望み

 イルバナが目覚めたのは近くの町のとある家のベッドの上だった。「う……うぅ……」と肺からの言葉を口から漏らしながら身体を起こす。


「おっと。起きたか」


 近くの椅子に座って、ものが散乱する机と向かい合ってるおじさんがイルバナに顔を向けて声をかけた。


「ここは……」

「あんた森の外で倒れてたから、それ見つけたやつがうちに運んできたんだ。ダメだよ? 手ぶらであの森に入っちゃあ」

「あ、うん、悪かった。それでここは……?」

「助けたやつにちゃんとお礼言いに行くんだよ?そいつの場所まで連れてってやるから。な?」

「ああ、もちろん。それでここは……?」

「ここ? ブライス町だよ。あんたがいた森の近く」

「うん、まあ、だろうと思ったけど、それでこの場所は……?」

「なんだよ質問ばっかりだな!」

「え? いや……ごめんなさい」


 なんだかやりづらい相手だなとイルバナは思った。


「私はこの町の医者だよ。ここは診療所なんだ」

 そう言われてイルバナは身体を見る。転んだ時の傷口のあちこちに手当てがされていた。

 そこで森で起こった出来事を思い出した。ムロウが1人で森を歩いていったのだ。


(ムロウが危ない!)


 イルバナは身体を動かしてベッドから立ち上がった。医者が音にびっくりしてそちらを見る。


「うっ!」


 イルバナの心臓に激痛が襲って脊髄反射で胸に手を当てる。イルバナの倒れかけた身体を慌てて医者が駆け寄って支えた。


「おいおい! 安静にしてろよ!」

「でも帰らなきゃ……」

「そんな調子で? 無理だよ。それに今は夜だ。少なくとも今日のところは休んだ方がいい」


 医者は医療方法に則って優しくイルバナを寝かせる。


「ごめんなさい……」

「謝ってばっかりだな。……なんで倒れたんだ?あの森の草の麻痺効果は気絶させるほどじゃない。」

「それはその…………」

「まあ、無理には聞かねえけどよ」


 言いづらそうにするイルバナ。それを察知した医者が机に戻って作業を再開する。その後はぶつぶつと「確か・・・。」や「こうかな・・・?」といった独り言を時々つぶやきながらカチャカチャと音を立てる。


「大変だね」とイルバナが話しかける。

「そうそう。今漢方薬を作ってるんだ。ミジードが……この町の子供が風邪引いたからね」


 口は回るがイルバナの方には目もくれずに作業する。

 邪魔しちゃいけないとイルバナは思ったのでもう話しかけることはしなかった。医者の発する音が妙に心地よくてウトウトとイルバナは眠りについた。


 翌日の昼すぎ。ムロウはイルバナの家の2人用のベッドの上でうずくまっていた。

 昨日のうちにムロウは無事にミラゴラスの街についた。しかし行く宛てなんて無いのでイルバナの家でイルバナの死を待っていた。

 その間ずっと自己嫌悪に苛まれていた。心優しいイルバナの死を望んでいるからだ。そしてイルバナの死は自分の行きたい道の必要経費なので心の底から望んでいる。つまりムロウは自分で選んで死の望みを持っている。そんな自分が猛烈に嫌だった。


 ムロウは帰ってきてから何も食べていなかった。食欲がないわけでは無い。しかし昨日、何か買いに行こうとした所である事に気づいた。

 イルバナはムロウに財布を預けているのだ。ムロウを信じ切っていた証拠だ。そのお金を使うと、イルバナの信頼をさらに裏切るような気がして、自己嫌悪がさらに強くなるような気がしてムロウはお金に手をつけていない。


 それどころか、イルバナが苦しんでいる間私も苦しもうということであえて空腹になっていた。そんな事しても何の意味も無いし何の贖罪にもならないなんて分かってる。それでも何かしらの形で罰が欲しかった。自分のどうしようも無い罪の意識を頭の中から出したくて、自分を苦しめる形で具現化させて自分を守る。

 イルバナの死を待ってる間、ずっとベッドの上にいた。イルバナの匂いがすると何故かやけに落ち着くのだ。だからムロウは無意識的にベッドにいることにした。


 ガチャリ、と玄関の開く音がした。

 ムロウの心臓が飛び上がる。本能で息を殺すが効果が無いのは本能で分かった。

 カツカツと足音が近づく。イルバナなのは間違いないとムロウは思った。イルバナの足音やそのペースをよく理解していたからだ。


(復讐しに来たんだ。殺しに来たんだ)


 自己嫌悪により膨れ上がった被害妄想でムロウの心臓がバクバクと高鳴る。呼吸も激しくなってきた。

 またガチャリと寝室のドアが開いた。そこからイルバナが入ってくる。それを見たムロウの恐怖はピークに達した。

 イルバナが乾いた表情で何かを言う前に、ベッドの奥の方へ後ずさりしたムロウが、近寄らないでといった感じに弱々しく震えた腕をイルバナの方に伸ばす。


「はっ、はっ、くっ、来るなっ! はっ、はっ、はっ―――」


 ムロウは恐怖のあまり過呼吸を起こしていた。イルバナはただその姿を見て、それが終わるまで待つ。

 どれくらい待っただろうか。ようやくほんの少し落ち着いてきたムロウに向かってイルバナが1歩を踏み出す。それに合わせてムロウの肩がすくみ上がる。

 イルバナがベッドの脇を通って近づいていく。近づく度にムロウの震えは増していった。


「ムロウ。何もしないよ。私はただ……」とイルバナがムロウに手を伸ばす。

 ムロウは思わず目をつぶった。


 ムロウの首元から重い何かが外れる感覚がした。恐る恐る目を開けると、ムロウの近くに首輪が落ちていた。

 何事かとムロウはイルバナの方を見る。そこにいたイルバナは悲しみに染まった顔で大粒の涙を流していた。


「自由になるんだったら邪魔でしょ? もう外すから、だから……だからさぁ…………」

 イルバナが屈んでムロウの両肩に手を置いた。

「もう、嫌わないでよ……」


 イルバナはもう限界だった。

 ムロウを何も考えずに野放しにするなんて絶対にムロウのためにならない。イルバナの個人的な感情でも離れたくなかった。

 だけどそれを超えるほど、ムロウに嫌われることが耐えられなくなってきた。これ以上、ムロウに嫌われてまでムロウを縛り付ける精神力は残ってなかった。


 間近でイルバナの泣き顔を見るムロウ。そういえばイルバナの暗い表情はほとんど見てないことをムロウは思い出した。

 リバス城で裏切った後も笑顔で接してきた。イルバナの嘘がバレた後も諦めないで笑顔で接してきた。病気の時ですら無理して笑顔を作っていたほどだ。


(そんなイルバナが、今はただ嫌われないことだけを望んで泣いている───)


 ムロウは湧き上がる衝動でイルバナを抱き締めた。もうイルバナに抱いていた一切合切の感情は吹き飛んでいた。


「ごめん! ごめんよ! 辛い思いさせてっ! もう嫌ったりしないから! もうずっと離れない!」


 イルバナの真っ赤な目が見開く。そんな事お構い無しにムロウはさらに強くイルバナを抱き締めた。


「ごめん! うぐっ……ごめんなさい!」


 そう繰り返すムロウの目からも涙が溢れてきた。何の感情で流れ出たのかはムロウ自身にも分からない。だがそんなもの気にも留めなかった。


「本当なの? それ……」


 ムロウの胸の中で唖然としたイルバナが聞いた。ムロウはイルバナの身体をそっと離す。泣き腫らしたムロウの瞳がまっすぐ向けられた。


「当たり前だろ」

「本当に……信じていい?」


 まだ悲痛の色が抜けないイルバナの顔を、ムロウは後頭部を掴んで引き寄せる。そしてムロウから唇を重ねた。

 ムロウの舌先がイルバナの無抵抗の舌先に必死に絡める。どこかぎこちないムロウの舌の動きだった。それでイルバナの涙はもう流れてこなくなった。

 およそ六秒ほどのキスの後にムロウが口を離す。ムロウとイルバナの口を繋ぐ透明な糸が垂れていた。

 ハァハァと興奮気味の呼吸をするムロウが話しかける。


「これで……信じてくれる?」

「ふふっ。全然ダメ」

 イルバナが涙で濡れた顔でいたずらっぽく満面の笑みを浮かべてムロウに向ける。

 恥ずかしさや嬉しさも込みで顔が真っ赤になったムロウはイルバナをまた抱き寄せた。そして興奮でブーストした勇気で行動を起こす。


「信じるまでやるから……」


 ムロウがベッドに倒れ込むと当然抱き寄せられてるイルバナもベッドに倒れ込んだ。ムロウの白い毛に覆われた大きな耳が真っ赤に染まっていった。

 ムロウになら何されても良いという気持ちと、ムロウがどんなぎこちない動きでやるのかという興味でイルバナは無抵抗だった。

 服を脱がすように手をかけて、鋭い目をして荒い息でこちらを見てくるムロウをイルバナは愛しく思えた。

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