前じゃかなわねえって……!」

「では上杉と徳川を切れと」

「当主の癖に何でも聞くんじゃねえ、そんなんだから、お前は……!」


 仲良しこよしと言えば体裁はいいが、その分だけ動きが鈍くよく言えば保守的悪く言えば勇敢さのない嫡子、いや後北条氏四代目当主・北条氏政。




 その息子に、遺言を必死に残そうとしていたのは、後北条氏三代目当主、北条氏康。




 かつて川越夜戦にて足利一族を破り関東の覇権を確立した、相模の獅子と呼ばれた男。


「お前は昔っからさ、汁かけ飯もうまくできねえで、やべえなとは思ってたけど、ったく幻庵叔父様の兄者から続く御家も、四代経つとこんななっちまうのかねえ……」

「しかし」

「氏政、お前はとにかく関東に軸足を置け。佐竹や里見を打ち砕き、関八州に三つ鱗の旗を立てる事だけを考えろ、西側の守りは武田にやらせればいい、それぐらいの気持ちで行け」

「…………」


 だがその獅子の最後の咆哮にも、息子の動きは鈍い。じっと縮こまって方向を待つ小鹿のように息を殺し、一刻も早く咳と叱責が終わるのを待つかのように平伏している。

「誰かなんか言えよ!」

 氏政だけではなくその弟の氏照や氏邦、松田憲秀、大道寺政繁と言った重臣もいたが、誰一人まともに言葉を発さない。


「その、父上は御年五十七でございますが、その……」

「聞こえねえよ!」

「ですがその、信玄もまた、五十一……!そして勝頼は……」

「んな事お前気にしてるのか!」

「はい!」


 ようやく氏政から出たまともな声が自分自身の弱気ぶりを肯定するそれだったのに氏康はまた失望し、同時に納得もした。


「ああそうか、理屈は本当にごもっともだよな。ったくお前は本当にもう、頭でっかちだよな」

「ええ、武田勝頼は勇猛だと入っておりますが、正直……」

「わかってるよ。信玄ほどの器じゃねえ、お前と同じように」




 氏康が見る限り、武田勝頼もまたさほどの男ではない。

 勇猛果敢であり一軍の将としては使えるが、ここまで膨れ上がった家の当主かと言うと疑問符が付く。それにお坊っちゃんな長男坊の氏政とは違い、勝頼は四男坊でぶっちゃけ当主になる見込みなんぞなかったはずだった。

 ところが、次男が盲目、三男が夭折ってのはいいとしても、長男の義信を今川家とのいさかいにより自害に追いやった結果、勝頼に回って来た訳である。

 そのいきさつを知った氏政は憤りと呆れで何も言えなくなり、氏康も腹を立てて武田との断交を決め込んだ。それをきっかけに駿河で戦い、小田原城を攻められた事もある。


(あれも悪い男じゃねえけどな、何より威張りくさる所の一つもねえ男だ。だが、良くも悪くもそれまでさ)



 氏康は、今川氏真の事を思い出していた。


 十一年前、ここから一気に天下統一と意気込んでいた今川氏真の父義元が、桶狭間にて尾張の小大名、大うつけとして有名だった織田信長により死亡。その出兵に全力をつぎ込んでいた今川家はあっという間に傾き、さらに配下であった三河の徳川家康も独立、織田と手を組み遠江を脅かしており、もはや氏真の居場所は嫁の実家である北条しかなくなっていた。

 人畜無害。それが氏真の印象だった。

 どんなに言われても聞き流し、自分にできないことはせずできる事しかしない。気合と意地が優先される武士からしてみれば軽蔑されるかもしれないが、それでもあれはあれで才能だと思っている。


 とは言え、何かを変える力はない。




「なあ、風魔……」




 その氏真についての回想を終えた氏康は、自分なりの大声で三文字を吐き出した。


 その三文字の言葉とともに、いきなり現当主の横に一人の男が現れた。



 長身瘦躯。口と眉毛だけ笑っているが、目には常に鋭い光を貯めている男。




 風魔小太郎。




 北条の躍進を影で支えた忍びの一族であり、ある意味最も重要な北条家の家臣の一人だった。


「何か」

「個人的に聞きたいが、今川氏真っつー男をどう思うか」

「生きようが死のうが特に影響はなし……されど死ねば世は荒みを深める……」

「そうだな」


 氏真は氏政と同じ三十四歳。

 まともならばこれから男盛りと言うべき年齢だが、あの性格で何ができるわけでもする訳でもないだろう。ただこんな男が死ねばそれこそ乱世の悲しみを増幅させるだけであるのもまた事実だった。だが、それまでとも言えた。


「されど……」

「されど?」

「人払いだ」



 氏康は何かを飲み込むように首を縦に振り、広間に集まっていた人間たちを返した。

 氏政がどうしていいかわからず戸惑っているとお前は残れと言いたげに氏康は手を置き、三人きりになるまでじっと座り込んだ。


「父上……」

「大丈夫だ、それより頼むぞ風魔」

「承った……」







 やがて三人きりになったのを察した氏康の合図により、小太郎は懐から袋を取り出した。


 都で作られたような金糸の散りばめられた布包みに、氏政の目は輝き氏康の目は冴え出した。


「それは何だ」

「これぞ、風魔の秘伝……」

「言え」


 風魔の秘伝と言う単語によだれを垂らしそうになる息子を見ないようにしながら、氏康は風魔の口を動かさせた。


「では………………」







 そして風魔小太郎から語られた秘伝の正体に、氏政の顔は歪みまくった。




「いや、でも、その、しかし……!」


 最初は顔中が開き、次に首が傾き、そして笑顔になり、最後にまた顎が外れそうになった。




「間違いなく、本当の秘伝……」

「その秘伝を父上に!」

「いいや、信玄にやる」

「何故ですか!?」


 そして当然の如くその秘伝を父親に使わせようとした氏政に対し、氏康はとんでもない事を言い出した。


「父上は武田信玄と組めとおっしゃいましたが、今はまだ武田とは」

「だからこれを機に、アホッアホッ……!」

「ですが、北条の民は…!」


 罵倒めいた咳に思わずひるむ氏政だったが、それでも音量だけは下がらない。

 昨日の敵は今日の友と簡単に言うが、それを納得させるのは簡単ではない。

 その事を知っているのになぜ軽々とそんなことを言えるのか、しかもわざわざ風魔の秘伝と言う最高級の切り札をくれてやらねばならないのか。


「お前は俺に生きていて、もらいたいのか」

「無論でございます!父上とともに関八州を制し!」

「その先がねえんだよ、北条にはっ!」


 北条家は基本的に北と東にしか兵を向けていない。伊豆から西はほぼ小田原城を守る盾でしかなく、侵攻方向は常に上野・下野、下総・上総・安房だった。今でも常陸の佐竹氏、安房の里見氏などと戦っている。

 ではその先に何があるのか。



「桶狭間で、氏真の親父が死んだだろ。それをやったのが織田信長だ」

「そうですが」

「俺の見立てじゃ、あいつは今以上にとんでもねえ存在に膨れ上がる。越後の謙信が大好きな将軍様を、殺したり放り出したりするかもしれねえ」

「しかしそんな事をすればそれこそ!」

「それが甘いんだよ、しょせん室町幕府なんぞ足利家が血なまぐさい戦いを経て天下人になった結果の代物だろうが」


 下剋上と言う言葉がまかり通ってから幾十年、征夷大将軍の権威などもうないに等しいのは間違いない。だがそれでもなお先々代の征夷大将軍から名前をもらった上杉謙信こと上杉輝虎に、三代前の将軍にあやかって名前を付けられた信玄こと武田晴信のような存在はまだまだ多い。ましてや輝虎の前は関東管領と言う氏康が叩き潰したも同然の存在から取って政虎とか名乗っていた人間が、信長を許すことはない。

「織田信長ってのはよ、誰にも負けようなんて思ってねえんだよ」

 なればこそ—————と氏政が反撃しようとした所で、氏康はさらに畳みかけて来た。


「織田の配下には食えない奴が多すぎる。そうだな風魔」

「いかにも、多士済々……」



 風魔に命じて集めさせた織田軍の将の情報は、氏政の理解を超える物だった。

 丹羽長秀や佐久間信盛はまだわかるが、一時敵対した柴田勝家、小太郎と同じ忍者と言われる滝川一益、元々水呑百姓だった羽柴秀吉、小姓上がりの前田利家……そして新人の明智光秀。

「明智については美濃の名族、斎藤道三が部下であったこと以上は現在は……」

 光秀についてはやや言葉を濁したものの、それぞれの特徴を風魔なりにきっちり調べ上げたあれこれを利かされるたびに、氏政はずっと北東にしか向いていなかった目線を強引に西へと張り飛ばされた気になった。




「わかっただろ。信長を放置することは絶対にできないんだよ」

「それを、信玄にやらせろと」

「ああそうだ。あいつは近々動く。その時のために恩を売っとくんだよ」

「なるほど……」


 ようやく説明し終えたにも関わらずまだ煮え切らない氏政に氏康は頭を抱えそうになるのをこらえ、必死に北に首を向けた。

「景虎は粗略にされねえよ。あの野郎は変に律儀だから、最後まで責任を取って守ろうとするよ。まあ用済みとして返されるかもしれねえしな」

「そうですか」

「っつーか養子として出て行ったやつのことを心配すんな、お前は本当、乱世に向いてねえな、だから俺は……!」

 武田と組んだら上杉と同盟した時に送った弟の心配を強引にねじ伏せた氏康はこれで終わったとばかりに首をそっぽに向け、体を休めた。


 ほどなくして風魔小太郎が消え、氏政もようやく重い腰を上げて去って行った。




(ったく、あるいは国王丸のために俺が……いや同じだな。どうせ俺自身長生きしても関東にしか兵を向ける気はねえ。信長が来た所でこの小田原城と民百姓を盾と矛にして戦うのがせいぜいってもんだ。

 それより信玄だ。信玄なら……!)


 息子が駄目なら孫に期待するかとなるが、だがまだ十歳の国王丸がどこまで育つかわかりゃしない。そう言えば信玄の孫はまだ五歳だ。爺を超えるかもしれねえし、とんでもないアホになるかもしれない。


 だったら今のうち、今のうちに何とかしなければならない。




 年のせいか。それとも場所のせいか。




 そんな繰り言を必死に胸の中にしまい込み、三十八歳の英雄の事を思いながら氏康は眠りについた。







 それからほどなくして、北条氏康は不帰の旅人となった。


 当然の如く葬礼は盛大に行われ、氏政以下小田原城下の人間はみな滂沱の如く涙を流した。


 そしてその葬儀の席で、氏政は氏康の遺言として武田との同盟再結成を宣言した。







(武田信玄……向こうがこっちを利用するなら、こっちも利用してやれって言う事……そうですな、父上……!)




 氏政の宣言を実行すべく家臣たちが動き、小田原城は涙も乾かぬ間に騒々しくなった。




 だがこの時の北条氏政に、どの程度の覚悟があったのか。




 ましてや「風魔の秘伝」を受け取った武田信玄にも。




 そのことが明らかになるのには、まだ少々の時を要する……。

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